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子どもたちの支援をする仕事の夢を叶えた私の生い立ち②

私の記憶にある家族の生活は古い2階建てのマンションともアパートとも表しがたい建物から始まりました。姉2人と近所の子どもたちと一緒に外で遊ぶなどごくごく普通の幼少期を過ごしていたように思います。この頃の母親は子どもたちが悪いことをするとベルトをムチ代わりにして子どもたちを叩いていました。詳しくはわかりませんが、何かの宗教にハマっていて素手で子どもを叩くことを禁じられていたそうです。父親は長距離トラックの運転手だったので、家に帰って来るのは数日に1度だけでした。母親はよく「私は1人で子どもたちを見てきた。私はこんなに頑張った。」と子どもたちに言っていました。後の男性との不倫の時や夜逃げ後のネグレクトの時も同じ言い分を繰り返しています。その言い分は子どもたちを洗脳するものでもあり、「お母さんは自分たちのために頑張ってくれている。」と私自信も深い穴の中で何度も何度も自分に言い聞かせてきました。そこから抜け出すにはかなりの時間と労力が必要でした。穴から出てこのことを冷静に話せるのが奇跡的なことなのかもしれません。

それなりに平穏な暮らしを送っていた時代ではありましたが、ある時期から不穏な空気が流れ始めます。中学生になった1番上の姉が、非行に走り家に帰って来なくなったのです。家を脱走するようになり、ガラスを割って血だらけになりながら脱走することもありました。この頃は夜中まで両親が探しに行って帰って来なかったことも多かったです。そんなある日、私が風邪をひいて熱を出してしまったことがあります。両親は姉を探しに家を出ており、その時は下の姉が看病してくれていたのを今でも覚えています。下の姉は何かと気にかけて幼い頃は色々と私の世話をしてくれました。自分も寂しい中なのに私のことを不憫に思い、、気にかけてくれていたのだと思います。そんな沢山気にかけて世話をしてくれた下の姉でしたが、大人になると離婚を繰り返し育児も放棄するようになってしまいました。お互い大人になってから何度か会話をした時も、ほとんど会話が噛み合わないぐらいに深い穴に潜ってしまっていました。それを見た時私は責任を感じました。自分のことで精一杯で傷付いている中、私をずっと気にかけてくれていたことが幼なき頃の姉にどれほどの負担をかけてしまっていたのだろうかと。大人になってから親や兄弟とうまくいかなかったり衝突したりで悩むケースは少なくないと聞きます。もしそれで悩んでいる方がいらっしゃったら胸を張って前を向いて進んで欲しい。それはきっと苦しんだり悩んだりしながらあなたがあなただけのあなたの人生を歩んで来た証拠なのだと私は思います。それを1番に認めてそれを1番に大切にしてください。

そして、この後一家は同じ市の団地に引っ越すこととなる。その時私は6才で小学校に入学する時でした。

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