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【連載小説】「記憶は甘味な終末への道」(4)

ここがどこだかわからない
けれどもここは私の生きた場所
そしてきっと誰かが産まれる場所
ここにいることは罪であり幸福であり

J-の61地区の公衆トイレの落書きより


私は光を目指して歩いた。スラムが放つ妖艶な光を目指して。
思いの外、スラムは近くにあった。さして苦労することなく、スラムまでやって来ることができた。スラムは巨大な防護壁によって守られていた。防護壁といっても、大量の瓦礫を積み上げたものでしかないが。
正面から入ることはできない。私の体はすでに右半身はすべて変形していた。スラムには何度も来たことがある。正面以外の入り口が幾らでもあることも知っていた。防護壁の脇にある小さなビルを登り、3階部分の窓から、防護壁の内部へと入った。いつもなら難なく行けるところだが、右半身が言うことを聞かない。重い体を持ち上げ、スラム内部に転がり込むように入った私は、しばらく息を整えながら横たわっていた。立ち上がる体力が失われているように感じた。変形は進んでいる。

遠くで歌声が聞こえた。女性の甲高い声のようだった。滑らかに氷上を滑るスケート選手のような、優しく美しい歌声だった。
段々と声が大きくなっているのを感じた。動いていない私がそう感じるのだから、あちらが近づいているのだろうか。スラムでは、私は何者にも見られてはならない。死者のように、闇に紛れて、絵を見つけ出さねばならない。
にもかかわらず、私は立ち上がる気になれなかった。しばらくこの甘味な歌声に溺れていたかった。私は目を閉じた。

ネクストであることは、誰にも言ってはならない。それは暗黙の了解であった。
ネクストが初めて発見されたとき、人々の反応は2つに別れた。歓喜し無事を喜んだ者、そして恐怖しその存在を危険視した者だ。
「終末の6ヶ月」は世界の全てを変えてしまった。高度に情報化した社会が、正しい情報を誰にでももたらすと期待されていた事とは裏腹に、6ヶ月で最も多くの人を殺したのは、核兵器でもドローンによる爆撃でもなく、デマだった。
デマが最も多くの人々を殺したのだ。もはやいかなる情報もその根拠を欠き、公式と非公式の境目もなくなってしまった。客観性を失った人々が最後にすがったのが、自分にとって最も都合の良い情報だった。
世界は分断と憎悪に溢れた。文明を壊滅させるのには、何十発かの核兵器が必要かと思われていたが、実際に発射された核ミサイルは2発だけだった。一発は東京に、もう一発はパリに着弾した。それ以外の世界の主要都市は、恐怖と不信による内戦によって壊滅した。
そのような相互不信の極限を生きた人々にとって、ネクストのような予想外で突発的な存在の登場は、様々な憶測を産むのに十分なものだった。
歓喜する者はネクストこそ、この時代の困難さを解く鍵、救世主だと考えた。「終末の6ヶ月」以前を知る貴重な手がかりとして、解剖するか脳を分析して、人間の欲深さの根源を探れると想像したのだ。
恐怖する者は、ネクストはまたあの惨劇をこの世にもたらす災いのもとだと罵った。せっかく薄れかけていた負の記憶を呼び覚ます、厄介な存在だと断じた。
しかし実際のところは、ネクストはそのどちらでもなかった。ただ長い間冷凍されていた人間であるだけだった。ネクストは赤子の状態で保存され、大戦以前の記憶などない。しかも前述したとおり、その多くは脳に何かしらの障害を負っていた。
にもかかわらず、ネクストは両極端な扱いをうけた。ヒーローか、疫病神か。ネクストはどちらかの運命を辿らねばなかった。結果、暗殺されるか連邦政府の保護を受けて隔離されるかのどちらかが、ネクストに用意された道だった。
しかし、私のようにそのどちらの運命も免れた稀有な存在もいた。そういったネクストたちは数十人はいて、今もどこかでひっそりと一般人に紛れて暮らしている。皆、ネクストであることを口外することはない。私自身も、妻にさえネクストであることを言ってはいなかった。幼少の記憶がないのは、交通事故によるものだということにしていた。
記憶の欠如によって、苦しむことは特になかった。しかし、唯一、理解に苦しむ感情が湧き上がってくるときがあった。それは、鏡の前に立ったときである。
自分の顔に、見覚えがある。誰かの顔を見ている気がする。しかしそれが誰かはわからない。きっと、失われた記憶のどこかが呼び覚まされているのだろう。

