見出し画像

『竜とそばかすの姫』有用性の愛とその転身。神格化とその放棄。呪縛とその消化。合理と儀礼。ニーチェとアリストテレス。ボクサーにセコンド。

映画「竜とそばかすの姫」を見た。
(ネタバレしか書いてないので未視聴の方にはおすすめしません)

画像1



めちゃめちゃいい映画だった。

大勢のトップアーティストの創作表現をごったまぜにして、どこまでもエンタメに振り切り、祝祭的でありながら、その神格化を解除する話。

外側や導入はエンタメなのに、その中身はわかりやすく気持ちよくなれるような「家族」や「恋人」や「世界」を救うハリウッド映画やセカイ系(サマーウォーズや天気の子)のような主軸とは全く真逆で、主人公が救うのは「自分とは無関係な他者」だったこと。

愛だとか正義だとかいうけれど、それって有用性の愛じゃね?『自分にとっての意味と利益』をもたらす「恋人や家族」や自分が生き残るための「世界」でもない「ただの他人」を救えるか?という問いかけがまず根幹にあったこと。

そして「他人」を救うことで、「有用性の愛」から離脱して、自分自身に強く絡まった「2つの呪縛」を解いていく構造

普遍的だけど、多くの人が囚われてる呪縛をほどく意志がちりばめられたような、解呪性と愛にあふれた明快な映画だった。だから、めちゃめちゃよかった。


1,「有用性の愛」とは

その昔、アリストテレス(紀元前384年〜)は
「有用性の愛は、相手の非難に陥りやすい」
と言い残した。

有用性の愛とは何か。

それは「条件付きの愛」だ。「役に立つ」という条件で与える愛、「頼ってくれる」という条件で与える愛、愛してくれるから愛する愛、自分以外の異性と交際しない契約付きの愛、特別扱いしてくれるから愛する愛、自分の欠けた穴を埋めてくれるから与える愛、自分が求めてる人に近付く人なら「友達でも切り捨てる勢い」になってしまう愛。

それらは結果的に、常に大きな「批判性」が同居する。
なぜなら、条件が叶わなかった時に呪いが返ってくるからだ。

主人公は、巨大な母性愛を受けて育ち、それを喪失した過去を持つ。目の前で「死にかけている他人」の娘を救ったことで亡くなった母へ、「なぜ家族である自分との時間を犠牲にしてまで他人を救ったのか。なぜ母は私を一人ぼっちにさせたのか」という答えの出ないトラウマと批判。それによる「ありのままの自分を肯定できない・自信を持てない・自罰性」というコンプレックス。2種の呪縛を抱えながら育っていく。

しかし主人公は「生身の自分でいなくてもいられる世界」を与えられて、一つの呪縛から解放される。そしてその世界で「死にかけている他人」を見つけ、救おうとする。

画像2

なぜ主人公は「竜」を必要として追いかけて抱き合い踊ったのか?そこに説明がないのは脚本不足ではないか。という声も聞くけれど、ここに「意味」は必要ないのだ。むしろ、意味や理由があったら「有用性の愛」になる。「竜」とは主人公にとって「死にかけの他人」でしかなく、母親が「自己犠牲の先で救った子供」の重なる姿でしかなく、それだけで救う理由になる。いつか自分を救ってくれたヒーローでもない、血縁者でもない、幼馴染でもない、恋人でもない、「好きになる理由」がないことが、作品の主軸として大きな鍵になる。

ラストシーン、雨の中で抱き合った二人。「竜」は主人公へ「大好き」と言うけれど、主人公の方は何も返さないのもよかった。主人公にとって「特別な人だから救った」のではないからだ。竜からしたら救われたことで特別な人になるけれど、主人公はそこが「一致しない」ところが、徹底されていて良い。

画像4


2,合理と儀礼

画像6

近頃、コミュニケーションは「合理的コミュニケーション」と「儀礼的コミュニケーション」の2つに分けられる、という話を読んだ。これが、「竜とそばかすの姫」を鑑賞する際にもちょうどハマる話だった。

