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「」のエッセイ

一   時代
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇たたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。「人生は一行のボオドレエルにも若しかない。」 彼は暫梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

芥川龍之介『或阿呆の一生』(「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月)25日初版第1刷発行)


 ―――春雨の降るころ、街はずれにあるカフェの不味い珈琲の湯気を虚ろに眺めていた僕は、ふと自伝的小説を書こうと思い立った。
 

 しかしいかんせん初めてのことなので、これからいったい何を書くべきか、いまなお全く思い浮かばないでいる。
 閃きを期待して、煙たさに隣人が抗議の声をあげるぐらいもうもうと狼煙のように煙草をふかしてみたり、ある時などは原稿の前であれこれ思案し唸り、紙に何かを書き付けては屑箱に投げ入れてみたり、またある時は映画を見たり小説を読んだりして、そこにある表現をあくびを堪えながら吟味してみたが、停滞した状況を打破するようなデウスエクスマキナはその足先さへ降臨に及ばなかった。
  というのも閃き待つなかでうっすらと、いまの私には特筆して書くべきことも書きたいこともない、ということがわかってきたからである。がしかし、私はこの瞬間にも何かを書こうと原稿にむかってこうして文字を綴っている。これは矛盾ではなかろうか。
  これまでの拙く短い私の創作活動を振り返ってみると、その工程が、おおまかにいえば、まず始めにどこからともなく天からアイディアが降ってきて、次にそれが脳天に激突し、身体に震えを与え、そのあと遅れて動き出した理性が震えを文字として筆記する、この三つの工程で成り立っていることを理解した。
  とすると、本作は上記の工程とは真逆の方向から出発した創作だ―――――つまり創作内容が先行し創作活動が始まるのではなく、創作活動が、内容となるアイディアの到来を待たずして始まっている。
 ようは行き当たりばったりなのである。
  この仮説に至り、やぶれかぶれに開き直った私は、いっそ何も書けないということを、すなわち内容が存在しない無を、理屈ででっち上げられた感情を書いてしまおうと考えた。
(察した方もおられるだろうが、本作では上記のように、最後まで私の思考が滔々と語られる。ところが言葉数に反して、語りには全く内容が含まれていない! タイトルにある「」とは無という意味で、本作はその無の模様を描くエッセイである。
 あなた方には、これからこの無にお付き合い願いたく思う。
気が進まぬ方は、ここで引き返した方が宜しい。)

 
 さて、読者諸氏は書くものがないのに書くという、その形而上的な矛盾を、――――――ともすれば言葉遊びにすら劣る矛盾した論理の数々を―――――語り手たる「私」の屈折した人物像を浮かび上がらせる描写、あるいは描写を通じた「私」の代表する人間一般に対する批評、延いては現代社会のカリカチュア、イロニー、等と一種のメタフィクションとして、作話上計算された表現として深読むこともできよう。
 しかし、冗長なようだがここで断っておくと、この文学空間の表象はそんな形而上学や計算とは対極的で、もっともダダイズムのような、徒然なるまま描かれる落書きにちかい。
 畢竟、「書けない状態」を題材にしようという執筆活動の一環ではなく、ただ「書けない」という状態を、今なお書けない状態のまま、ただ未完成を未完成のままに執筆しているだけなのである。

 
 ところで、そもそも私はなぜ創作をするのか。
 自己表現と一くくりにすれば、あまりに淡泊かつ一般論的で詰まらないだろうから、別の言い方を考えよう。
 己の箱庭の中に他者の心を閉じ込めたいからである。
 自らが整地し建設した精神の迷宮に他者を引きずり入みたいという、猟奇的な欲望が私を創作に駆り立てている。
 私の創作欲求と他者のそれとの違いはなんだろうか。これはだいたい次のように言える。
 自己表現による物語が「他ならぬ私」を語りつくすのに終始するのに対し、私の欲望から生起する物語の「私」は、むしろ「誰でもある私」として舞台の外へ極力弾かれる存在ということである。
 現実に生きる語り手の存在を読者に透かせてしまうことは、広大な虚構の世界をある一人の人間の訴状にまで矮小化させるとともに、物語の没入感を失わせ、迷宮に現実へつながる勝手口を開くことと言えよう。
 たとえるなら時代劇の最中に、現代の政治家の名前を模した悪代官を登場させるようなものだ。見る側は作り手の政治批判の意図を如実に感じ、現実を否応なく意識する。
 人は物語に触れることで、己の間近に見える現実世界ではない、別世界を旅することを望んでいる。少なくとも私はそうだ。物語は現実世界とのつながりを持たず虚構の中だけで完結する論理、―――虚構の真実によって堅牢に囲われる必要がある訳である。
 

