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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史4 荒野修道院運動の展開

1.はじめに

修道制とは、もともとはエジプトの砂漠地帯で発生した、祈りの環境を整えるために、人の寄り付かない土地環境で孤独と静寂のうちに生きる隠修制として始まりました。修道制はやがて、ゆるやかな共同的生活を営む半修制や、大人数が組織的に共生する共修制といった形態が現れ、中世ヨーロッパにおいて大いに発展しました。ルーシの地では、キリスト教を受容した10世紀から修道院が建設され始めましたが、モスクワがトヴェーリに勝利し、ルーシの統一的権力となり始めた14世紀半ばから、荒野修道院と呼ばれる新しいタイプの修道院が出現し始めます。今回は、荒野修道院運動がどのように展開していったのかを見ていきます。

2.荒野修道院運動

初期ルーシにおける修道院は、都市や都市近郊に建てられるのが一般的でした。これらを「俗界修道院」と呼びます。14世紀以降になると、中部・北部の原生林で修道院生活を営む荒野修道院運動が展開されました。荒野修道院の創設者たちは、世俗の世界では救済は不可能であると信じ、孤独な沈黙の業によって救済を達成しようと、森林へと入っていきました。この創設者のもとに同じような探究者たちが集い、荒野修道院が設立されました。

荒野修道院運動を刺激したのが、「ヘシュカズム」という思想です。ヘシュカズムとは「静寂主義」と訳され、徹底した内的静寂を通して神とのかかわりに至るという神秘主義思想です。ヘシュカズムは、14世紀ごろからギリシャ北東部の聖山アトスで実践され始め、やがてビザンツ全土、さらにスラヴ正教地域へと広まっていきました。

聖山アトス
7世紀にはすでに修道士がおり、10世紀には正教会修道制の中心地となった。
現在でも、ギリシャ共和国領内にありながら「修道院共和国」として治外法権を与えられている
By Dave Proffer - Mt. Athos, CC BY 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25707304

荒野修道院で修業を積んだ修道士は、孤独な生活のために修道院を出て、森林の中に新しい荒野修道院を創設し、そこからさらに新しい修道士たちが輩出され修道院を創設するという循環によって、荒野修道院は数を増やしていきました。14世紀には42カ所、15世紀には57カ所の荒野修道院が創設されました。

3.国土の開拓

荒野修道院は、霊的覚醒に向けた苦行や祈りを行う厳しい試練の場であると同時に、自給自足を原則とする農業共同体でした。修道士たちは、自ら労働に従事して森林を開拓し、農地を切り開きました。

荒野修道院による開拓の様子
「ラドネジのセルギイの労働」ミハイル・ネステロフ,1942年

こうした開拓運動には、修道院の周辺に集った農民たちが積極的に参加しました。農民たちは宗教的・精神的理由もさることながら、修道院の保護下にあれば、免税特権の恩恵にあずかることができるため、その周辺に定住し、村を築きました。当時ルーシを支配していたキプチャク・ハン国は、宗教に寛容的であり、聖職者は人口調査の際の徴税対象から外され、教会財産(土地、河川、ブドウ畑等)、教会隷属民(手工業者、狩人等)は保護されていました。

また、開拓運動は農業革命と並行して進展していました。農業革命とは、中世ヨーロッパにおいて、耕地を春蒔き秋収穫・秋蒔き春収穫・休耕地の3つの部分に分けて、毎年ローテンションする三圃式農法や、鉄製農具を導入することで、農業生産性が飛躍的に向上した出来事です。西ヨーロッパでは11世紀から14世紀にかけて進展し、社会に大きな変化をもたらしていましたが、北東ルーシの地においても、14世紀後半からようやく新しい農法・農業技術が導入され、開拓運動を推進しました。

4.ラドネジの聖セルギイ

荒野修道院の創設に最も霊的な影響を与えたのが、ラドネジの聖セルギイです。セルギイは俗名をヴァルフォロメイといい、モスクワの北東70キロのラドネジという寒村の村はずれの森で、兄スチェパンとともに修道士生活を送るようになりました。やがてスチェパンは森を去りますが、セルギイは残り、熊などの森の獣とパンを分かち合い、修道士生活を続けました。

ラドネジの聖セルギイ(1321-1392)

やがて、セルギイは農民たちに発見され、その厚い信仰心と慈愛に多くの人々が惹かれ、彼のもとに集まりました。セルギイの名はやがてロシア中に広まり、キエフ府主教アレクシイからも一目置かれる存在となり、セルギイは結局断りましたが、彼の後継者に指名されたほどでした。

