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2020年8月双葉町取材③/希望の牧場へ

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 マリンハウスふたばを後にして、中間貯蔵施設エリアを見ながら移動する。仮置き場から仮置き場へ、もしくは白い鉄板で覆われた小屋の中へ、フレコンバッグが移動される。真っ黒なビニール袋が風化し劣化した様は、不気味ささえ漂う。まるで排泄物の山のようにも見えるこの黒い袋は、しかし、その外見とは裏腹に全ては福島県民の財産だったのだ。

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 財産だとわかってはいても、いや、わかっているからこそ、どうにもそのビジュアルに気が滅入ってしまう。鵜沼さんの運転で移動しながら、僕はここで何を話したかよく覚えていない。記憶にあるのは、ただ口を開けてあっけに取られたような顔でカメラのシャッターを切り続けたことだけだ。このエリアに入るのは3回目、6月にOさんとこの地を訪れているのに、何度来ても圧倒されてしまう。

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 中間貯蔵施設エリアのゲートでチェックを受けてから外に出て、そこからは双葉のバラ園方面へ。

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 常磐道に近い場所には、大きな仮置き場が作られている。福島県内の避難指示解除された場所からはほとんどのフレコンバッグが中間貯蔵施設へと移動されたが、帰還困難区域内にはまだ仮置き場が残されている。

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 今年(2021年)3月、東京五輪の聖火リレーの車が常磐道を通過した。フレコンバッグの山の中を通り抜ける瞬間を毎日新聞が撮影、それをネット記事で配信したが、案の定炎上した。毎日新聞のその写真を批判した中に細野豪志もいたが、彼はここを「中間貯蔵施設」と書いた。それは大きな誤りで、ここはただの仮置き場に過ぎない。常磐道から誰でも見える場所にフレコンバッグの山があるのだが、細野豪志はそんなことも知らずに、「福島差別」「復興」「汚染水放出推進」を語っている。現場を知らずに戯言をいう輩はいくらでもいるが、大学教授や国会議員という権威を纏った人物までこんなことを言うのだから、本当に困る。

 何度でも書くが、「復興五輪」など嘘っぱちで、双葉郡はまだ復興のスタートラインにも立っていない。そもそも、1Fがまだ廃炉途上で、大きな地震が来ればあっという間に壊れて事故を起こす。ここにあるのは正常な原発ではなく、「壊れた原子炉」だ。普通の原発と同じように扱って、周囲に市民を帰還させ普通の暮らしを送るにはまだまだリスクが大きすぎる。

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 2020年3月、山麓線(県道35号)は全線にわたって自由に通行ができるようになった。自由通行出来るからといって線量が下がったわけではない。場所によっては車内でも5μSv/hを超えることがある。物流(経済)のために特例として、2014年の六国(国道6号)開通を皮切りに、次から次へといくつもの路線で自由通行が実現していったが、こんなことをしているのは日本だけということを忘れてはいけない。「放射性物質を外に持ち出さない」という放射線防護の原則からすれば、こんなことは海外ではあり得ないことなのだ。ここからも、安倍政権以降の「経済最優先」=「人命軽視」=「優生思想」が垣間見える。

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(浪江町大堀)

 山麓線を通って浪江へ向かう。大堀相馬焼で有名な大堀地区では途中下車し、工房と思われる場所を撮影する。ここは帰還困難区域で、本来は下車は許されていない。線量は1~3μSv/hほど。普通に考えれば、防護服も着ないで下車してはいけない場所だが、正直、ここまで来ると感覚は麻痺している。

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 動物に荒らされたと思われる工房内はめちゃくちゃだった。原発事故で長期に渡る避難を強いられることがなければ、ここまで荒れることもなかっただろう。持ち主はかなり心を折られると思う。

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 撮影を終えてから、そのまま「希望の牧場」へ向かう。特にアポは取ったわけでもなく、吉沢さんがいればいいな、という程度の気持ちで。

