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二軒茶屋餅もの語り【1】 舟参宮の道

二軒茶屋餅に出合ったことがきっかけで伊勢の郷土史の面白さにはまった筆者。この面白さを皆様にもお伝えしたくて、二軒茶屋餅角屋本店の会長・鈴木宗一郎さんと社長・成宗(なりひろ)さんに取材したことをnoteで綴っていくことにしました。

前回のプロローグに続き、いよいよ本編のスタートです。

船着き場として賑わった港町「二軒茶屋」

―――今日はお話を伺う機会をいただき、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。
「二軒茶屋餅」は、二軒の茶屋から始まったのですか?

成宗さん:
ええとですね、この店の後ろに勢田川が流れているのですが、当時は芦原だった船着き場に、私らの創業者である「角屋」と、もう一軒「湊屋」という茶屋ができまして、誰いうことなくこの地を「二軒茶屋」と呼ぶようになったと伝えられています。そこで出される当店のお餅を「二軒茶屋餅」というようになったんです。

―――「二軒茶屋」という土地の呼び名なんですね。創業は天正3年(1575年)、江戸時代が始まる前、安土桃山時代ですね。

成宗さん:
天正3年だとはいわれているけど、そこについては多分、文献はないよね。

宗一郎さん:
まあ、ここら辺に『勢陽五鈴遺響』、私は「せようごれいいきょう」と呼んでいるんですが、そういう地誌があるんです。地元の人が天保年間(1830~1844年)に書いた本です。それには、

「二軒茶屋 往昔ハ民屋二宇ヲ建タル也 二見浦ニ詣ル茶鄽ヲ設ク 今漁農相交リ居ス」
(二軒茶屋 昔は2軒の民家が建っていて、二見浦に参拝する客に茶店を出していた。今は漁業と農業も営んでいる)

出典:『勢陽五鈴遺響』

と書いてあるんです。この時すでに「往昔」と書いてあるんで、天保よりずっと前ということですが、私自身は天正3年とは言うたことがありません。うちの先祖から伝え聞いているので「私は天正年間からやってると聞いてます」と言うてます。

―――なるほど。

宗一郎さん:
まあ、『伊勢神宮参拝記』だったか、元禄時代(1688~1704年)の本には、既に「二軒茶屋」っていうところがあるんです。天保よりずっと先の元禄から載っとるということは、それなりに知名度があって、人さんの頭の中にあったんだろうなと。

―――でも今は、このお店以外は住宅地と田んぼがある、のどかで静かな郊外という感じです。

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旧二見街道。右側が二軒茶屋餅角屋本店、左側が角屋の民具館

宗一郎さん:
私が子どもの頃(昭和初期)この辺りは35~36軒あって、そのうち20軒ぐらいは店屋さんでした。宿屋、八百屋、床屋、桶屋、菓子屋、こんにゃく屋、そして石屋など、すべてのものがほとんどありました。

成宗さん:
屋号は今でも残っているところが多いですね。僕が子供の頃は、「傘屋さん」やら「畳屋さん」「豆腐屋さん」「茶碗屋さん」やら、屋号で呼んでましたから。「角屋」はうちの屋号です。

―――「二軒茶屋餅角屋本店」の「角屋」は屋号なんですね。

宗一郎さん:
ここの二軒茶屋のところは名字で呼びませんね。古い集落へ行くと名字が同じということが多いですが、この辺りの名字はみんな違う。ということは、よそから寄ってきた人が多いんでしょうね。商業地ですから、何とかなるやろうと皆集まってきたんでしょう。

―――たくさんお店のある、賑やかな町だったのですね。

宗一郎さん:
もう私は判断してる。うちの先祖は、ここら辺で商いしたらなんとかものになると思って、茶屋みたいなもんを作ったんじゃないかと思うんです。そこで休憩なさる方にお茶出して、近くで取れるものを加工して出したり、お団子出したりしとるうちに、お餅がメイン商品として残ったんじゃないかと。

伊勢と海をつないだ、舟参宮の道「勢田川」

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勢田川の二軒茶屋付近から川下の風景

―――なるほど。でも、ここは内宮や外宮、伊勢街道からも離れています。茶屋ができるほど、そんなに人が往来したのですか?