妻がまた呼んでいる気がした。自分の目指すべき場所を思い出した。
自分は理想の夫とは程遠い存在だった。妻は表立って私を非難することはなかったし、私にも妻との生活は順調にこなしているという自負はあった。
しかしどこかで、私には自分の存在が今ここにある感覚がなく、妻もそれを感じていたはずだ。私たちは順調だったが、同時にいびつなバランスのうえに成り立っている関係でもあった。それは、私がネクストであるということと、幼少の記憶がないことが間違いなく関係していた。そして私はそんな関係のまま今日に至ってしまったことに、後ろめたさを感じていた。
だからこそ、私は地下に戻るべきだと感じていたのだ。

起き上がったとき、歌声は消えていた。代わりに、自分のいる場所には巨大な3台の室外機があって、轟音を立てながら鼻を詰まらす程の悪臭を撒き散らしていることに気づいた。こんな場所で、なぜ女性のか細い歌声が聞こえてきたのか、理解できなかった。

再び歩き出した。少女に教えてもらった場所までは、さして遠くはないはずだ。問題は距離ではなく、その間にどうしても2本の大通りを越えなければいけないことだった。どちらの通りも、人がごった返している。その中をまともに歩けば、異変に気づかれるかもしれない。ただ私には時間と選択肢がなかった。逆にその込み具合と人々の“無関心さ”に期待するしかなかった。

1本目の通りは、難なく通過することができた。露店が所狭しと並ぶその通りは人で埋め尽くされていた。その中に紛れることは簡単で、私に注意を向ける者はいなかった。

2本目の通りまで来た時に、体の調子がいよいよおかしくなってきた。自分が自分でいられない感覚に陥るようになっていた。
体の変形はさほど進んでいないようにみえた。しかし、肝心の脳に影響が及んでいることは明らかだった。聞こえていないはずの音が聞こえる。裏通りを歩きながら、カランカランと、おおきな鐘が鳴るような音が響き渡っていた。それは、雨が降り続ける音をも超えて、私の頭を支配しようとしていた。嗅覚にも影響した。なぜか、ときおり甘い香りを感じる。周りはヘドロと雨水、泥水しかないにも関わらず。

とにかく前に進むしか考えられなかった。下手な小細工を考えている余裕などなくなっていた。変形と、地下で待つ妻と子どもに会えることと、どちらが先か。このままでは、私は地下にたどり着く前に、変形を終えてしまうだろう。そうなれば、あとはただバグワームとして街を徘徊するのみだ。

2本目の道は、1本目の道ほどには人がいなかった。しかし、それでも露店はそれなりに盛況な感じではあったし、皆忙しそうに行き来している。目立つ動きをしなければ、問題はないだろう。

地上には地下世界には珍しい、雑貨屋や本屋、そして風俗店が並んでいる。地下は“SENSE”と、その技術を応用したエンターテインメントで埋め尽くされており、人々はもはやわざわざ物理的な娯楽を求める必要はなかった。
私もそれは同じで、地上でわざわざ買い物をする気にはなれなかったから、露店で買い物をしたことはなかった。わざわざ物理的に所有や体験をして、何になるのだろう。

私は裏路地でタイミングを見計らった。この道を超えれば、目的の建物まですぐだ。そこまではひと目につかず行くことができる。そうすれば、道は開ける。

通りを横断し始めた。焦らず、ゆっくりと。同時に、足を引きずっていることを隠しながら、なるべく違和感のないように。
通りの中央まで来た。あと半分。

その時、突然目の前に小さな男の子が現れ、行く手を塞いだ。その子は何かを言いたげにこちらを見ている。ボロボロのレインスーツを着て、大きなフードをかぶっていたが、その内にある好奇心旺盛な目が私を捉えていた。
正確には、私の右手を見つめていた。私はその時、自分の右手がはだけて露わになってしまっていることに気づいた。

少年は、じっと見つめたまま動かない。私も前に進むことができなくなっていた。雨は激しく降り続けた。

少年は、私に言った。
あなたはどこから来たの?
私は、答えた。
わからない。それはわからない。

目の前に滑らかなさわり心地の木の積み木があった。
私はそのうち一つを手にとった。円柱のそれは、他のどれよりも一層さわり心地がよかった。手の中にそっと、積み木の方から入っていくようだ。
そして、目の前のもう一つの積み木の上に置いた。こちらは正方形の形をしていた。しかし角は滑らかに削られている。
2つは微妙なバランスによって、なんとか倒れずに保たれていた。円柱の方をもう少し奥まで押し込んだほうが良いだろうか。いや、このままで大丈夫だろう。
私は喜びに包まれた。そしてそれを伝えなければと思った。そう、喜びを伝えなければ。暖かな日差しが、窓から差し込んでいた。

