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「あかりの燈るハロー」第二十六話

第十三章

アカネ・ゴー・ラウンド
(1)

 お母さんとの思い出がぐるぐると廻る。にぎやかなデパートの人混みに、夏に向けて心おどるような店内の音楽が戻ってくる。
 どうしてひとりで天国へ行ってしまったんだろう? あたしはこんなにもお母さんのことを必要としてるのに、どうしてそばにいてくれないの?
 お母さんを思い出すときは、いつだって思い出の中でだけ。いつだって思い返すことができる気がするのに、お母さんの指でつねられたほっぺたの感覚は、思い出せない。お母さんの笑顔をよく覚えている気がするのに、なぜかその顔は写真立ての中で笑っているその顔の角度だってことをあたしは気づいている。
 お母さんはどんな色の服を着てたんだろう……。お母さんはどんなふうにしゃべっていた? 覚えてる? 覚えてない? ――思い出なんて儚くて、あたしの記憶は毎日見ている写真で上書きされていっているんだ……。
 一緒によく出かけたはずの観覧車から見た景色。お母さんの目には、いったいどんな風に見えていただろう。あのとき、あたしはいったいどんな気持ちで観覧車から外を眺めていたんだろう?
 お母さん……お母さん……。またあたしに笑ってほしい。ぐるぐると思い出すお母さんの思い出が、くっきりはっきりこの目に焼き付くくらいに。そしてあったかい指で、もう一度やさしくあたしのほっぺたをつねって、へそを曲げてるあたしにいってよ。

『茜! 観覧車に行こう』って……。

 …………。

 そうだね、お母さん、観覧車に行こう。
 あたしはベンチから立ちあがり、建物の外へと出た。いつしか空はオレンジ色を超えて薄紫になっている。
 たどって来た国道沿いの道を戻る。生温い風と、車の排気ガスの臭い、建物の室外機の音と暑い風が、いっそう心をくたびれさせる。
 家の付近を避けるように遠回りして観覧車を目指した。きっと家に帰ったお父さんが、あたしを探し回ってるに違いないから。
 人通りの少なそうなさびしげな道を選んで歩いた。それでもときおり犬の散歩をしている人や、遊んでいる小さな子たちを見つけると、あたしは建物の裏や茂みに身を潜めて、相手がこちらに気づかず通り過ぎるまでそこで隠れてやり過ごした。
 観覧車へと続く商店街にたどり着くころ、お店のシャッターはすべて閉じられていて、まるでゴーストタウンにでも迷いこんだ気分だ。朱里が教えてくれた薬局のおばさんは親切にしてくれたけど、あの笑顔さえ今のあたしには信じられない。
 商店街を一気に抜けると、イルミネーションに彩られたカラフルで大きな輪っかが姿を現した。

 ――観覧車……。

 お母さんがいなくなってから、ここへ来るのははじめてだ。速度をゆるめる。ざわつく気持ちを必死でおさえないと足が前に出ていかない。
 あのころときっと景色は違うのに、この目に映るすべてが、あのころのお母さんの声や笑顔を強烈に呼びおこす。あたりの人影はまばら。もともと水族館のおまけみたいな遊園地だ。水族館の閉館時間もとっくに過ぎて、園内にはスタッフぐらいしかいない。
 あたしは目立たない場所から敷地内に潜りこんだ。

 園内放送が遊園地の営業終了を知らせ、数名が閉園準備に取りかかっている。あたしはミラーハウスの裏に身を潜めた。観覧車に目をやると、スタッフがカゴ内の点検をしている。あたしは姿勢を低く保つと観覧車乗り場の裏側に移動した。
 次々にやってくるカゴをスタッフが確認する。点検が終わった観覧車の扉はロック板をおろされる。スタッフはすべての点検を終えるとその場から離れていった。
 今から観覧車を停めるために電源を切りに行くんだ!

 今しかない!

 とっさにそう思ったあたしは、乗り場に上がると観覧車のカゴのロック板を押し上げ、体を潜りこませて内側から扉を引っぱった。
 飛び乗った瞬間、観覧車のカゴが大きく揺れる。

 どうか、気づかないで!

 ベンチとベンチの間の足置場にしゃがみこんで、扉が開かないように押さえながら祈った。

 大丈夫! きっとバレてないはず!
 大丈夫! きっと見つかってないはず!
 大丈夫! きっとうまくいく!