成宗さん:
そうですね、東海道から分かれて南下する伊勢街道が有名ですが、昔は「舟参宮」といって、船で伊勢湾を渡り勢田川をのぼるルートがあったんですよ。その舟参宮客が乗り降りした地点が、ここ二軒茶屋なんです。

―――え、船の参宮ルートがあったのですか?お伊勢参りといえば、弥次さん喜多さんのように、東海道から伊勢街道を行くイメージが強くて、そんな道は知りませんでした。

成宗さん:
地図で見ると、三河(愛知県東部)や遠江(静岡県西部)の沿岸の人々にとっては、ぐるっと陸路で回るよりも、船で来たほうが圧倒的に近くて楽なはずなんです。馬や籠というのは、お金のある人ぐらいでしょうね。だから、歩くことを思ったら、何分の一か、下手したら何十分の一の時間で来られるはずなんです。

―――本当ですね、地図で見たら、伊良湖岬が目と鼻の先です。

成宗さん:
伊勢で一番高い朝熊山(あさまやま)の山頂に登りますと、名古屋は見えないんですけど、向こうの知多半島、渥美半島は普通に見えますから。「そこやん」っていう感じなんです。

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朝熊山の展望台から見る、伊勢市街と伊勢湾の眺望

宗一郎さん:
三州吉田(愛知県豊橋市・豊川町辺り)の田楽屋さん、僕、行ってきたもん。おばあちゃん「ここからあんたとこの船が出ていた」って言ってたわ。

―――伊勢湾を渡れば一直線。そりゃ「すぐそこやん」と思います。

宗一郎さん:
勢田川と「二見浦」へ行く旧二見街道との接点が一番近いのはここ、二軒茶屋ですから。そやで、船を降りてすぐてくてく歩ける。また、ここから船に乗って伊勢湾から愛知県へも行ける。便利なところやったもんで。

―――二見浦といえば、神宮参拝の前にここで禊を行うと良いと聞いたことがあります。

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古くから景勝地として名高い二見浦の夫婦岩。

成宗さん:
二軒茶屋に上陸すれば外宮と内宮にも行きやすく、また遊郭や旅館で有名な「古市」へ行くのも最短距離で、舟参宮客にとっては都合の良い場所だったのでしょう。

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古市で唯一現存し営業を続けている料理旅館「麻吉旅館」。国登録有形文化財

―――二軒茶屋は、地理的に良いポイントだったと。

宗一郎さん:
舟参宮がだんだん盛んになってきて、江戸から来た客まで三州吉田から船で伊勢参りなさるもんで、徳川御三家の岡崎や名古屋を通らんようになった。そしたら「そんなことやめておけ」と、関わる者は皆名古屋のお城へ引っ張り出されたんです。

―――街道をショートカットされては、宿場町にとって死活問題ですよね。

宗一郎さん:
とはいっても叱られたのは渡し舟を専業でしている人で、漁師さんなんかは自分の船でいつも伊勢湾の真ん中まで来てましたから、こちらにも自由に来ていましたけど。

―――海の上は関所もないし、何だか、自由でいいなぁと思います。

宗一郎さん:
明治期になると、三州吉田から二軒茶屋の間で外輪船(蒸気船)が就航していました。参宮線が通るまで走っていたんです。

―――鉄道が通るまで、勢田川の舟参宮ルートは重要な交通手段だったんですね。

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川下から川上を見る、勢田川の二軒茶屋付近。

成宗さん:
勢田川は舟参宮だけではないんですよ。実は、勢田川を利用した水運は江戸時代の伊勢を支える物流の大動脈だったんです。

〈続〉

この短い川が、伊勢を支える物流の大動脈だったとは?
次回「二軒茶屋餅もの語り【2】町衆の伊勢」に続きます。

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