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二軒茶屋餅もの語り【2】 町衆の伊勢

二軒茶屋餅に出合ったことがきっかけで伊勢の郷土史の面白さにはまった筆者。この面白さを皆様にもお伝えしたくて、二軒茶屋餅角屋本店の会長・鈴木宗一郎さんと社長・成宗(なりひろ)さんに取材したことをnoteで綴っていくことにしました。

前回に続き、勢田川の歴史から見えた、もうひとつの伊勢の物語をお聞きします。

商業都市・伊勢を支えた大動脈、勢田川の役割

成宗さん:
勢田川を上がっていくと「河崎」という昔の問屋街があるんですよ。

―――河崎、ですか?

伊勢を代表する大問屋街河崎の蔵群

成宗さん:
当時の河崎は、各地から船で運んだ物資を荷揚げして山田・宇治へ運ぶための物流の拠点でした。だから、昔の伊勢の大商人さんは大体その河崎にみえたんです。

江戸期創業の酒問屋。現在は「伊勢河崎商人館」
商人館の中にある茶室。豪奢な商人の文化が窺える

―――確かに、伊勢のような一大観光都市には、物流も重要ですね。

宗一郎さん:
ここら辺は神領で、どこの幕府にも藩にも属していませんから、いわゆる殿様が治めているのと違って、そんな人はおりませんでした。「山田三方(やまださんぽう)」という自治組織がありまして、二軒茶屋や河崎はこれに含まれました。そこでは神宮の権祢宜(ごんねぎ)クラスが、山田地方の経済から何からほとんどその実権を握っていまして。

―――権祢宜。神官ですよね?

宗一郎さん:
神宮を治める神職は、祭主の宮様、大宮司、少宮司、小祢宜、権祢宜の順。でも当時、地元の経済で活躍したのは「御師(おんし)」と呼ばれる権祢宜でした。

―――御師。初めて聞きました。

成宗さん:
この御師というのは自立していて、日本全国に行って武士から庶民にまで神宮の御祓(おはらい)を配って初穂料を得ていました。そうして各地で結びついた人たちを檀家にして、全国各地で師檀関係を結んでいったんですね。

宗一郎さん:
神宮は昔から私幣禁断。天皇以外が賽銭やお供えをあげたらいけない。賽銭をあげるなら御師のところに持っていって、御師が「この人が持ってきたよ」と奉納するんです。

成宗さん:
大名でさえ御師の檀家にありましたから、大名であっても直接お参りできなかったんです。

―――大名でさえも。御師が神宮と檀家をつないでいたのですね。

成宗さん:
そうやって、御師は全国に伊勢信仰を広めて、参宮を勧めました。
実際に自分の檀家が参宮に来たら、伊勢の入り口までお出迎えして、自宅を宿として提供し、豪華な食事の手配から市内の道案内まで手厚く世話したんです。

―――なんと、至れり尽くせりのおもてなしですね。

成宗さん:
その手厚いおもてなしに感動した檀家が、地元に帰って口コミをしてくれれば、次の集客にもつながるでしょうしね。

―――それは、今でいう総合旅行業ではないですか。

成宗さん:
そうなんです。多くの参宮客をもてなす商業が活発化してきたら、今度はより多くの貨幣を必要になりました。そこで金融が発達し、町衆の力で独自の地域通貨「山田羽書」が流通しました。

日本の紙幣の元祖といわれる私札「山田羽書」

―――江戸時代に町衆の独自通貨ですか?

成宗さん:
江戸時代初期に伊勢で生まれた、日本最古の紙幣です。

―――御師の旅行代理業のおかげでお伊勢ブームが起こり、そのおかげで物流が発達し、金融経済が発達し、町衆が独自の勢力を持った。これまで私が知っていた伊勢とは違う一面です。


宗一郎さん:
それから、勢田川と五十鈴川が合わさる伊勢湾の河口には「大湊」という古くからの港町があって、ここも日本有数の港町でした。遷宮の時は、長野県の国有林から筏を組んで伊勢湾を下って大湊に入るんです。 ここはいわゆる木材の集散地ですから、造船所や船大工がたくさんおりました。豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に造らせた日本丸は大湊で造ったというらしいですけど。

中世から近世にかけて海運・造船で栄えた港町・大湊

―――え、あの秀吉の日本丸が、ここで造られたのですか?

成宗さん:
また、二軒茶屋の下流にある「神社港(かみやしろこう)」という港町も発達していました。近くの志摩の漁師だけでなく、三河の方の漁師さんたちも、海に線はないから、伊勢湾で獲れた魚を勢田川の港町で売っていたと思うんです。伊勢には宇治や山田、古市始め、たくさんの参宮客がおり、年間数百万人も来ていた年もありますから。

明治時代まで旅客船や貨物船で大いに賑わった神社港

―――神聖で荘厳な神宮と、自由闊達な活力にあふれた町衆。このふたつが伊勢の風土をつくっていた。それを勢田川の水運が支えていたのですね。

二軒茶屋の人は見た、歴史の転換点

440年に渡り、二軒茶屋を見守り続けてきた大クスノキ

宗一郎さん:
明治5年(1872年)には、天皇陛下が九州への巡幸の途中で伊勢に寄られた時、二軒茶屋から上陸なさいました。 あの時は海路で、品川から艦隊を組んで鳥羽まで来られ、第二丁卯艦に乗り換えられて大湊へ。さらに端艇に乗り換えて勢田川をのぼり、ここ二軒茶屋で上陸して。竹屋儀助宅で休憩し、そこから乗馬にて山田に入ったそうで。参議として西郷隆盛もお供しとった。

―――お店の横に、明治天皇の上陸地記念碑がありますね。

明治天皇上陸地記念の碑

宗一郎さん:
その時、明治天皇は初めて軍服をお召しになっていたんです。輿なしで騎馬で行かはるもんで、昔の衣冠束帯ではいけませんやろう。僕は調べたんです。オランダの王室の軍服やったんや。

―――歴史資料や明治維新のドラマなどで見る、あのお姿ですね。

宗一郎さん:
そんなん二軒茶屋の人は知らんもんで「天子様、見ようと思って待っとったけど、待てど暮らせど」いうたら「さっき馬に乗ってた人がそうやで」と。それで皆、不敬罪で引っ張られたそうです。 天子様ですから衣冠束帯で籠に乗っていると思っとった。そりゃあ写真も見たことあらへんし。

―――二軒茶屋の皆さんかわいそうです。テレビもネットもない時代に、民衆はお姿を知りようがないですよね。

成宗さん:
明治天皇が洋装で民衆の前を通られたのは、東京以外では二軒茶屋が最初だったそうです。この明治天皇の巡幸は、明治維新後の安定と強化のために、艦隊を組み、軍服・騎馬で歩くというのが重要だったのでしょうね。

―――二軒茶屋が、そんな歴史的な転換点の舞台になっていたとは。

〈続〉

勢田川を通してもうひとつの伊勢の側面に出合い、少々興奮気味です。 次回、二軒茶屋餅もの語り【3】受け継ぐ生餅 に続きます。

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