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「LoOp」第二話

第一章 サトザクラ

川瀬昇流(1)

「あ、川瀬さん、ちょっとちょっと。ちょうどいいときに見つけた」
 俺を呼び止めたのは、文京区役所の産業振興課の職員である釜田だった。
「振り込み申請書のフォーマットが変わりましてね、役所仕事で申し訳ないけど、もっかい事業者登録証書き直してほしいんですわ。いやこれからセミナーですよね、開始前で慌ただしいときに申し訳ない」
「いいですよ、今日銀行印もってないけど大丈夫ですか」
「印鑑? あー、いいんじゃないかな。ただの更新なんで」
 釜田は机の上にある紙の資料を入れた太いバインダーを開くと、ガチャリと開いて一枚取り外しこちらに渡した。
「えっと、ここにフリガナもお願いします、そう。カワセノボル――、はい、ありがとうございます。それでは振り込みは今月分は二か月後になりますので。それじゃ、宜しくお願いします。ご苦労様ですー」
 ここでの肩書は経営コンサルタントだった。今日は起業家のための簡単な経営セミナーで、起業や店舗運営に必要な資格、アイデア構築、ECサイトの事例紹介などのカリキュラムで時間は九〇分。十分すぎるほど長い。それでも報酬は片手ほどはあるから、日雇いのバイトに汗を流すよりはずっと効率が良かった。
 エレべーターに乗り、五階の区民会議室を目指す。今日は友人の伝手で得た数少ない割の良い仕事のひとつだった。

 元々は山梨県北杜市武川町で暮らしていたが、幼い頃に両親は離婚した。父親に引き取られたがすぐに父は再婚。すると邪魔になったのだろう、俺はあっさり母の元へと送り返された。しかし母親もすぐに病にかかり死し、母方の祖父に育てられるようになった。現在名乗っている川瀬はそちらの姓だ。
 飯田橋にほど近い雑居ビルの中に事務所を構え、友人にはそれなりに忙しく見せてはいたが、現実は荒んだものだ。若かったころは芸術分野が好きで、シルバーアクセサリーのデザインや彫金をやっていた。その頃知り合った友人の誘いで、当時流行っていたマルチ商法に乗っかると、最初の頃は面白いほど金が転がり込んで見事にハマッた。しかし数年も過ぎるとブームは去り収入は激減する。
 労せず大金を得た罰なのか、再びまともな職に就いて働くこともできずに、こうして実績もないのにアドバイザー的な詐欺まがいの仕事で食いつないでいる。もはや舞い込んでくる仕事など殆どない。たまに市や町から依頼されるお遊戯教室的な無料セミナーの講師の類が関の山だった。
 今日もある公共施設の会議室で、脱サラを目指すおよそ起業家には不向きだと思える連中の前に立っていた。小遣い稼ぎにしかならない。
 連中は一言も聞き漏らさぬように、食い入る目でこちらを見ている。必死にノートを取る者や、ボイスレコーダーなどを持ち込む者もいる。憐れなほどの必死さだ。
 休憩時間を取るたびに、やたらメモしたノートを大切そうに抱えて質問にくる暇な輩は多い。こっちはいちいち相手の顔や名前など覚えたりしない。ただ淡々と時間を消費していくだけ。
 こんなセミナーをやったところで顧客に結びつくことなどまずない。しかし若い女性は別だ。仕事を抜きにして彼女たちの話を聞き、悩みを引き出しアドバイスするのは自分にとって価値があった。
 コンサルタントなんて仕事をしている男に女は弱い。しかも起業を目指している身ならなおさらだ。まあ、実際に上手くいくのは初めだけで、ちょっとばかり高級なランチに飽きた子育ての終わった主婦や、自分磨きに見切りをつけて新しい羽ばたきをまだ見ぬ希望と縋るスーツ姿の女性たちは、こちらに実力も中身もないことを悟ると、そそくさと俺から離れていった。
 そうして俺は闇雲に残りの人生の莫大な時間をやり過ごす。人生が変わるためのきっかけを探しながら。

