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「あかりの燈るハロー」第八話

第三章

吃音という証明(1)

「茜、おはよう! 今日もよく眠れたかい?」
「……う、うん」
 お父さんの声はいつもと同じに元気だったけど、どことなくさみしそうに見えた。
 トースターが最近よくお目見えする山型のイギリス食パンを跳ね上げると、その勢いに助けられるようにしてあたしは口を開く。
 なにかあったのかな……? と少しだけ心配になったから。
「……お、おおおーお父さんっわっ?」
「お父さん、昨日は久しぶりにお酒をたくさん飲んじゃって、ちょっと眠くてね。でもちゃんと寝たから大丈夫だよ。明日はお休みだしね! 今週も一週間がんばったよ。クールビズで半袖でいいなんていっても、今週は外回りが多かったからちょっとお父さん、痩せちゃったかもしれないなあ」
 そんなことをいいながらおなかを軽くたたく。別に全然太ってないけど、「あと三キロ痩せないと天国のお母さんに笑われちゃうなあ」なんて、ビールを飲みながらお父さんはたまに苦い顔をする。
「ああ、それから今日は病院の日だから、学校が終わるころ迎えに行くね。少し待たせてしまうかもしれないけど、茜、正門で待っててくれるかい?」
「うん……わわ、わかった」

     ♮

 その日の授業も終わり、みんなが元気よく帰っていく正門の脇でひとりお父さんを待つ。通りをはさんだ自転車屋さんの窓ガラスに、みなと祭りのポスターが貼られていた。
 あたしの住む町は港町で、歩いて十分もしない距離に海が見えてくる。近くには水族館と併設されている遊園地があって、そこの観覧車からお母さんと一緒に見る海が大好きだった。
 水族館は大きいんだけど、遊園地はなんてことのない小さな施設で、観覧車以外は子どもだましのお猿の汽車に、ティーカップコースターやミラーハウスなど一度行けば飽き足りてしまうものばかり。それでもみなとで開催される夏休み直前の花火大会は結構な人気で、このときばかりはたくさんの人がやってくる。
『みなとまつり・花火大会』のポスターには、打ち上げられた盛大な丸い花火と、その下には名古屋港にある南極観覧船ふじに、水族館、遊園地にある観覧車の絵なんかが、ちらばった花火みたいに鮮やかな色合いで描かれていた。
 花火みたいな観覧車をみながら、お母さんのことをぼーっと思い返す……。
 お母さんはとてもきれいな人だった。やさしくて賢くて、料理の得意な完璧な女性……きっとそうだったに違いない。ひとつだけ、ただひとつだけダメなところがあったとしたら、それはあたしのことを五歳になるまでしか面倒を見てくれなかったってこと。
 でもそれは、あたしがわがままな子どもだったからでもないし、聞き分けが悪かったからでもない。お母さんは病気で死んでしまった。だからあたしはお父さんから聞く話と、写真からしか、お母さんがどんな人だったのか想像をふくらますことができない。
 それでもちゃんと覚えていることもある。お母さんはよく笑う人で、よくパソコンとにらめっこする人で、それからよくあたしを連れてみなとの遊園地にいき、観覧車に乗せてくれたってこと。
 一日のほとんどをパソコンの前で過ごしていたお母さんは、にらめっこに疲れると決まって大きく伸びをして、振り返るとこういった。
「茜、観覧車に行こう!」
 ――あたしは、そんなお母さんの台詞が大好きだった……。     