現代社会に生きる私たちがコミュニケーションと聞くと,想像しやすいのは合理的コミュニケーションである。まず価値のある「内容」(言葉やもの)があり,それを送り手から受け手に届け、応酬するというコミュニケーションである。

これってある意味「有用性の愛」に近いな、と思った。
そこに「必要な中身」があるから、交わしていく。得られるものがあるから送る。失いたくないから与える。失わなさそうだから雑にする。返報性や互酬性。

一方,儀礼的コミュニケーションは,受け渡しされる内容を重視しないコミュニケーションを指す。

これは例えると「挨拶」や「ウチラいつメン」みたいなものが近いらしい。「おはよう」と交わすことに、そこに合理的な意味はない。「フラペチーノ最高」と言い合うことに内容はない。内容よりもノリ、バイブス、いい感じ、エモい感じを優先して、共有する感じ。一緒に食事をすること、キスをすること、毎日泣くまで喧嘩すること、誰かの悪口に花を咲かせること、祭り事。

コミュニケーションによってもたらせる連帯感そのものを目的としたコミュニケーション。それが「儀礼的コミュニケーション」である。

これって、序盤に主人公がUで歌う祝祭感のあふれるシーンと合致してくる。主人公は合理的世界から抜け出して、居心地の良い儀礼的世界に避難する。
しかしそこもまた「儀礼的コミュニケーション」を重視するあまり、他人の批評や批判があふれた世界でもあった。

画像5


3,『人間は常に原因と結果を取りちがえる生き物なのだ』(ニーチェ)

画像8

哲学者ニーチェ(1844〜)が、
上記のような言葉を書き残した。

もう少し、合理的コミュニケーションと儀礼的コミュニケーションの話をする。

話の「内容自体」の優先度が下がれば下がるほど、「儀礼度」が上がり、儀礼度が上がれば上がるほど、そのやりとりを交わす関係の親密度が上がるとされている。悪口で盛り上がること、共通の敵を用意すること、何かを崇拝すること、”代償を払うこと”、徹夜を繰り返し続けること、令和時代のネットニュース、SNSで連日燃え上がる炎上。これらは全て、実は「内容」はどうでもよくて、コミュニケーションのためのコミュニケーション、「儀礼的コミュニケーション」の側面もかなり多い

「合理的コミュニケーション」「有用性の愛」に近いと前述したけれど、かといって「儀礼的コミュニケーション」「無償の愛」の種にはもっとなりにくい。なんてこともこの作品では描かれてる。

母親が行い、主人公が目指した「自己犠牲」「他者を救うこと」は、儀礼的世界(U)はまた遠かった。そして主人公は一つの決断をする。

合理も離す。有用性も離す。自分の救いのはずの、儀礼世界や神格化さえも手放す決意と、それによる孤独や大勢から標的にされることの覚悟をもった瞬間。

それが、主人公がアバターを解除した状態で歌った、後半の名シーンだ。

画像3


『人間は常に原因と結果を取りちがえる生き物なのだ』

好きだからたくさん思うのではなく、たくさん考えて苦しんだから好きだと錯覚する。うちにはうちの問題があって、その中で生きているのだと、大切にされてるのだと合理化する。そんな、竜の家庭環境の実態に、思い当たるフシがある人もいるだろう。「それぞれの呪いを抱えた人たち」が現れる作品の中で、しかし主人公は原因と結果の混線をほどくために前へ進んでいく。

画像8

主人公と竜の父親が雨の中で向き合うシーンにて、支配で生きる人間が何より耐えられないことが「ありのまま見つめられること」って描写も、良かった。罵倒もしない、罰しもしない、報復もしない、ただ、見つめる。

「なぜ未成年の主人公を一人で遠くまで行かせたのか?」「あの二人は何が解決されたのか?」「致命的な脚本ミス」
と書かれていた記事があって、それは自分も鑑賞直後には少し違和感を感じた点だった。