気がつくと、少年は目の前からいなくなっていた。
やっと前に進むことができると思われたが、様子は違った。振り向くと少年は母親と一緒にいて、なにやらコソコソと喋っている。母親は驚き、怯えていた。少年がまっすぐ私の方を指差した。冷酷な仕草だった。
母親が私の方を見て、慌てて右頬を撫で何かを呟いた。すると、一瞬にして周囲の人々が歩みを止め、私の方を見た。私の近くにいた人は一斉に後ずさりしながら遠のいていった。
そして、一人が叫んだ。バグワームだ!

私は前に進み始めた。もはや隠すことはない。堂々と右足を引きずりながら、とにかく前へ前へと進んだ。人垣は私を避けるように道をつくった。もう少年の方を見ることはなかった。
あと少しで通りを渡りきり、裏路地へと達しようとしていたとき、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。自警団がやってきたのだ。耳を切り裂くようなその音はあっという間に近づいてきた。1つや2つではない。少なくとも5つの発生源がすぐそこまで近づいてきていた。
裏路地へと急いだ。闇に紛れてしまおう、そうすれば隠れるところなど、いくらでもある。考えうる限り最大の力をつかって、前へ進んだ。後ろでは野次馬たちが何かを叫んでいた。内容までは聞き取れなかったが、そこには敵意のリズムがあった。何かを糾弾する響きだった。

目の前の裏路地が、急に明るく照らされた。私は歩みを止めた。裏路地の奥の方から、2人の人間がこっちに近づいてくるのがわかった。いや、2人ではなく、5人だった。
立ち尽くした私は、とっさに左手で右の頬を撫でた。しかし何の反応もなかった。もう一度撫でたが、同じだった。もはや脳内チップさえ、犯されていた。
私は少年の方をみた。少年は、母親に抱きつきながらこっちを見ていた。母親とは対照的に、少年の目には恐怖の色はなかった。ただ見なければいけないものを見ている、といった感じだろうか。少年にとって、私は何者なのだろうか。

自警団が私を取り囲んだ。全てで20人以上はいただろう。私はその場で、左手を高々と上にあげた。妻の顔が浮かんだ。バグのおかげで、おぼろげな形をしていたが、特徴的な大きな目と口の下にある小さなホクロを見ることができた。自然と顔が上を向いていた。大粒の雨が、顔を打つ。その時、私は自分が生きていると感じていた。

突然、私の周りだけ雨が止んだ。そして目の前が真っ暗になった。すぐにそれはどちらも間違いで、大きな影が上から降ってきていることに気がついた。
それは、私の真上から方向を変え、すぐ近くまで迫っていた自警団員の一人の上に落下した。人が潰れる音を初めて聞いた。

その影は、大きなトカゲだった。全身がゴツゴツとした鱗に覆われていた。
トカゲは叫び声を上げると、次々と自警団員たちに襲いかかった。自警団たちは小型の電磁パルス銃で応戦した。しかし、トカゲの動きの素早さについていけない。中には、流れ弾があたってしまい、すぐに感電死した自警団員もいた。あたりは大混乱に陥った。野次馬たちは一目散に逃げ出した。自警団員のなかにも逃げ出す者がいた。トカゲは暴れながら、口から紫色の嘔吐物を次々と吐きかけた。
もう誰も私にかまう者はいなかった。私は裏路地めがけて進んだ。

裏路地まできた。あとは、この闇に紛れてしまえば、大丈夫だろう。
後ろを振り向くと、トカゲが最後の自警団員を抑えつけているところだった。その自警団員はヘルメットをかち割られ顔が半分露出していた。口からは血がドクドクと出ていた。そして虚ろな目をしながら小声でブツブツと何か唱えている。
トカゲはその顔面めがけて、嘔吐物を吐き出した。自警団員の顔は紫色の液体で覆われ、ヘルメットに溜まったそれはまるでスープのようだった。
自警団員が動かなくなったのを見届けると、トカゲは天に向かって叫び声をあげた。女の甲高い泣き声だった。そしてこちらをじっと見つめた。
まだ右目とその周りは少女のそれであった。

トカゲはすぐに去っていった。叫び声が段々と遠のいていく。私も歩き始めた。

(つづく)

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