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ざっとわかる十字軍

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】から離れて西欧の歴史をとりあげます!

前回の記事では、ビザンツ皇帝アレクシオス1世の救援要請によって、十字軍が到来したことに触れました。悲惨な結果に終わるだろうという皇帝の予想に反して、十字軍士たちは聖地を奪還し、十字軍国家と呼ばれる国家群を建国します。そして、十字軍運動はその後も長きにわたってヨーロッパ中を巻き込んだ一大軍事運動として展開していきました。今回は、中世・近世のヨーロッパ・西アジア地域を揺るがした十字軍運動について見ていきたいと思います。

1.聖戦という思想

そもそも十字軍とは何でしょうか?従来は「聖地奪還を目指す軍事運動」と定義されてきましたが、より本質的なところにあったのは「正戦」「贖罪」という思想です。

「正戦」とは「正しい戦争」という意味で、古代ローマの教父アウグスティヌスによって神学的理論として確立されました。アウグスティヌスによれば、戦いによって相手を傷つけたり、死に追いやったりすることは大罪にあたりますが、次の3つの戦いは神によって容認されます。それは、正当防衛正しい意図に基づく戦い正しい権威に導かれた戦い、です。ここで彼が念頭に置いていたのが異端との戦いです。すなわち、神の教えから外れた異端者たちを「正す」ための戦いは正当化される、ということです。

アウグスティヌス(354-430)
アフリカ沿岸部のヒッポの司祭。古代最大の教父であり、異教徒の批判からキリスト教を擁護するために全22巻からなる『神の国』を執筆した。

この正戦思想は長らく忘れられていましたが、11世紀に突如復活します。背景にあるのは叙任権闘争です。当時ローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の間では、聖職者の任命権をめぐって激しい争いが繰り広げられていました。教皇側は皇帝側に対抗するために、アウグスティヌスの正戦理論を援用しながら、皇帝との戦い神の意志に基づくものであるとしました。さらにここに付け加えられたのが、「贖罪」という概念です。つまり、皇帝との戦いは罪に当たらないどころか、むしろ魂の救済につながるとしたのです。

最終的に教皇が皇帝に勝利したことで、「贖罪」をもたらす「正しい戦争」、すなわち「聖戦」という思想は確固たるものとなりました。この「聖戦」は、十字軍運動の下地となっていきます。

2.ウルバヌス2世と十字軍の召集

11世紀はキリストの磔刑から千年目ということもあり、イェルサレムへの巡礼が活発化していました。イェルサレムがキリスト教徒にとってますます重要な地であると目されるようになる中浮上してきたのが、聖地奪還という計画です。この構想はグレゴリウス7世がすでに抱いていましたが、彼は叙任権闘争に忙殺され実現に至りませんでした。

ローマ教皇グレゴリウス7世(1020年頃-1085年)
叙任権闘争が始まる前、すでに5万人の兵士たちを準備して、自らが主導して東方へと遠征に行きたちと、皇帝ハインリヒ4世に述べていた。

きっかけは、次代ウルバヌス2世の時代にやってきます。1095年、ビザンツ帝国から軍事援助を請う皇帝の使節が教皇のもとに訪れました。マンツィケルトの戦いでの敗北以降、ビザンツ帝国は小アジアへとなだれ込んできたトルコ人に圧倒されて存亡の機にありました。独力でトルコ人を押し返すことが困難であると判断した皇帝アレクシオス1世は、西欧諸国から援軍をとりつけようとしたのです。

しかし、ウルバヌスは皇帝の思惑を超えた行動に出ました。同年12月に開催されたクレルモンの公会議の終了後、教皇は東方のキリスト教徒を救済し、聖地イェルサレムを奪還することを呼びかけたのです。その後、ウルバヌスはフランス各地を行脚し、ヨーロッパ各地に使節を送って東方への軍事遠征の準備を進めました。

クレルモンの公会議
十字軍を呼びかける際、ウルバヌス2世がどのような演説を行ったのかは記録が残っていない。そのため、「神はそれを望み給う(DEUS VULT)」という文言も、実際に発言されたのかはわからない。

3.第一回十字軍

この第1回十字軍は、教皇の計画に従って召集された諸侯たちによる正規十字軍と、自発的に結成された民衆十字軍から構成され、総勢13万人といわれています。彼らは1096年の春から秋にかけて、聖地を目指して各地を出発しました。

隠修士ピエールと民衆十字軍
民衆十字軍は必ずしも「民衆」だけで構成されていたわけではないが、統制力の面では正規十字軍に劣り、各地で略奪行為やポグロム(ユダヤ人虐殺)を働いた。

