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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史14 ソ連体制下のロシア正教会

1.はじめに

ロシア革命以降、ロシア正教会は無神論を標榜するソヴィエト政権の支配下に置かれます。独ソ戦以降、国家と教会の関係は時代状況によってその都度変化していきましたが、国家による干渉を受け続けたということは変わりませんでした。今回は、ソ連体制下のロシア正教会と国家の関係、さらにロシア正教会復活への道のりを見ていきたいと思います。

2.独ソ戦と反宗教政策の撤回

1930年代を通じて、ソヴィエト政権による正教会の弾圧は続けられました。3万人から3万5000人の聖職者が処刑されるか、投獄されました。35年からの4年間は主教会議が解散され、教会同士の連絡が全く取れない状態になりました。37~38年には52人の主教のうち40人が処刑されました。教会での祈りは全く不可能な状態でしたが、それでも人々は「地下教会」を組織し、秘密警察に露見しないよう活動を続けました。

1933-1934年の主教会議の様子。中央に座すのが府主教代理セルギイ

こうした状況に転機が訪れたのが、1941年の独ソ戦の勃発でした。6月22日、ドイツ軍が前線のソ連軍に奇襲攻撃をしかけ、ソ連領内に進撃しました。戦争の勃発を耳にした総主教代理セルギイは、すべての正教信徒にむけて祖国防衛を訴えるメッセージを送りました。さらに、翌42年には、「防衛基金」を設立し、祖国救済のための募金活動を行いました。粛清を免れていたレニングラード府主教アレクシイクルチッツとカローメンスコエの府主教ニコライなどもセルギイに続き、積極的な戦争協力を行いました。

最高指導者スターリンは、こうした正教会の戦争協力を高く評価し、これに報いようとしました。1943年9月4日、ロシア革命後初のソヴィエト政権の指導者と正教会の代表との公式な会見が行われました。クレムリンに招かれたセルギイ、アレクシイ、ニコライの3人との約2時間にわたる会見の後、スターリンはそれまでの反宗教政策を撤回することを決定します。科学的無神論による「啓蒙」を行っていた無神論同盟は解散され、親政権派の分派である「生ける教会」は正教会に統合されることとなり、さらに、1925年以降空席であった総主教制の復活神学校の再開が認められました。この会見の4日後、主教たちによる宗教会議が開催され、セルギイが第12代総主教に選出されました

こうした宗教的寛容政策がとられた一方で、ロシア正教問題評議会(のちに宗教問題評議会)が設置されました。これは宗教団体と国家との交渉の窓口となるものでしたが、同時に、ロシア正教が国家の監督下に置かれることも意味していました。

ゲオルギー・カルポフ(1898-1967)
内務人民委員部(NKVD,当時の秘密警察)の宗教問題担当の少将で、初代正教問題評議会議長に就任する

3.新時代の弾圧再開

1953年、スターリンが亡くなり、フルシチョフが政権の座に就くと、ソヴィエト政権は再び正教会弾圧へと傾きました。フルシチョフは「共産主義の建設」を目指して経済改革・社会改革を推し進めましたが、それはスターリン以前の本来の社会主義への回帰という意識を呼び起こし、スターリン時代の寛容政策も撤回されることとなったのです。

ニキータ・フルシチョフ(1894-1971)
宗教に関して言えば、世界初の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンとの「宇宙で神を見たのか?」というやり取りが有名

再び教会の破壊や接収が行われ、1958年に2万5000あった教会の数は、1965年までに8000以下となり、50年代には90あった修道院の数も60年代には17にまで減少しました。フルシチョフ期には聖職者の逮捕や国外追放は大々的に行われませんでしたが、信者を「改心」させるために、科学的無神論の宣伝や啓蒙活動が積極的に行われました。1950年代には、無神論者たちによって40種類のパンフレットが印刷され、ものによっては80万部も配布されました。さらに、教会婚に対抗するため、1959年には結婚宮殿が設立され、結婚登録のほかに、スピーチ、バンド、ダンス、ゲーム、軽い食事付きの集団結婚式が組織されました。

しかし、こうした政策にも関わらず、信徒の数はほとんど減りませんでした。教会の閉鎖は信者たちを地下活動へと走らせたため、かえって統制がとれない事態になりました。1964年にフルシチョフが失脚すると、無神論宣伝政策は失敗であったと反省され、比較的平穏な時代を迎えました。