「おまたせ! 茜、ちょっと遅くなっちゃったかな? 暑くないかい? って暑いに決まってるよね、ごめんごめん」
 正門前で待っていると、汗をたくさんかいたお父さんが小走りでやってくる。
「だっ…だー、だいじょううぶ、大丈夫だよ」
「よし、それじゃあ行こうか」
 お父さんは、手に持っていたペットボトルの水をひと口飲むと、こっちに差し出して目くばせした。あたしが無言で首を振ると、残りを飲み干して正門前の自販機にあるゴミ箱に捨て、バス停に向かって歩き出す。
 お母さんがいなくなり、いつの間にかうまく言葉が出なくなったあたしは病院へ連れていかれた。最初は港にある古い総合病院だった。「大丈夫だからね?」小さな電光掲示板に表示される番号を何度も見上げながら、お父さんはそう繰り返した。
 診察室ではいろいろきかれた。具体的になにをきかれたかはあまり記憶にないけど、動物が描かれたカードを見せられて、「これはなに?」とか質問された気がする。
 眼鏡をかけたそばかすの看護師さんが親切にしてくれて、コアラのハンカチをくれた。そういえば、あれどこいったんだっけ、きっとあるはずだけど。
 そこでややこしい封印がされた茶色い封筒をもらうと、あたしは大学病院に連れていかれた。そしてさらに今通っている《菊池医院》を紹介されて、月に一回こうしてバスを乗り継いで通っている。
 菊池医院はこじんまりとしてるけど、いつも混んでいる。ここは、吃音の子とか発達障害の子たちも通って来ている専門クリニックで、外の看板と診察券には《心療内科、耳鼻咽頭科》とだけ書かれている。
 水曜午後は《手術により休診》と書いてあるから、あたしの知らない病気なんかも扱ってるんだろう。だって吃音は手術なんてないはずだしね。普通にマスクをした風邪をひいているらしい小さい子が待合室に座っていることもある。
「茜ちゃん、こんにちは。学校はどうですか?」
「と、ととととくに、なな…なーなにも変わりません」
「そっか。前回、いやだって思うことを紙に書いてもらったよね。どうしてみんなマネしたり笑ったりするのかな? 茜ちゃんはどう思う?」
 そんなことわからない。言語聴覚士の菊池先生はいつも『吃ることを気にしないでどんどん話せばいいんだよ』というけど、そんなこと関係ないって思う。だってあたしが吃音だってことは、みんなよくわかってるんだもの。
「やっぱりまだみんなの様子は変わらない? どうかな、守ってくれる友だちや先生はいないって思う?」
「あっ、安西先生は、や、やさしい。国語では、あたっあたしをあーあてない、です。あ、あああと、まー、ままっ守るって、いうのっはー…わわっわからないーでで…す」
「守るっていうのはね、そうだなあ〝見守る〟とか〝温かい目でみてる〟っていう感じに考えてみてもいいと思うんだけど、たとえば、みんなの前で話をするのはこわい?」
「こ、こわくは、な、ない、とお思う。でも……そっ、そーそれもよくわ、わかっ…わーわ…わからない」
 先生がいおうとしてることはなんとなくわかる。あたしはみんなの視線を気にしている。『こわいか』ときかれれば、そりゃこわいとまではいえないけど、それでもまっすぐ見たいかっていわれたら、見たくなんてない。
「そっか」
 菊池先生はにっこり微笑むとパソコンに向かって、カルテになにかを打ち込んでいった。カタカタ、カタカタカタ……横から見る先生の顔つきは真剣で、あたしはちょっと下を向く。
 先生は、きっとこんな答えしかできないあたしにがっかりしている。わからないなんて本当は嘘だから。でも本当のこといえるほどあたしは子どもじゃないんだ。
「ねえ茜ちゃん、背が高い人や低い人がいるように、言葉がうまく出ないのも個性だと思えばいいんだよ。全然はずかしいことじゃないんだ」
「……」
「これは個性なんだよ、ってことをみんなに話してみたことはあるかい?」
 先生は手を休めるとこちらへ向きなおり、自分の膝に腕を置いて、ちょっと身をかがめていった。
「なっ…な、ないっ、です」
「そうか、うん、ないんだね。なかなか難しいかな? やっぱり話すのははずかしい?」
「……」
 そんなこといえない。きれいごとを並べてみたところで、クラスの子たちは誰一人そんなこと思ってないって、わかりすぎるほどわかってるつもりだからだ。
 吃音を直したくないわけじゃない。練習しないとうまく話せるようにならないってこともわかる。でも言葉がうまく出ないのはあたしがお母さんをすごく大好きだったからで、それは十一歳になった今でもずっと変わらない。たった五年間しか一緒にはいられなかったけど、お母さんを思う気持ちはこれからもずっと同じ。
 うまく話せるようになることをみんな期待しているみたいだけど、乗り越えるってことがどれほど素晴らしいことなのか、あたしはちょっとあやしいって思ってる。
「ねえ、茜ちゃん、久しぶりにお母さんのことを訊いてもいいかな。もしよかったら、一緒にお出かけした楽しかった思い出なんかがあれば、聞かせてくれたらうれしいと先生は思うんだけど。どうかな? なにか覚えていることはある?」
 それをきいて、めずらしくあたしはカチンと来た。菊池先生は立派な健常者だ。心のストレスから吃音になってしまったあたしに、いったいなんて答えてほしいの。
 お母さんのことはとってもいい思い出です。もう大丈夫です。忘れられますって? それで楽しかった思い出を話してきかせて、こわがらずにたくさんしゃべってみますって?
 ――そんなのありえない……。
「……」
「まだちょっとつらいかな? ごめんね、無理そうだったらまた今度にしようか。飲み薬はしばらくやめてもらっているけど、今日もなくて大丈夫かな?」
 あたしがうなずくと先生はにっこり笑った。
「じゃあ今日はここまでにしよう。なにかあったらすぐにお父さんに話すようにしてね。吃音は薬で治るものではないけど、気持ちを落ちつける手助けはできるんだ。無理をして我慢する必要は少しもないってことと、僕も含めてみんな茜ちゃんのことが好きだし、ちゃんとついているってことを覚えておいてね。じゃあまた来月、元気な顔を見せてくれるのを先生楽しみにしてるよ」
 菊池先生は、はじめいろいろと読み上げの練習をさせた。でも、今ではこうして学校のことなんかを話すだけだ。


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