援軍を請うた当のアレクシオス1世はこの思わぬ事態に驚愕するとともに、彼らを利用して最大限の利益を得ようと、諸侯たちに忠誠を誓わせ、旧ビザンツ領を取り戻した場合は必ず帝国へ返還することを約束させました。しかし、勇敢に戦わず、聖地奪還にも本腰を入れない帝国に十字軍士たちは不信感を強めていきました。

両者の対立が決定的となるのが、1097年10月から翌98年6月にかけて行われたアンティオキア包囲戦です。十字軍は物資不足や兵員不足に苦しみながらも戦い続けますが、ビザンツ軍は攻略を諦めて途中で帰還してしまったのです。十字軍士たちはこの都市をビザンツに引き渡すことを拒否し、ボエモンド・ド・タラントを候としてアンティオキア侯国を建国しました。

聖槍を持つル・ピュイ司教アデマール
アンティオキアでの戦いの最中、聖槍(イエスを処刑した際に使用された槍)が発見され、十字軍士たちは士気を高揚させた。このように、十字軍を支えたのは何よりも信仰の力であった。

1099年6月、十字軍はついにイェルサレムへと到達します。さすがに消耗が激しく、軍勢は1300人の騎士と1万人の歩兵にまで減少していましたが、ピサやジェノヴァ、イングランドなど各国からの艦隊が到着し、支援物資を受けとることができました。7月15日にはイェルサレムは陥落し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンを統治者とするイェルサレム王国が誕生しました。

4.第二回・第三回十字軍

このとき、アンティオキア侯国、イェルサレム王国に加え、エデッサ伯国トリポリ伯国の4つの国が建国されました。これらの十字軍国家の沿岸都市には、キリスト教徒の船舶が往来するようになり、多くの巡礼者や商人が訪れ活況を呈しました。

十字軍国家
北からエデッサ伯国、アンティオキア侯国、トリポリ伯国、イェルサレム王国
By Amitchell125 - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=103890901

しかし、12世紀中ごろにはイスラム勢力側による対十字軍戦争が活発し、1144年11月、アレッポ総督イマード・アッディーン・ザンギーによってエデッサが陥落します。この報せを受け取った教皇エウゲニウス3世は同年のクリスマスに第二回十字軍を呼びかけました。この際、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が応じますが、両軍とも小アジアでルーム・セルジューク朝の攻撃を受けて壊滅状態となったため、何の成果もあげられずに帰還します。

イェルサレム王国では内紛によって国が二分されるという混乱状態となり、さらに、エジプトのアイユーブ朝のスルタン、サラーフ・アッディーンによる攻撃を受けるようになりました。1187年6月、ヒッティーンの戦いで王国軍は大敗してシリア沿岸部を奪われ、同年10月にはイェルサレムも陥落させられます。

サラーフ・アッディーン(1137頃-1193)
ファーティマ朝の宰相だったが、自らが実権を握ってスルタンとなる。

この惨敗を受け、教皇グレゴリウス8世によって第三回十字軍が召集されます。参加者はフランスの尊厳王フィリップ2世、イングランドの獅子心王リチャード2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世という錚々たるメンバーでした。一行はキプロス島を征服し、さらに主要都市アッコンを陥落させますが、聖地の再度奪還にはいたりませんでした。

5.十字軍国家の滅亡

1198年、教皇インノケンティウス3世によって第4回十字軍が召集されます。しかし、資金不足により足止めを食らい、さらにビザンツ帝国の内紛に巻き込まれてコンスタンティノープルを攻略することとなり、当初の目標を果たせませんでした。

その後、13世紀召集された第5回、第6回、第7回十字軍は、いずれも当時のイスラム勢力の中心地であるエジプト攻撃を目標としていました。しかし、エジプトの都カイロは内陸部に位置し、攻め込むにはナイル川を遡上する必要があり、攻略は困難を極めました。

13世紀後半、十字軍国家は苦境に立たされるようになります。マムルーク朝のスルタン・バイバルスによって、1268年にはアンティオキア侯国が滅亡、各地の要塞や拠点も次々に征服されていきます。バイバルスの跡を継いだカラーウーンは1289年にトリポリ伯国を滅ぼし、翌年にはムスリムの農民を殺害された報復にアッコンを攻撃し、陥落しました。その後、キリスト教徒の諸都市は次々に陥落していき、1303年までに十字軍勢力はシリア、パレスチナから一掃されることになりました。