 ………。

「あぁぁーん! できない! できない! できないー!」
「茜、諦めちゃダメよ。さぁ、もう一度折り紙を開いて。コツさえつかめば折り鶴なんて簡単よ。きっとあなたにも折れるようになるわ」
 お母さんは折った鶴を開いて戻すと、テーブルの上に置いた。
「いい? まず、こことここを合わせて……」
 あたしにわかるように、ゆっくり鶴の折り方を繰り返し見せようとするけど、あたしの集中力なんてとっくに切れている。
「わかんない! わかんない!」
 あたしは足をばたつかせる。
「出たわね、駄々っ子モンスター茜が。いいわ、特別な呪文を教えてあげる」
「とくべつな、じゅもん?」
 あたしの怒りは一瞬で収まり、期待の目でお母さんを見る。
「そうよ、この呪文が歌うように上手に唱えることができたなら、きっとどんなこともうまくいく、特別な呪文よ」
「ほんとう⁉ おしえて!」
「よぉく聞いてね、いい?」
 あたしはつばを飲みこみ、真剣な眼差しで呪文に耳をすます。
「How much wood would a woodchuck chuck if a woodchuck could chuck wood?」
「ハウ……マッマッ?」
「違う、違う、よく聞いてね。ハウマッチウッドウッダウッドチャックチャックイファウッドチャッククッドチャックウッドよ」
「わかんないよ! おかあさんのうそつき!」
 お母さんはやさしく笑いながらいった。
「きっと、この呪文が歌うようにいえるまでになったら、茜はなんだってできるわ」

「How much wood would a woodchuck chuck if a woodchuck could chuck wood?」
「How much wood would a woodchuck chuck if a woodchuck could chuck wood?」

 ゴウン…ガロン…ギ…ギギ…ギ。
 ゴウン…ガロン…ギ…ギギ…ギィィ……。

 やがて、観覧車は完全にその動きをとめ、遊園地にともされたはなやかな電飾も消えると、あたりを静けさが包みこんでいく。
 耳をすませば、かすかに聞こえる波の音とあたしの息づかい。
 ベンチに座っても、暗闇の中に沈む海からはなにも見出だせない。そして座るベンチの向かいも、空っぽ。
「おぉ、お…おかあ、さん……あた、あたし、あたし…ささっ、さみし…よお……」
 硬いベンチに横たわり、あたしは膝を抱えて泣いた。やっとの思いでここまで来て、勇気を出して思い出の観覧車に乗りこんだのに……。
 なんでなんだろう? あのときお母さんと一緒に見た景色が頭に浮かんでこないなんて!

 涙があふれて、体は震える。
 カゴにあたる風がカゴを揺らすのか?
 あたしの震えが、カゴを揺らすのか?

 どこまでも続きそうな暗闇と、いつまでも聞こえる波の音が、いっそうあたしの心を刺激して、さびしい気持ちがあふれ出す。
 冷たくて固いベンチが、あたしをあざむくお父さんの愛情みたいに冷たい。
 そういえば昔、一度だけお母さんに連れられて、夜の観覧車を見にきたことがあったっけ……。たしかあの日は、お母さんの誕生日だった。
 お父さんが、「よし! 今日はお祝いに仕事から帰ったらみんなでお出かけするぞ! なんでも好きなものを食べに行こう!」って約束をしてくれたんだ。
 よろこんだお母さんは一日中にこにこしっぱなしで、夕方には、早くもよそ行きの洋服に着がえて準備を終わらせ、「茜ー! もう待ちきれないよぉ」とお父さんの帰りを今か今かと待ちわびていると、電話が鳴った。
「なんで? 今日は絶対早く帰るっていったじゃない⁉ よりによってどうして今日、そんな用事を入れちゃうのよ⁉ すごく楽しみにしてたのに!」
 電話の相手はお父さんで、お母さんはみるみるふくれっ面になり、お父さんが約束をすっぽかしたことがすぐわかった。だって、お母さんは口を尖らせたまま、受話器から耳を離してそっぽを向いていたから。 

 ――ガチャン!

 そして受話器を盛大に叩きつけると、振り返って笑った。
「茜、ゴメンね! お出かけのご馳走はまた今度になっちゃった」
 気を使っていつもみたいに微笑む。あたしはそんなお母さんのことがものすごくかわいそうに思えた。
「今からお母さん、すぐに夕ご飯の支度するからね。おなか空いたよね。ゴメンね」
 さみしそうなお母さんを見て、小さなあたしは一生懸命考えた。
 どうしたらお母さんを元気にしてあげられるかな?
 こんなとき、どうしてもらったらうれしいかな?
 こんなとき、どうしたら……。
 そうして、あたしがいった言葉は……。
「お母さん、観覧車行こう!」
 それを聞いたお母さんは、目を丸くするとぽろぽろと涙をこぼしてあたしを抱きしめた。
「ありがとう! 茜、そうだね、観覧車に行こう」


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