見出し画像

学歴社会と資格社会

学歴社会

学歴社会と聞くことは一頃よりも少なくなってきたように思いますが、現日本の社会は未だそうであると思います。それが普通なこと過ぎて耳にしなくなっただけなのかもしれません。中卒よりも高卒、高卒よりも大卒、大卒の中でもそのランク。個人であるその人自身を見るというより、ブランド視するかのごとく大学名を見る。ブランド志向。いい(個人が優秀)も悪い(個人が優秀ではない)もそのブランドには間違いない。もはや履歴書はブランドのタグ化しているようにも思えてくる。皆がそうであると言わないまでも、そういうことが一般的見方というのは実際にあるのではないでしょうか?それがわかっているから、また社会人経験のない多くの若者が大学入学が人生のゴールかのように思ってしまう節があるのではないでしょうか?そんな錯覚に本気になってしてしまう。日本の社会の傾向がそうであるから間違いではないのかもしれないし、それに抗うよりもむしろ楽なのかもしれないし、現実選択肢という意味ではかなり有効になるのも事実でしょう。つまり結局それが「現実的」なのかもしれません。それと同時に、またそのために勉強の才?でもなければ多くの時間を費やすことになる。学習に対して努力するのはもちろんいいこと。ですがそれは受験のための勉強であって、その多くのことが人生や社会であまり活かされないのだとしたら悲しく思ってしまう。学校での勉強が活かされることはもちろんある。しかし、活かされなかったとしても、とりあえずは生きていけるはず…社会に出たら収入の問題でより勝ち組負け組といった競争社会になり、やがては格差社会になる。自分自身の人生を歩んでいくというよりは、その為に走り続けようとする…

資格社会

社会人になってから、別の進路を目指すことになった場合、日本では大学に再入学というのは一般的ではないし、仮に再入学できたとしてもまた多額なお金が必要となるのでお金に余裕でもない限り現実的ではない。大学に行かないまでも、それ以外の方法(目的)として必要な資格を取得しようと勉強することが近道となります。そして資格によっては大卒でなければ受験(応募)すらできない資格があったりと、応募資格もいろいろな要件があって様々。こんな言い方良くありませんが、資格はピンからキリまであり、この場合のピンとはその資格がなければ仕事ができなかったり、就職に際して有効に作用する資格、キリとは職業として有効に作用しても認知されていなかったりで、ないよりはあった方がいい程度であまり重んじられていない資格。ここでも個人というものがないがしろにされがちです。多くの資格が筆記試験が多いため、頭がいい人(特に記憶力が優れている人)にとても有利だと思います。そういう意味では学校のそれとさほどかわらない。でもよく思うことがあって、インプットが得意な人がアウトプットも得意であるとは限らないということ。資格があって、何らかの採用には有利に働いても、実際の仕事は案外ダメってこともある。
資格については資格取得マニアがいるほどですが、資格によっては協会費が毎年かかったり、何年間毎に更新、その度に費用や資格を継続するための講習や試験があったりすることも。一言に資格と言っても楽じゃない…
実際資格取得ができたとしても、主にそれを活かそうと再就活してみても、経験がないと言われてしまったり、年齢を気にされたりして、何のために資格取得したんだか…?という場面にも出くわすことがあります。


この日本社会は何かが違うと思う。なんでも名前(ブランド)で塗り固められているし、教育もそのシステムも目指すところもその本質そのものも見失っている気がする。そして実際に達成していきたい目的よりも、いつも頭脳が重んじられている。人間性は二の次。そして失敗は許されないという風潮。でも実際失敗したときに救ってくれたり、ポジティブにさせてくれたり、許されることで頑張りたいと再び思わせてくれるのはのはいい意味での人間性。人間性をもっと尊重しあえる社会であったらいいなと思います。よく「多様性」というけれど、その前にそれを優先すべきで、逆に言えば、人間性を尊重できなければ多様性など尊重できるわけがないと思ってしまいます。それができれば「自殺問題」も緩和していけるのではないかと思っています。結局のところ、資本主義社会の負の副産物なのでしょうね。いつまでその(従来の)資本主義社会に人は縛り続けられるのでしょうか?

よろしければ「サポート」をお願い致します!いただいたサポートは、クリエーターとしての活動費に使わさせていただきます。