 このように「私」は排除されなくてはならないのだが、しかし物語が無から自然発生するものではない以上、作者の体臭を完全に消しきれないのも事実である。
  物語は作者の個人的体験の模倣(ミメーシス)、他作品への無意識なオマージュで構築されている。  そこに組み込まれた表現は直接的でないにしろ、婉曲な形で「自己表現」を達成しうる。
 それでもなお、「物語」に執着する私は、己の体臭を排除するために意識的になって、作中では己の抱く観念と対観念とを対決させることを繰り返し、全てを懐疑する公平の空間の中で、物語を発生させている。
 私の個人的主張がそのまま真実として結末まで語られるのではなく、むしろ自分自身ですら疑い、誰かに誤りを突き付けられる中で、結論のでないままで結末を迎えるのである。
(そもそもそう易々と解ける問題を改めて問うまでもなかろうし、「こう生きるべきなんだ」という結末で道徳的な主張するのも胡散臭く、個人的に嫌悪しているのも一つにある。)
 そういう訳であるから、私はこうした「公平さ」を持たない、殊に「自己表現」の「自己」の部分を前景化し「共感」をテーマに描き出す、昨今のいわゆるバズる文学にありがちな、感傷主義一辺倒な文学に賛成しない。
 
 共感の文学は、誰が読んでも自分のこととして受け入れられる一般的表現とお約束の展開で溢れている。誰もが安心して"楽しむ"ことができるよう作られているのだ。
 大衆の感覚に合わせるため、自動化された言葉をお約束としてそのままに用い、現実世界にある個別具体的な人物造形や内容を、キャラクターとして一般論の域にまで引き下ろし、似通ったストーリーを複製し続けている。
 作中人物の悩みや主張は単純極まりなく、彼らの人格は俗に「~~系」と分類して紹介され、人物表象や展開は徹底的に誇張され戯画化される。
  こうした作品は、あるいは誰かの一生に寄り添うことができるかもしれない。しかし、そこには題材の目新しさ、「いま」を追いかけるばかりで、「過去」「未来」がない。だから人類に、日本人の歴史に末永く寄り添うことは敵わぬだろう。自動化された言葉やお約束を破壊して、脱構築の中で人間の人生に新しい意味や価値を産み出すのが、言語芸術ではなかったか。
   

 共感の文学、大衆文学が他者と感覚を分かち合う喜びを感じ、自分も誰かと同じなのだという安心を与えるものである一方、純文学は、一人で答えを考える中に自ら喜びを見いだし、自分は自分でしかない孤独を知ることである。
  私が愛し志向する物語は、そうした孤独な純文学である。
 もっと言えばそれは老人から聞かされる市井の御伽噺だとか、クラスメイトからひそやかに聞かされる学校の怪談、といった誰の自己表現にもならないフォークロア、誰の銘も打たれていない物語として究極の形の「無銘の物語」である。
 
