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【ロシアの歴史】タタールのくびきとは何だったのか

1.はじめに

13世紀になると、ルーシの地は東方からやってきたモンゴル人の侵攻を受けました。ルーシ人たちは、キエフが陥落した1240年から数百年間に渡って、モンゴルによる支配を受けました。これをロシア史では「タタールのくびき」といいます。今回は、タタールのくびきがどのようなものだったのかを見ていきたいと思います。

2.モンゴル帝国の征西

1206年、モンゴル高原の諸部族を統一したテムジンは、大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)を建国し、その首長に即位してチンギス・ハンを名乗るようになります。チンギス・ハンは1227年に亡くなるまでの21年間、積極的な対外遠征を行い、華北を支配していた金や西夏、中央アジアの西遼やホラズムなどを征服し、一大帝国を築きました。

チンギス・ハン(1162?‐1227年)
生年については、1154年、1155年など複数説あり
「チンギス」とは、古代トルコ語で「勇猛な」という意味

この征服路線は彼の子・孫にも引き継がれました。1235年のカラコルムで開催された大会議において、第2代ハーン・オゴデイは、インド、南宋、朝鮮半島などに遠征軍を派遣することが決定しました。その中でも、チンギス家の総力を結集した大作戦となったのが、ヨーロッパ遠征です。このヨーロッパ遠征の目標のひとつは、黒海北部からカザフスタンにまたがる良質の草原であるキプチャク草原の征服でした。

オゴデイ・ハン(1186-1241年)
チンギス・ハーンの三男。1229年のコデエ・アラルの大会議でハーンに選出された。

3.ルーシ侵攻

この征西軍を率いたジョチ家のバトゥは、1236年にヴォルガ河上流のブルガール人を攻略し、その後、北進してルーシ諸公国を攻撃しました。ルーシの諸都市は、モンゴル軍がそれまで戦ってきた金や西夏、中央アジアの諸国に比べれば防備は粗末であり、1237年12月~1238年2月かけてのわずか3か月の間に、リャザン、モスクワ、ウラジーミルなどの北東ルーシの諸都市が攻略されました。

北東ルーシ攻略後、バトゥは北コーカサスから黒海北岸の草原に位置してた遊牧民のキプチャク人を征服しました。1239年にはさらにヨーロッパを目指し西進し、その途上でキエフなどの南西ルーシの諸都市を攻略しました。バトゥはポーランド、ハンガリー、オーストリア、クロアチア、セルビアに侵攻しましたが、1242年にオゴデイが亡くなった報せを受けると遠征を中止し、モンゴル軍は引き上げていきました。

バトゥ征西のルート
By Qiushufang - Own work, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=87503541

モンゴルの侵攻により、ノヴゴロドやスモレンスクなどの北西部を除き、ルーシの諸都市は破壊と略奪にさらされました。前哨となったステップ地帯の都市は3世紀以上も再建されず、それより小さな町は完全に消滅しました。かつて数万人の人口を誇ったキエフの人口は、わずか200世帯にまで減少しました。経済活動は大きく衰退し、石造建築は半世紀以上にわたり途絶えました。

スーズダリ陥落。16世紀の細密画

4.モンゴルによるルーシ支配

バトゥは、ヴォルガ河下流のステップ地帯にサライという町を築き、ここを拠点に、北コーカサス、ウクライナ・クリミアの遊牧民、ルーシ諸公国を支配しました。この国は、位置する草原の名に因んで「キプチャク・ハン国」、あるいはジョチ家の使用する黄金の刺繍で飾られた天幕群から「金帳ハン国(ロシア語:ゾロタヤ・オルダ)」と呼ばれました。

13世紀末になると、モンゴル帝国は元(モンゴル高原、中国、チベット、朝鮮半島)、チャガイタイ・ハン国(トルキスタン)、イル・ハン国(イランを中心とする中東)、キプチャク・ハン国(ウクライナ、北カフカス、ロシア、カザフスタン)に分裂する。
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https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=91440777

ロシアにおいて、モンゴル人はタタールと呼ばれました。タタールとは、モンゴル系の一民族のことでしたが、やがてモンゴル帝国内のテュルク系諸族のことも指すようになり、その語感が「タルタロス(ギリシャ語で「地獄」の意味」を連想させたため、広く用いられるようになりました。

モンゴル人は、ルーシの地に住み着いたり、ルーシ諸公を廃したりはせず、彼らを通してルーシを統治する間接統治という形態をとりました。ルーシ諸公はハン国に対して臣従を誓い、サライに赴き、勅許(ヤルルィク)を得て、公国の支配権を認めてもらわねばなりませんでした。

さらに、ハン国からは、ダーニあるいはヴィホドと呼ばれる貢税の支払いが要求されました。ハン国は当初、これをバスカクダルーガと呼ばれる徴税官を派遣して徴税していましたが、やがて廃止され、ルーシ諸公がその役割を引き継ぐようになります。