セルギイが隠棲していた地には、至聖三者聖セルギイ大修道が創設され、彼はその修道院長となりました。この大修道院からは多くの修道士が輩出され、彼らによって8つの俗界修道院、27の荒野修道院が新たに創設されました。

現在の至聖三者聖セルギイ大修道院
By Sergey Ashmarin, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=58947009

5.セルギイとモスクワ権力

ロシアの国民的な精神的指導者となったセルギイは、やがて政治にも介入していくようになります。当時、モスクワ大公国は隣国リトアニアと対立関係にありました。リトアニアは、モスクワを追い落とすために、モスクワ東部に位置するスーズダリ=ニジニ・ノヴゴロド公国と同盟関係を結ぼうとします。

これに対し、モスクワを支持する府主教アレクシイは、ニジニ・ノヴゴロドのすべての教会を閉鎖しました。これはすなわち、そこに住むすべての住民を破門に処したことを意味します。このとき、破門の政治利用というアレクシイのなりふり構わない行動を支持し、彼の使者としてニジニ・ノヴゴロドに向かい、教会閉鎖を実行したのが、セルギイでした。

セルギイは、その後もモスクワ権力との結びつきを強めました。1380年のクリコヴォの戦いにおいては、セルギイはモスクワ大公ドミートリーを祝福し、勝利を約束しました。セルギイの助言に従い進軍したドミートリー大公は、クリコヴォ平原でモンゴル軍を迎え撃ち、撃退しました。

ロシアの兵士を祝福するセルギイ

6.修道的理想の分裂~所有派と非所有派~

開拓運動を通して、荒野修道院は広大な土地を所有し、農民労働力を使用する領地経営者と化していきました。例えば、キリル・ベロゼルスキイ修道院は、17世紀には11つの大村、5つの中村、607の村、320の修道院集落を有する大領主となりました。彼らは、修道院には不幸な人々を救済し、将来の主教を養成する義務があり、そのためには、修道院の土地や財産、さらに国家らの支援が不可欠であるとし、土地と財産の所有を肯定しました。彼らは「所有派」と呼ばれました。

所有派の指導者イオシフ・ヴォロツキー(1439-1515)

これに対し、修道士は世俗の利害を離れて孤独のうちにあるべきであり、土地と財産の所有は修道士を世俗世界へと引き戻し、精神的堕落を招くと批判する人々が現れました。ヘシュカズムの伝統を引き継ぎ、土地と財産の所有を否定するこれらの修道士たちは「非所有派」と呼ばれました。

非所有派の指導者ニル・ソルスキー(1433-1508)

両者は対立し、激しい論争を巻き起こしました。争点のひとつとなったのが、世俗権力との関係です。所有派は、国家と緊密な関係を持つだけでなく、積極的にツァーリ体制を擁護しており、世俗権力が教会の指導的役割を果たすことを承認していました。一方、非所有派は、教会は非政治的な、純粋に聖なる世界でなければならず、国家の教会への介入に反対しました。

両者の論争に決着がつくのは、モスクワ大公ヴァシリー3世の時代です。ヴァシリー3世は世継ぎに恵まれず、妃と離縁して別の女性と結婚しようとしました。非所有派に近いモスクワ府主教ヴァルラームは、再婚を「婚約の機密」の冒涜であるとして容認しませんでした。一方、「非所有派」の修道士ダニールはこの再婚を支持したため、ヴァシリー3世はダニールをモスクワ府主教に叙聖することを約束し、彼の祝福によって結婚しました。

ヴァシリー3世(1479-1533・在位1505-1533)
この再婚によって生まれたのが、イヴァン4世である

こうして非所有派はツァーリの不興を買いました。所有派はこれを契機に弾圧に乗り出し、聖マクシム・グレクやパトリケーエフ公ら非所有派の指導者・支持者を追放・迫害しました。

7.まとめ

14世紀に盛んとなった荒野修道院運動によって、修道制が大いに発展し、聖セルギイなどの優れた修道士を生み出しました。しかし、もともと世俗世界から離れ、孤独な森林のうちで救済を得ようとしていた荒野修道院は、広大な土地と農奴、財産を主有する領地経営者へと変貌していきました。

領地経営者化した修道士たちは、国家権力との結びつきを強め、ツァーリ体制を肯定するようになり、そうした姿勢は、教会が国家への従属を深めることにつながりました。こうした教会の国家への従属は、近世になるとますます強化されていきました。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考

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