 
 さて上記を踏まえて、読者諸氏はここでいま一つ矛盾が浮上したことにお気づきのことと思う。
 無銘の物語を欲望する私が、いま他ならぬ「創作する私」を表現する自伝を書いているのは矛盾である、と。
  この矛盾の解決は、ここに書かれているのが果たして「私」の実相であるか読者諸氏の想像に一任されている、ということに尽きる。
 先に述べたように、これは未完成を未完成として書くものだが、それが果たして本当なのか、実際は計算なのではないか、そもそも書いてあることが本当の私の考えなのか――――――自分で主張しておいてなんなのだが――――――読者の視点から考えると、確かめる術はない。
 私は本作を通じて、作家としての私を、語りを通じて演出してみせているだけやもしれない。あるいは私ですら知らぬあいだに自己演出をしているのかもしれない。
 いずれにせよ、本作の私は「語られる私」の虚像と、「語る私」の実像とを読み手や語り手自身ですら知らぬ間に行き来して描かれる、非常に曖昧な存在であることは疑いようのない事実である。
 真偽が曖昧である以上、本作は自伝と銘うちながら、完全な自伝とは呼べないことになる。 つまりこれは、「自己表現」の最たる方法であるところの自伝小説、が孕む虚構性に自覚的な、メタ自伝小説であり、さらにそのことを語り手である私が自覚して語る一種の「物語」である。
 

 この自伝は先に述べた「無銘の物語」だ。
 本作が誰の広告や紹介にも挙げられず、作者の来歴も明かされぬまま、何の前情報もないまま野放図にインターネットの海に投稿されているからである。
  おそらく現在これを読み進めている読者諸氏は、私の名前はおろか出身、年齢、職業など全ての情報をご存じでないことと推察する。 読者にとってみれば、興味のない無名の人間の自伝を読まされる、まさに苦行に直面している寸法である。
 仮に本作を共感の文学と仮定して、そもそも語られる対象たる私がいまもって何者なのかわからないこの状況ではたして「自己表現」は達成し得るだろうか。

「これから語るなかで私を知ってもらえばいい」

 なるほどそういうこともできなくはない。
 しかし、繰り返すが、語られることが真実である確証はどこにもない。
 これがもし現実の私を知る人間だけに向けられた閉じた文章ならば、内容の真実と虚偽とを読み分けることは可能だが、作者の顔のみえぬインターネットという匿名の空間では不可能である。
 それに、いまから私という人間を育んだ体験全てを語って訊かせるのは文量的に現実的ではないし、何より読む側の労力が果てしないし、客観的に考えて大衆の前に己の本性をさらけ出すことになんらの価値も見いだせない。

(いったい誰が有名人でもなく、まして高名な作家でもない、いわんやただの一般人の長い自分語りのおしゃべりに最後まで興味を持ち続けられるのだろうか。)

 インターネットという仮面舞踏会に音もなく現れた本作は、やはり「無銘の物語」と言えるだろう。


  さて、本作がメタ自伝小説であること、本作がインターネットに投稿されていること、この二つの要件から、本作が自伝でありながら「自己表現」にはならず、「無銘の物語」であるという両義的状態にあることをご理解頂けたことと思う。長々としたお膳立てはここまでにして、次からはいよいよ本題へと移ってゆこう。―――――――――――――――――――――――――――――――――



