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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史8 ブレスト教会合同

1.はじめに

合同教会(ユニエイト教会、ウニアート教会)とは、東方典礼カトリック教会ギリシャ・カトリック教会とも呼ばれ、東方典礼(ビザンティンやスラヴの典礼)を用いながら、ローマ教皇の首位性を認める教会です。合同教会と呼ばれる組織は全世界で20を超え、その中でも最大の信徒数を誇るのが、ウクライナの教会です。今回は、ウクライナの合同教会の誕生のきっかけとなった、ブレスト教会合同について見ていきたいと思います。

2.対抗宗教改革

16世紀初頭、ドイツで「人は信仰によってのみ救済される」という福音主義の立場から、宗教改革が始まりました。後にプロテスタントと呼ばれるようになるルター派と、カトリック教会とは激しく対立し、世俗権力、都市民、農民をも巻き込み、騎士戦争農民戦争などの社会的混乱を引き起こしましたが、1555年のアウクスブルクの宗教和議において容認されるようになります。

マルティン・ルター(1483-1546)
「福音には神の義が啓示されている」「それは、はじめから終わりまで信仰を通して実現される」 という聖パウロの言葉から、何よりも信仰を有することが重要であるという考え方に行きつく。

さらに、スイスではチューリヒのツヴィングリや、ジュネーヴのカルヴァンらによって独自の宗教改革が行われ、特にカルヴァンの思想は、フランスやオランダへと普及しました。イングランドは、ヘンリー8世の離婚問題を契機にローマ教皇庁と断絶し、次代エドワード6世によって、プロテスタントへの変革が行われました。

カトリック教会側も、宗教改革の波が全ヨーロッパに広がるのを、ただ黙ってみていたわけではなく、教会の悪弊を一掃し、信徒の魂の救済に真摯に向き合うための改革の気運が高まりました。これを「対抗宗教改革」といいうます。

対抗宗教改革において大きな役割を果たしたのが、1540年にイグナティウス・デ・ロヨラによって結成されたイエズス会です。イエズス会は、ローマ教皇に直接従属し、非キリスト教地域での宣教活動を行うことを目的としており、後に、インドやラテン・アメリカ、さらには日本での宣教活動を行いました。同時に、彼らはヨーロッパにおける「異端」との戦いにも参加し、イエズス会士たちは、プロテスタントの神学者と討論会を行い、都市や農村ではカトリックの教義の正しさと正統性を説きました。その活動は、オランダ、ドイツ、フランス、そしてポーランドへと拡大していきました。

イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)
もともと騎士になることを目指していたが、両足を負傷し、右足が不自由となったため、軍務に着けなくなる。その療養中に聖人伝を読んでいたことから、回心し、修道士となった

3.教会合同の再燃

こうした対抗宗教改革の波に乗るカトリック教会では、プロテスタントとの戦いだけでなく、正教会との教会合同への関心が高まりました。これは、1437年~1439年のフェラーラ・フィレンツェ公会議で決定されたものの、その後正教会側から撤回された、両教会の合同を実現しようとするものでした。

これを率先したのは、ローマ教皇グレゴリウス13世です。グレゴリオスは、1573年に教皇庁に「東方聖省」を設置し、合同に向けて宣教師を養成するための神学校をローマに開校しました。1581年には、モスクワ大公国とポーランドとの和平調停役を引き受け、イエズス会士アントニオ・ポッセヴィーノを派遣し、講和締結を進めるとともに、教会合同に向けての交渉を行おうとしました。しかし、ロシアの教会は合同を拒否したため、この計画は不発に終わりました。

教皇グレゴリウス13世(1502-1585)
一般的には、ユリウス暦を廃し、暦法を改訂したことで知られている

モスクワとの交渉決裂後、今度はコンスタンティノープやモスクワとのエキュメニカル(総体的)な合同から、よりローカルな教会合同が模索されるようになります。それにうってつけだったのが、ポーランド・リトアニアでした。ポーランド・リトアニアは、多くの正教徒住民を抱えながらも、王権はカトリックにありました。また、正教徒の多いルテニア(現在のウクライナ、ベラルーシ)を、末永く留め置くための解決策として、教会合同が望ましいと思われるようになりました。

4.教会合同への道

宗教改革はポーランドにも波及し、カルヴァン派やフス派の流れを汲むボヘミア兄弟団が、中小貴族シュラフタ)に浸透していました。1573年には、カトリックとプロテスタントの代表が協議し、「ワルシャワ連盟協約」が結ばれました。この中では、宗派選択の自由が謳われ、カトリックとプロテスタントだけでなく、正教会をも含む諸宗派間の寛容が法的に認められていました。

1573年当時のポーランド・リトアニアの宗教分布
クリーム色がカトリック、灰青と紫がプロテスタント、緑色が正教会
By Religions_in_Poland_1573.PNG: User:Mathiasrex on layers of User:Halibuttderivative work: Hoodinski - This file was derived from: Religions in Poland 1573.PNG:, CC BY 3.0,
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しかし、1587年に即位したジグムント3世が、イエズス会を重用し、カトリック化を進めたため、ポーランドでの宗教改革運動は退潮していきます。ポーランドのイエズス会士たちには、スタニスワフ・ヴァルシェヴィツキ、ベネディクト・ヘルペスト、そして、懺悔聴聞僧としてジグムントの信任も厚いピョートル・スカルガなど、教会合同推進派がそろい踏みでした。イエズス会士たちの教会合同の構想は、クラクフ大学教授ソコウォフスキ、ヴィリニュス司教ラジヴィウ、リヴィウ大司教ソリコフスキら、カトリック教会の重鎮から好評を得ました。また、スペイン型の絶対王政を理想としていたジグムントも、正教徒の帰一によって王権が強化されると考え、教会合同を支持しました。