 余った資料を仕事帰りに立ち寄った居酒屋のごみ箱に押し込んで店を出ると、路地裏から男の罵り叫ぶ声が聞こえてきた。ビルとビルの間にある路地をさらに曲がった先、この辺りは数軒の隠れ家的な居酒屋が並ぶ。
 どうせ酔っ払い同士の喧嘩だろうと、野次馬根性から奥へと入っていくと、一人の男が血だらけになって倒れていた。騒ぎを聞きつけたのか、居酒屋からも客やら店員やらが出てきて様子を伺っている。俺は駆け寄ると、男の意識を確認した。
「大丈夫ですか!?」
 視線は定まらないものの、男の意識はあるように見えた。弱々しく呻き声をあげている。顔面だけを執拗に殴られたのか、切れた瞼や口元から流れる血が生々しい。男は時折ごぼっと喉から血を吐いていた。
 鼻からは、陥没しているのかどうかさえ判断しかねるほど、大量の血液が溢れ出している。俺は窒息しないよう男の顔を横に向けた。頭を支えると、白いワイシャツの袖口が赤く汚れる。居酒屋の店員が駆け寄ってきて救急を呼んだからじきに来るだろうと知らせてくれた。
 騒然とする現場に救急車が到着したのは十分ほど経ってからだった。待っている間はやけに長く感じたが、着くとすぐにキャスター付きの担架が手早く降ろされて、救急隊員が男の意識レベルを確認し始めた。
「大丈夫ですか? 名前は言えますか? ここがどこかわかりますか?」
 男は答えようとしているようだが、口が開かないのか朦朧として上手くやり取りができていない。
 とにかくこの呻くだけの男に対して、何度も同じ質問が繰り返される。救急隊員の一人が傍にいた俺に話を訊きにきたが、実際俺が答えられることなどあまりない。
 だが、無線で病院の受け入れ先が決まると「同乗されますか?」と勧められた。
 どうやら友人か何かだと勘違いしている。
 男の見当識障害が判断できないので俺を当てにしているのかもしれない。
 知り合いじゃない、とはっきり断るのもよかったが、乗りかかった船だ。突如降って湧いたこの血だらけの難破船を、好奇の目で見ずにやり過ごせるほど俺は忙しい毎日を送っていなかった。
 友人を装い救急車に乗り込む。俺は心配した風を装い隊員の質問を適当にやり過ごしていたが、すぐに友人でないことはばれてしまった。
「しかし彼の安否も気になりますし」
 という同乗者を途中で降ろすわけにもいかず、俺は病院まで同行を許された。
 隊員は俺の携帯番号をしっかりと書き留めると、
「後で警察から連絡が入ると思いますから」
 と興味なさ気にそれきり黙って、男の血圧と脈拍値を確認した。救急車の車内なんてものは妙に静かだ。
 彼が処置室に入っている間、俺は後からやって来た二人組の警察官にあれこれ訊かれた。やはり自分が知ることなど大してない。
 手帳を開いてメモを取ろうとしていた若い方の警官は、特にこれといった話が引き出せないと知ると、手帳を閉じて処置室の中へと入っていった。

 待合室の背の硬い椅子でうとうとしていると若い看護師に起こされた。時計を見るととっくに深夜を回っている。タクシーを呼ぼうとして、とりあえず腰かけただけのつもりだったがすっかり眠り込んでしまった。
「お連れの方はこのまま入院になりますので、お疲れでしょう? 今日は一旦帰宅して身のまわりのものを揃えて、明日またお見舞いに来てください」
 さも、心配でしょう、という表情で俺の肩に触れる。ほっそりとしていたが、この仕事をしているにしては手が若く、まだふっくらと白かった。
 専門学校を出たばかりの新米ナースだろうか。後ろで一つに縛った茶髪の裾にメッシュが入っている。明日は非番か? この時間帯に勤務しているなら、おそらく明日の日中はいないだろうが。
 俺はさりげなく胸元の名前を確認すると、
「ありがとう。また来ます」
 と言って病院を出た。