「あっ!」
声のする方を見ると、大学生くらいの若い女が喫茶店の入り口の前で僕に向かって手を降っていた。彼女は店員にツレが居ることを伝えてから、カウンターの端の僕の席の隣までやってきて、黙ったまま腰をかけた。
「オレンジジュースひとつください」
注文を取りに来たウェイトレスにそう告げた彼女は、僕の横顔をじっと眺めはじめた。
「今日、授業は?」
僕は真横に感じる視線を無視して原稿を書く手を休めず言った。
「さぼり」
彼女は僕の持つペンの動きを目でなぞりながら答えた。
「駄目じゃないか」やや上の空で答えた。「自分で学費を払っているんだもの。私の自由でしょ?」
「貴重な学生生活だ」
「私には貴方といる時間の方が貴重なの」
彼女はあっけらかんとした様子でそんな事を言った。
「俺にはいつでも会えるが、今日の授業は今日しか受けられないよ」
僕は腕を組んで何気なしに壁掛け時計を見た。朝から初めてもう夕方だ。締め切りまで時間がないのにちっとも進まない。
「今日の貴方にも今日しか会えない」
僕はそこで今日初めて彼女の顔を見た。彼女は静かに笑っていた。それは夏の日陰のように、涼やかな笑顔だった。
「そう毎日変わるものでもないと思うけれどね」
僕が可笑しさに微笑して原稿に戻ると、丁度そのとき卓上にオレンジジュースが届いた。彼女はウェイトレスに礼を言って差し出されたストローを使わず直にグラスを傾けた。雪のように真っ白な細い喉が蠕動して、窓から差す陽光のような黄色の甘酸っぱい液体を飲み干してゆく。グラスの表面に堪った水滴が伝って彼女の指を艶やかにしていた。
僕は何となく彼女にいま書きかけの掌編を読ませてみようと思った。発表の前に読者の反応を知っておきたかったのもあるが、大方はちょっとした悪戯心からだった。どうしてか、急にあまり活字に興味の無い彼女に読ませて困らせてやりたくなったのである。
「ちょっと、これ読んでみてくれる?」
僕は原稿を横に座る彼女の前に差し出した。
「あとでいい?」
彼女はやや面倒くさそうにそう言った。
「いや、短いから今頼むよ。反応が知りたい」
渋々受け取った彼女は難しい顔して原稿とにらめっこを始めた。その間、僕は特にすることもないので、意趣返しとばかりに彼女の横顔を眺めて物思いに耽った。考えてみれば悪戯心も確かにあるが、この小説に自信が無いという理由もある。賞に向けてあれこれと試行錯誤するうちに、何が良いのか本当にわからなくなってきている自分がいた。創作に正解はない。あるとすれば読者がどう感じるかだ。だから、忖度の無い読者としての彼女に答えを貰いたかった 。
それから三十分ほど経った頃、彼女は疲れた顔で原稿を僕に返して、氷が溶けて薄くなったオレンジジュースを煽った。
「感想は?」
僕は息をつめて彼女の言葉を待った。
静まる空気の中、彼女はグラスを置いてゆっくりと口を開いた。
「つまらない」
たった一言、ずけずけとさっぱりした調子で遠慮なく言い放った。私はそれに思わず声を出して笑った。
「そうか。つまらないか」
僕は笑って出た目尻の涙をぬぐって彼女に言った。
「というより、何を言いたいのかが分からないの。これ、本当はどういうつもりで書いたの?」
彼女は予想通りかわいらしく眉間に皺を寄せて困惑した顔で私に問うた。その様子が僕にはいじらしくてならなかった。
「わからない」
身体を風が通り抜けたように清々しい気持ちになって笑った。結局のところ、僕も自己表現から逃れられなかったただの人間の一人だったのだ。
「俺にももうわからないんだよ」
本当は分かっているのにしらばっくれた僕は彼女の肩に手を置いた。納得がいかない様子の彼女の大きな猫のような瞳に小さな己の姿が映っていた。僕はそれを寂しく感じた。
「さあ、帰ろう。もう夜だ。帰ってご飯を食べてYouTubeでも見よう。その方が楽しいしね」
僕は心のどこかで感じた孤独を打ち消すためにわざとらしく明るくそう言った。
「そうだね」
まってましたとばかりに彼女は立ち上がった。
「今日なに食べる?」彼女は出口に向かって歩き出した。
「うーん、なんでもいいかな。君と食べられれば何でも良いさ」
「何でも、が一番困るんだよ」
会計を済ませた僕は彼女の手をとって店を出た。店の外では雨が止み、日が傾いていて、はやくも夜が迫って来ていた。授業終わりの学生で賑わう雨と人の臭気に満ちた街を彼女と二人で帰った。帰りの道中、僕はいつもより少しだけ強く彼女の柔らかな手を握った。手はほんのり湿っていて温かだった。彼女の握り返してくる手の力に僕は何かを得て何かを諦めた。
原稿はその日の内に立ち寄った駅のトイレのくずかごの中へ捨てた。
それからは、もう小説を書くことはなかった。


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