アッコン陥落
アッコン陥落のきっけかとなったムスリムの農民たちの虐殺は、ヴェネツィア艦隊を中心とする十字軍士たちによって行われた。ムスリムたちと隣り合って暮らす現地の西欧人たちとヨーロッパから新たにやってきた十字軍士の間では、宗教的熱情に温度差があった。

6.非聖地十字軍

十字軍国家滅亡後、教皇ニコラウス2世はただちに十字軍を召集しますが、得られた反応はごくわずかでした。ここにおいて聖地奪還を目指す軍事遠征は終わることになりますが、聖地を目的としない十字軍運動はその後も継続されました。

まず、対オスマン十字軍です。13世紀末、ルーム・セルジューク朝から独立したオスマン朝ビザンツ帝国を圧迫していき、コンスタンティノープルの対岸にまで到達しました。この新たな脅威に対し、ヨーロッパでは十字軍が呼びかけられるようになります。しかし、14世紀から15世紀にかけて召集された十字軍はいずれもオスマン軍に敗退し、バルカン半島を征服を止めることはできませんでした。

ベオグラード包囲戦
コンスタンティノープル陥落直後の1456年に行われた。6万人の十字軍によってオスマン帝国は退けられたが、これ以降、対オスマン十字軍は低調化していく。

異教徒に対する十字軍としては、バルト地域で行われた北の十字軍」があげられます。これは第二回十字軍の際にバルト征服を狙うドイツ諸侯たちによって始められたもので、1226年からはドイツ騎士修道会が参入しました。しかし、1402年のタンネンベルクの戦いリトアニアとポーランドの連合軍に敗れて以降、低調化していきました。

これと並行して、異端者に対する十字軍も行われました。その始まりは1208年のアルビジョワ十字軍ですが、1419年にはチェコフス派に対する十字軍が行われました。さらに、16世紀に宗教改革が始まると、カトリックに対する最大の異端となったプロテスタントへの十字軍が呼びかけられます。スペイン国王フェリペ2世率いる無敵艦隊は十字軍としてイングランド軍と戦いますが、1588年のアルマダ海戦で敗北しました。

マルティン・ルター(1483-1546)
プロテスタントは「キリスト教世界防衛のための戦い」自体は否定しなかったが、「戦いによって贖罪が得られる」という概念は批判的だった。

7.十字軍の終焉

近世に入ると、十字軍という言葉は次第に使われなくなっていきました。宗教的な統一が失われ、国家の利害関係が優先されるようになったヨーロッパでは、もはや十字軍の名のもとに各国が結集するということはありえなくなっていたからです。そのため、ローマ教皇が軍勢を召集する際は、「神聖同盟」という言葉を用いるようになりました。しかし、それも1682年の大トルコ戦争を最後に役目を終えることになります。

フランス国王ルイ14世(1638-1735)
オスマン帝国を陰ながら支援したことから、「キリスト教徒の皮を被ったトルコ人」と批判された。神聖同盟も外交の上でしか成り立たないものに過ぎなかった。

十字軍の終焉には、啓蒙思想の流行も関係しています。啓蒙思想家たちはルネサンス以前の時代は「暗黒の中世」として批判的にとらえました。そうした中で十字軍もまた、前近代的な蛮行というレッテルが貼られてしまったのです。

すっかり過去の産物となってしまった十字軍の中で、唯一残っていたのが聖ヨハネ騎士修道会でした。もともと十字軍運動の最前線にいた同騎士修道会は、16世紀にオスマン帝国の攻撃から逃れ、マルタ島に本部を移していました。200年以上マルタを防衛していた彼らでしたが、1798年、ナポレオン・ボナパルの攻撃を受けて、島を明け渡します。修道会組織自体はその後も存続し続けますが、彼らがヨーロッパ世界の防衛という役割を演じることはなくなりました。ここにおいて、十字軍運動は終焉を迎えることになります。

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
エジプト遠征に際して、聖ヨハネ騎士修道会にマルタ島への自由寄港と支援物資の供給を要求したが、断られたため激怒して島を攻めた。

8.まとめ

一般的に、十字軍はやがて本来の目的から逸脱していき、政治的・経済的利害が優先されるようになった、というような説明がされます。しかし、11世紀末から700年間にわたって行われた一連の運動は、「贖罪」を得るための戦いとして一貫しており、連続したひとつの運動としてとらえることができます。しかし、その対象、主体、地域は実に多様であり、一口に十字軍といってもその700年間にわたる歴史は、それだけ多面的な性格をもったものだといえます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考


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