 翌日、昼近くに目を覚ました俺は、彼の入院する病院に見舞いに行くことにした。
 ナースステーションで、昨日運ばれた男の病室を訊ね、廊下の案内を見ながら外科病棟を目指す。
 たどり着いた病室前のネームプレートには波柴明周と書いてある。
 奇妙な話だがこのときまで俺は男の名前を知らなかった。その事実に新鮮な驚きを抱く。我ながら、男の名前にはまるで興味がなかったわけだ。血まみれで倒れていた不幸な被害者より、白い手で肩に触れたナースの名前と勤務時間に俺は気をとられていた。
 自嘲的な笑いがふいにこみ上げる。それを呑み込んでからドアをノックすると、病室の中へ入った。
「やあどうも、こんにちは。お加減は如何ですか」
 ベッドに横たわった男が頭だけを起こすと、不安そうにこちらを伺った。色白で顎髭を生やし、大きく開いた目と長い睫毛が優男を印象づける。
 頭にはネットが被せられ、でかいガーゼが鼻を完全に覆っている。顔は内出血による痣だらけで紫色に腫れ上がっていた。実際この男が俗に言う「男前」なのかどうかは、今の段階ではわからない。なんともご愁傷様だ。
「あの……あなたは?」
「これは失礼しました。こうしてまともにお話しするのは初めてですね」
 血を流し、意識混濁していた状態で、救急車に同乗した俺のことを覚えていなくても当然だった。昨夜の出来事を簡単に説明する。
「僕は川瀬昇流と言います。倒れているあなたを見つけたときは、いやあ、本当に驚きましたよ。人が集まっていましたが誰も助けようとしなくて……。大変な目に遭われましたが、とにかくご無事で、本当によかったです」
 相手にほっとさせるには、まず自分がほっとして見せるのが一番だ。このミラーリングは本当によく効く。大袈裟なくらいでも構わない。
 看護師にいくらかは説明を受けていたのかもしれない。男は自分を介抱した俺を思い出したようで、
「ああっ、あなたでしたか。これは失礼しました」
 安堵した表情を浮かべると、上身を起こして丸椅子に手を伸ばそうとする。
「いや、そのままで。体に障ります」
「どうぞ座ってください。僕は、海の波に柴又の柴と書いて、波柴といいます。こちらからお探しして然るべきなのに、助けていただいた上に、わざわざ来ていただけるなんてこれは感激だ。……本当にご迷惑をおかけしました」
 波柴は何度も礼を言った。こいつは被害者だというのに申し訳なさそうに話す。いくら俺が恩人だといっても妙に腰が低い。
「いえいえ、昔から困っている人を見ると放って置けない性格で……」
 俺が照れくさそうに頭を掻くふりをすると、波柴はさらに緊張が解れたのか、口元のテープを気にしながらも、ぎこちなく笑って見せた。
 普通ならもっと落ち込んでいてもよさそうなものだが、意気消沈しているという感じは受けなかった。
 騒動から一夜経って、血だらけの難破船といった体裁は既になく、落ち着いたものだ。俺は興味本位から話を続けた。
「一体何があったんです」
「同じ質問を午前中に来た警察の方にも繰り返し訊ねられたんですが、何も答えられなかったんですよ。まったく身に覚えがないんです。いきなり後ろから殴られて……相手の顔も覚えていませんし、財布も無事でした」
「そうなんですか」
 善良な一般市民といったところか。大して治安も悪くないあの路地裏で、ただの憂さ晴らしにこの男が選ばれたのだとしたら甚だ憐れに思えてくる。
 見当がつかず、途方にくれながらも自嘲的な微笑みを浮かべ、
「いやあ、なんだか物騒な世の中ですよね」
 と話す口調が、さらに優男に憐れみを醸し出していた。
「波柴さんのご出身はどちらですか」
 俺は話題を切り替えた。特に興味もなかったし、男の素性を訊く必要などなかったが、職業柄その場の空気をコントロールする癖がついてしまっている。緊張した空気では流れはよくならない。
「山梨です。いや、田舎でお恥ずかしいですが」
「え、それは奇遇だ! 僕もなんですよ。ちょっと引越しが多かったから、北杜市内を転々としたんですが。長くいたのは見延山の方で」
 話してみると、この男とは驚くほど共通点が多かった。歳は違えど、田舎や出身校、さらには上京後の職業までもが同じで、シルバーアクセサリーのデザイナーをやっていた経験があるという。嘘のような本当の話だ。
「いやあ、まさかこんなところで同郷の方にお会いできるなんて」
「私は実相寺の方です。有名な桜がありましてね」
「ああ、神代桜でしょう! 見に行ったことありますよ。あれはすごい」
 ひどい怪我をして、というよりは、暴行を受けて興奮状態にあるのか、波柴はべらべらとよく喋った。時折、顔のガーゼや点滴を邪魔そうにしながらも滑らかに話を続ける。目の奥に、俺に対する興味と親しみがありありと浮かんでいた。
「お仕事は、今もデザインの仕事を?」
 訊ねると、波柴は首を横に振った。夢を諦めたという訳ではなさそうだ。
「今は雑貨兼、カフェをやっているんです」
「ほお……ということは、お店をお持ちで? それはすごいな」
「とんでもないです。店というより、小さなアトリエみたいなものですから」
「いやいや、たいしたものですよ」
 この目には見覚えがある。俺の講座を受けにくる輩にはあまりいないが、起業に成功する人間が決まって持っている確信と矜持に満ちた目だ。反して自分を大きく見せようと虚勢を張る人間のプライドは伸びきった風船のように薄く一突きもすれパツンと割れてしまうほど脆い。
「しかしすごいものですよ。好きなものを趣味で終わらせず、きちんと仕事に結びつけることはなかなかどうして、誰にもできることじゃありません」
「たしかにデザイン関連は好きでしてね。自分で珈琲を淹れても、すっかり冷めるまで飲むのを忘れてしまうくらい没頭してしまうから。彫金は時間ばかりかかるけれど、まったく苦にはならないから、そういう意味では向いているのかもしれません」
「きっとそうだと思いますよ、いやすごいです」
「そうだといいな。褒めていただいてありがとうございます」
 きちんと背筋を伸ばし、まっすぐ見つめて礼を伝える。暴行を受けて入院しているとは思えない安定した口調だった。妙に丁寧で低い物腰は、客商売をしているからだったかと納得する。


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