徴税官のイメージ
セルゲイ・イワノフ「バスカク」1902年

こうしたタタールによるルーシ支配を招いたのが、ノヴゴロド公アレクサンドルアレクサンドル・ネフスキー)でした。アレクサンドル公は、計4回もサライ(内1回はそのままモンゴル高原の帝都カラコルム)に赴き、臣従を誓っています。さらに、モンゴルが1257年に北東ルーシで行った課税のための人口調査の際も、自ら軍を率いて調査にあたり、歯向かう市民に厳しい罰を与えました。

一方で、ルーシ人たちには、宗教の自由が保障されました。これはチンギス・ハーンが、いずれの宗教も特別視せずに、各宗教の信者を平等に扱うことを強く指示していたためでした。教会は布教の自由を認められ、免税特権が与えられ、財産は保護されました。

5.モスクワの台頭

北東ルーシでは、新興勢力であるトヴェーリモスクワが、ウラジーミル大公位を巡り、争いました。キプチャク・ハン国は、ルーシから安定して徴税を行い、またルーシが独立するほど強大にならないように、両者を巧みに操り、争いに介入していました。

モスクワ公イヴァン1世とその子セミョーンは、頻繁にサライを訪れ、ハン国との間に密接な関係を築くように努めました。ハン国は、より従順なモスクワを重用するようになり、1331年以降は、モスクワが大公位と貢税の徴収を独占するようになります。

14世紀後半になると、ハン国内では、中央アジアで一大帝国を築いたティムールの後援を受けたトクタミシュと、ヴォルガ河以西からクリミアの地で勢力を築いていた太守ママイが対立し、内紛が起きていました。モスクワはこれを機に、1374年に貢税の支払いを停止しますが、ママイはルーシへの支配権を取り戻すために、リトアニア、リャザンと結び、モスクワを挟撃しようとします。

この動きに対し、イヴァン1世の孫、モスクワ大公ドミトリーは、リトアニア、リャザン軍が合流する前に、モンゴル軍と決戦に出ようとします。こうして、1380年9月8日、ドン川の南、クリコヴォ平原において、総勢40万のモスクワ軍・モンゴル軍が衝突し、モスクワが勝利しました。

ドミトリー1世(1350-1389年)
彼はクリコヴォの戦いでの功績から、ドミトリー・ドンスコイ(ドン川のドミトリー)と呼ばれています

ロシア史においては、この勝利はモンゴル支配からの脱却の第一歩として評価されています。しかし、2年後の1382年には、ママイを破ってハンとなったトクタミシュによってモスクワは攻略され、略奪に合います。モスクワはその後もハン国に貢税の支払いと、大公位継承の承認を求めており、実際にはモスクワとモンゴルの関係は大きく変わりませんでした

6.諸ハン国との「関係逆転」

15世紀半ばになると、キプチャク・ハン国はノガイ、カザン、アストラハン、クリミア、シビル、さらに正統な後継者を自認する大ハン国など、各ハン国に分裂していました。当時国内統一を進めていたイヴァン3世は、ハン国の弱体化を見て、1476年に貢税の支払いを停止しました。これに対し、大ハン国は支配権を回復しようと約10万人の大軍を送り、1480年にオカ河上流のウグラ河畔で両軍が対峙しますが、決定的な戦闘には至らず、ハン国は進軍を諦めました。ハン国はもはや、ロシアを支配するだけの力をもっていませんでした。

ウグラ河畔の対峙

しかし、1502年に大ハン国が滅亡すると、クリミア・ハン国カザン・ハン国アストラハン・ハン国などが台頭しました。これらのハン国は、騎馬部隊を携え、国境地帯を荒らしまわっただけでなく、モスクワ大公国の領内にまで侵攻しました。カザンとアストラハンは、それぞれ1552年と1556年にモスクワ大公国に併合されますが、クリミア・ハン国は1571年にモスクワを攻略し、16世紀末まで貢税を課し続けました。

そのクリミア・ハン国も、1696年に、オスマン帝国軍とともにピョートル1世治世下のロシアに敗北し、1783年には、エカチェリーナ2世によって併合されました。こうして、キプチャク・ハン国の後継国は消滅し、13世紀から続いた「タタールのくびき」は本格的に終焉を迎えました。

7.まとめ

「タタールのくびき」に関する評価は、今なお大きく分かれています。モンゴルの侵攻とその後の支配は、ロシアを後進性的な国にしたという否定的な意見もあれば、弱く、分裂していたロシアに、強力な一枚岩的専制体制を築いた、という肯定的な意見もあります。

モンゴル史の側からは、ロシア(およびその他のヨーロッパ諸国)によるモンゴルの破壊や虐殺の記録は、後世に誇張・創作されたものであるという意見もあります。モンゴルの目的は破壊や殺戮ではなく、支配と税収であり、抵抗するものには徹底的に攻撃するものの、服従し税を納めれば自治が認められたため、服従と納税を対価としたモンゴルによる平和と秩序を保証する「パクス・モンゴリカ」であった、とする意見もあります。

いずれにせよ、モンゴルの侵攻と支配がロシアに否定的な影響しか与えなかったというような意見も、あるいはモンゴルによる支配をあまりにも肯定的に評価する意見も、どちらも極端な意見であり、注意が必要であると思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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