4.ペレストロイカ期の政教和解

1985年に最高指導者となったゴルバチョフは、当初はレーニンの路線に則って国家と教会の関係を考えるとしていましたが、彼がペレストロイカやグラスノスチを推進し始めると、やがて教会の役割に対し積極的な評価が与えられるようになりました。

1988年4月29日、ゴルバチョフは総主教ピーメンをら高位聖職者をクレムリンに招き、独ソ戦時以来45年ぶりとなる政権指導者と教会代表との会見が行われました。その席で、ゴルバチョフは1930年代以降の過ちを修正するといい、謝罪の気持ちの表明として、キエフの洞窟修道院、オプチナの修道院を始めとする3000近い教会を返還しました。さらに、16の神学校の再開と、教会による出版活動の自由を認め、政治犯として収容されていた聖職者や信徒たちを解放しました。

ピーメン総主教(1910-1990)
1971-1990の約20年間総主教の座にあり、ソ連時代の総主教の中では最長であった。

その約1か月後、6月5日、モスクワのクレムリンの北にあるボゴ・ヤブレンスキー総主教座教会での聖体礼儀とともに、2週間にわたる「ロシア受洗千年祭」の公式式典が開催されました。この式典には、正教会のみならずローマ・カトリック教会、英国聖公会、プロテスタント各派など、世界中からキリスト教諸宗派の代表団が出席しました。この式典は、まさにペレストロイカ期におけるロシア正教会の復活を感じさせるものでした。

1990年10月1日に制定された「良心の自由と宗教団体に関する法律」によって、信教の自由が承認され、1929年の「宗教団体に関する法律」で禁止されていた慈善活動や宣教活動などの社会的活動の権利が保障されました。これによって教会活動は法的自由を獲得し、その活動範囲を大幅に拡大することとなりました。

5.ロシア正教会と民族主義

1990年6月10日、逝去したピーメンに代わり、アレクシー2世が第15代総主教に選出されました。アレクシーはソヴィエト体制下のレニングラード神学校、同神学大学で学んだ「ソヴィエト世代」に属する教会指導者であり、さらに、当時独立運動に揺れていたバルト三国のひとつ、エストニアのドイツ系ロシア人であることから、民族問題に苦しんでいたソ連において特別な期待を寄せられていました。

総主教アレクシー2世(1929-2008)
By Blessed_Patriarch_Alexy_II_of_Moscow.jpg: Deacon Alexander Volkovderivative work: B7elijah (talk) - Blessed_Patriarch_Alexy_II_of_Moscow.jpg, CC BY-SA 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16234756

しかし、当時のロシア正教会はすでに民族主義の傾向を示すようになっていました。ロシア受洗千年祭の際に、9人の新聖人の列聖が決定されましたが、このとき列聖されたのはロシア革命以前の人々であり、ロシア革命以後に弾圧され、殉教した聖職者の列聖が見送られたことに対し、批判の声があがりました。そのため、1989年の「ロシア正教会総主教制確立四百周年記念式典」においては、主教会議はボリシェヴィキ政権に立ち向かったティーホンを聖人として列聖しました。

さらに、ロシア人聖職者の中には、ペレストロイカの進行とともに高まった極右の活動を、ロシアの歴史的・文化的運動を擁護するものに過ぎないとして、教会と彼らは同じ立場にあるという者さえいました。同時に、革命によってロシアを破壊したのはユダヤ人であるとし、反ユダヤ主義感情も見受けられるようになりました。

6.まとめ

前回も書きましたが、70年間以上にわたる無神論国家による統治にも関わらず、正教会の信仰は本当によく絶えなかったと思います。それだけ正教信仰はロシア人の精神と深く結びついているのだと感じました。

さて、ペレストロイカによってロシア正教会は無神論国家から解放されましたが、新たに民族主義という課題にぶつかりました。国単位で教会組織を形成する正教会は、全世界に開かれた普遍的なものであると同時に、その国の民族性と結びついた土着的な教会でもあり、民族主義と結びつきやすいのです。新生ロシア連邦においては、プーチン大統領のもとで、大国の復活のための国民統合の象徴という役割を担うにあたって、ますます民族主義化・保守主義化の傾向を強めていきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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