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 牧場では、たくさんの牛が出迎えてくれた。鵜沼さんは元牛飼いならではの感覚で牛に気さくに話しかける。ここにいる牛たちは肉として出荷されることもなく、乳搾りに追われるわけでもなく、ただひたすら生きている。自らに与えられた命を全うするだけだ。

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 震災直後は牛たちは地獄を見た。僕は本でしか知らないが、その光景は凄惨を極めた。鵜沼さんのかつての牛舎を見ただけで思わずあとずさりをした僕は臆病者だと思う。しかしその地獄を生き延びた約260頭の牛たちは、今はここでその牛生を全うしようとしている。

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 車から降りて撮影していると、どこからともなく吉沢正巳さんが現れた。SNSでは繋がっているものの、本人に会うのはこの時が初めてだった。鵜沼さんに紹介してもらい、吉沢さんと挨拶を交わす。ずっとその姿をメディアで拝見してきたので、初めて会った気はしない。

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 そのまま牧場入り口にある小屋に連れて行ってもらい、吉沢さんから震災直後の話やこれまでの牧場の歩みを聞かせてもらった。殺処分に断固として応じなかったこと、育てていた牛たちに白斑が出たこと、どこもまともに研究には応じてくれないこと。牛たちを通して「命」とは何なのか、考えて欲しいこと。

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 吉沢さんのその熱い語りに、僕も鵜沼さんも少し精気を取られてしまい、その後、絵本制作用に撮影し直す予定だった酒井〜谷津田地区に跨がるメガソーラー施設へ行くのは、次の日にすることにした。

 この日、鵜沼さんは「憩いの村なみえ」に宿泊予定。僕は、双葉にもう少し居残って星空を撮影しようと思っていた。そのまま双葉駅まで送ってもらい、そこで解散となった。

 解散後、カメラを抱えていい場所はないかと双葉駅周辺を歩く。夕方5時は過ぎたころ。駅前には僕しかいない。誰もいない。六国からダンプの音がかすかに聞こえるが、それだけ。本当に無音となった駅周辺は、正直いって怖かった。この静寂の恐怖…初めて一人で富岡と浪江を歩いたときを思い出す。空は徐々に暗くなり、怖さは増してくる。駅前とはいえ、野生動物が出てくるのも当たり前なので、常に目も耳も集中して、周りの様子を伺う。

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(双葉駅西口。このフレコンバッグは工事用の土嚢で、汚染土を詰め込んだものではない。)

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(駅西口から歩道橋へ。今、このエリアは、復興住宅の整備で立ち入ることができなくなっている。この周辺の風景は、過去何があったか全く思い出せないほど、大きく変わるはずだ。)

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(駅東口)

 駅西口、工事用の土嚢が大量に置かれている場所を撮影地と定め、三脚を立ててカメラをセット。

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(土嚢の隙間から双葉北小を臨む。)

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 空が暗くなるなか、上を見上げていて気付いた。星が見えない。肝心の星が見えない。そして月を見ると、この日の月は結構な大きさだった。月齢が悪い…月のせいで空が明るく、浜通りの降ってくるような星がよく見えない。なんてこった、調べてくるのを忘れていた…やむなく星空の撮影は諦め、駅の東口へ。静まり返った商店街の廃墟の夜景を撮影し、19時前のいわき行きに乗って、いつもの定宿に向かった。

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(誰一人いない夜の双葉駅前商店街。生活音が全くない場所に一人で立つ怖さは、体験しなければわからない。)

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(帰還困難区域では、常磐線車内の空間線量はこれくらいまで上がる。)

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(いわき駅前のセブンもお土産屋さんも全てなくなった。今は駅ビルを改築中。)

 昨日2日目は早朝に双葉へ行き駅前を散策、8時半に鵜沼さんと待ち合わせて野菜栽培の実証実験を見学させてもらう予定。

<続く>

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