けれど、今では上記記事には関心が持てない。
「全てを説明されないと納得しない」
「余白や後日に何があったのかは想像しない」
そんな見方でアニメーションを評価・批判することは、あまり関心が持てない。そして、全てくまなく説明されてることを「脚本がいい」と思うのは、想像力に欠けた見方だなと思う。

劇中、ほんとうの意味で竜の父親を見つめるものは誰もいなかった。社会的には疑われることなく「良い家族」として生きて、息子への暴力と支配活動を行っている最中も「傷付く次男」「背中を向けてそれを守る長男」しかいない。

竜は「僕らは僕らなりに幸せに生きてる」と言う。
父親は世間にも身内にも「暴かれてもらえない人間」で、それは、内面を見抜いてもらって生きることが出来た主人公の対比として機能しているのだ。
父親が加害者なのは事実だが、呪われてる人間の一人なのも事実だ。

その様子さえも見てきたから、主人公は立ち上がって見つめた。背中を向けても変わらない父親だから。引かない人間だから。本当はこの男も見つめられる必要がある、と。

「警察が介入して、父親が捕まって、息子たちが救われて解決」っていう
「悪人」を舞台から下ろして終わる、ってエンドじゃないところが良かったな、と後々になって思う。なぜなら、この映画は「呪縛の解除」が根幹にあると捉えてるからだ。

この作品は、そして細田守監督の作品は、寓話的で、絵本のように見るのが正しい。余白を”作る”作家性だからだ。

竜とそばかすの姫は「向き合えない苦難だらけの合理的世界(現実)から、儀礼的世界(U)への避難」をしたあとに、「儀礼的世界(U)で現実のトラウマを解消して、現実に返ってきて、合理と儀礼の更に上のステップの”愛”と”日常”に辿り着く」そういう、インターステラー的な帰着をしてるところが、めっちゃ良いのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


4,ボクサーに、セコンド

画像9

話は少し変わるけど、これも「竜とそばかすの姫」に関連すること。
最近、「ボクサーにはセコンドが必ず必要だ」という話を読んだ。

僕はすごく思うんだけど、「セコンド」ってめちゃくちゃ大事だ。セコンドっていうのは、ボクサーが試合中に休憩する時に水をかけたり、指示を出す人のことだ。コーナーにいる人たち。

あの人たちって、一見「ムダじゃね?」と思える。だって、「あいつらはリングに上がっているわけじゃない」し、戦っている「本人」ではないから。けれど、だからこそ重要なのだ。

例えば、彼の妻が死んでも、僕は他人なので、なんにも痛くない。生活になんの支障もないし、なんなら、精神的にもダメージはゼロだ。どうでもいいから。僕は「リングに上がっているわけじゃない」し、「本人」ではないから。

だからこそ、「右フックいけそうだよ」とか、テキトーなことを言える。もちろん、やっている側からすれば「できたらやってんだよ」と思うかもしれないけれど。それでも、「関係ないやつ」の分析の方が、「関係あるやつ」よりも精度が高い時がある。特に、「ボコ殴りにされた時」とかは、そうだと思う。

殴られたボクサーはゾンビになる

「与えられた使命をこなしているだけ」の状態を、僕はゾンビと呼んでいる。それは別に悪い意味ではなくて、そういうモードだ。直線的であるから変化には弱いけれど、まっすぐのパワーにおいては他に追随を許さない。ゾンビ。

殴られたボクサーは正気を失う。脳がぐらぐらするし、酸素も足りなくて考えが及ばない。となると、セコンドの声を聞いてその通りに動くゾンビになった方がいい。誰かに素直に操作されておく方が、局面を打開できる可能性が高くなる。

だから、セコンドが必要だ。ボコ殴りにされたら、「行政」っていうセコンドをつけて、「右フック狙おう!」とか言われよう。「そんなことできたら苦労してねえよ」と思うかもしれないけど、それが最短ルート。相手がよろめいたら、一気に楽になる。今のその苦労は、そんなに続かない。