ヤン・マテイコ「スカルガの説教」1864年
右側で両手を挙げているのがスカルガ、左側に座しているのがジグムント3世
その他、後に合同教会主教となるポチェイなど、教会合同に関係する人物が描き込まれている

さらに、正教会の側からも、ルツク主教キリル・テルレツキー、キエフ府主教ミハイル・ラホザ、リヴィウ主教ゲデオン・バラバンら、教会合同に賛同する動きが出てきました。彼らは正教世界への帰属よりも、ポーランド・リトアニアにおいて冷遇されていたルテニア正教会の地位向上を目指しました。1590年、テルレツキーは、教会合同への意志を国王ジグムントに表明し、国王も彼らの計画を支持しました。その後、正教会高位聖職者とカトリック聖職者の間で意見交換が行われ、1595年6月1日、教会合同に臨んでの諸条件である「三十三箇条」がまとめられました。

5.ブレスト教会会議と合同教会の成立

「三十三箇条」は、同年7月に国王に提出され、12月には、テルレツキーとヴラジーミル主教イパーチー・ポチェイが、スカルガと駐ポーランド教皇特使ゲルマニクス・マラスピーナからの推薦状を携え、教皇クレメンス8世に謁見し、カトリックへと帰順しました。

イパーチー・ポチェイ(1541-1613)
後の合同派府主教。正教会聖職者として比類ない教養を持っており、また元カルヴァン派で西方教会に精通していることから、国王ジグムントの命によって、教会合同計画に参加していた

翌96年10月6日、帰国したテルレツキーとポチェイを迎え、ブレストで教会会議が開かれました。府主教ラホザをはじめとする正教会の高位聖職者と、リヴィウ大司教ソリコフスキやスカルガ、国王の代理としてトルキ県知事ら聖俗のカトリック代表が参加したこの会議で、キエフ府主教座の帰順がローマに受け入れられたことが確認され、教会合同が決議されました。この決議は、同年12月15日付で国王にも承認されました。

しかし、教会合同は正教徒の総意ではありませんでした。キエフ県知事コステャンティン=ヴァシーリ・オストロスキーなど合同反対派は、プロテスタントと同盟して、合同撤回のために議会で戦います。合同撤回の要求は結局退けられますが、合同反対派教会の合法化を勝ち取り、1620年には合同反対派のキエフ府主教が設置されます。こうしてポーランド・リトアニアには2つのキエフ府主教が並立するようになり、ルテニアの正教会は分裂してしまいます。

6.合同教会の発展

1599年に亡くなったラザホに代わって、ポチェイがキエフ府主教に就任しました。ポチェイは、法廷や地方議会で合同教会の利益擁護に奔走し、その物質的基盤づくりに大いに貢献しました。

ポチェイの跡を継いだヨシフ・ヴェリャミン・ルツキーは、東方典礼の修道会創設に大きな功績を遺しました。1617年に創設された東方教会最初の修道会「バシリウス会」は、カトリックの修道会と協力関係を保ちながら発展していき、18世紀後半には200近い修道院、1200人を超える修道士、4カ所の出版拠点、20余りの神学校を抱えるようになりました。

ヨシフ・ヴェリャミン・ルツキー(1574-1637)
ルテニアにはキエフのペチェルスキー修道院などの修道制の伝統があったものの、モンゴル侵攻、リトアニア、ポーランドの支配によって、近世においては衰退の底にあった

合同教会は、当初は、正教の守護者を任じるウクライナ・コサックたちの勢力圏外である、ウクライナ西部とベラルーシで布教を進めていました。しかし、1667年のアンドルソヴォ講和で、ウクライナがロシアとポーランドによって分割されることが決定すると、合同教会の教区組織は右岸ウクライナにも拡大しました。さらに、17-18世紀の世紀転換期には、合同反対派の主教管区であったリヴィウとプシェミシル、そしてリヴィウの兄弟団までもが合同教会化したことで、合同教会の勝利は決定的となりました。

1750年頃のポーランド・リトアニアの宗教分布
橙色が合同教会。正教会はムスチスラフ(現ベラルーシ領)を除いて退潮してしまった
By Hoodinski - Own work, borders based on File:Religions in Poland 1750.PNG, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19540564

1720年のザモシチ教会会議以降は、司祭の資質とモラル向上が目指させるようになり、各主教座管区ではセミナリア(司祭や修道士の養成学校)の設置が命じられました。さらに、バシリウス会の学校も在俗司祭候補生に開かれるようになり、教区民の教区学校も主教が提供することとなりました。

7.まとめ

合同教会の発展した背景には、17-18世紀にかけて、ポーランドがロシア、スウェーデンと戦争状態にあったことがあげられます。敵国の宗教である正教会、プロテスタントが危険視されるようになる中で、正教徒たちにとっては合同教会という選択肢を選ぶようになりました。

しかし、合同教会は、カトリック教会に対しては従属的な立場であり続けました。カトリックは富裕なマグナート(大貴族)を信者にしており、農民と零細シュラフタからなる合同教会とでは、影響力や財力の差は歴然でした。正教聖職者たちが教会合同に求めた地位向上は失敗し、合同教会は二級の教会という扱いのままとなり、エリート階層に参入したい信者は、結局カトリック化するようになりました。

また、教会合同はすべての正教徒に受け入れられたわけではなく、キエフ府主教が分裂し、ルテニアには二つの東方典礼教会が併存するようになりました。カトリックと正教会を合同するという理念は、かえって宗派分裂を深めることとなったのでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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