引用元(https://note.com/taichinakaji/n/n1f619017f217)

この映画の主人公は、セコンドに非常に恵まれてる。

サポートする友人、気付いてたけど気付かないフリをして見守る大人たち、「母親の役割」を担う幼馴染と父親。

セコンドがいるから、戦える。判断が出来ない時に、支えることが出来る。対極的に、主人公が出会う「困難者」の多くが「セコンド」が不在である。「自分ひとりで解決しようとする」から、になる。「与えられた使命をこなすモード」しか出来なくなるから、ジャスティンになる。正しい判断を失うから、竜の父親になる。

画像10

セコンドがいないから、頼れないから、解決と回復に時間がかかる。

そして、セコンドがいないと、「こちらのことをサンドバッグ」と思ってる相手を「セコンド」と思い込みこんでしまう副作用が発生する。(逆に「セコンド」「対戦相手」と混乱したりする)

それがニーチェの『人間は原因と結果を取りちがえるもの』であり主人公を拒絶した際の竜であり、「僕らの家族はこれで幸せだからもう関わらないで」と突き放す竜だ。

この映画は、セコンドの重要性、というものもまた、教えてくれたと思う。そしてセコンドとは、自分が誰かに向き合うことで、向き合ってもらえるものだ。あなたはセコンドがいないと思ってるかもしれないけど、あなたがそう思えば誰もがセコンドになりえるのだ。頼りにくい時は、誰かのセコンドを名乗り出てみればいい、そうすれば、誰かにセコンドをしてもらえる。切り捨てるから、頼れなくなる。力を貸せば、貸してもらえる。戦うのはそこからでもいい。しんどいときはゴチャゴチャ言ってくるけど、回復したら、あとは黙って試合に押し出してくれる人のことを、信じてみてもいい。対戦相手や自分自身だけではなく。

画像11


以上が「竜とそばかすの姫」の大好きなポイントと、連想した4つのこと。
予告編の時点では似てる感じなのかなと思った「サマーウォーズ」と圧倒的に違う点だ。主人公は、自分となんのつながりもない、異性として好きなわけでもない、「死にかけている他者」を見つけ出して、救うことに専念する。それが主人公にとって、自分自身を救うこと、自分自身のトラウマを理解して、呪縛を解くこととつながる。主人公は特別ではない。「なぜ母親は家族と一緒にいる時間を奪ってまで他人を救って亡くなったのか」という謎と呪いを解くための解答へ立ち向かった、僕らと同じ呪縛から抜け出すためだけに必死な(けれど一つだけ才能をもった)女の子だ。

その戦いの先で手にいれたものが、世界平和でもなく、明確な利益でもなく
「父親との夕ご飯の時間」
「恩人との和解」
「加工を外した生身の状態でも歌える(生きられる)ようになること」
ってところも、めちゃめちゃいい。


画像12

主人公は、日常に帰っていく。日常を愛せるようになる。愛してくれた人、必要としてくれた人、今までレンズがぼけていて見れなかった人のことを、見つめられるようになること、それが、何にも勝るハッピーエンドだ。

シン・エヴァといい、そばかすの姫といい
昨今のアニメ映画の名作の共通点に
「呪縛を解くこと」「神格化キャンセル」が軸に見える。
特別な能力を持つことや、世界を救うばかりを描いてきたけれど
もっともっと大事なものがあるだろう、というテーマ。

画像13


世界を救わなくても価値はある。神格化を解除した先でも生きることは出来る。愛は有用性以外にも駆使できてこそ、本当の意味で自分自身を愛し、受け入れることにつながり、結果的に、より深く隣人を愛することが出来る。

そして儀礼的コミュニケーションだけに囚われないように、セコンドを大事にするように。

そんなテーマでどこまでも作り込まれた作品が、言葉が、思いが、美しいなと思ったのである。

「他人」に向き合うことはできるか?

一方通行の関係や、批判性をともなう、有用性の愛ばかりであふれる現代に、これ以上ない大きな問いかけをしてくれた傑作だった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?