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【社長の自己紹介】不動産業での独立を志した私の原点と半生

初めまして!
株式会社日本ユニストで社長をやっています、今村亙忠(いまむらのぶただ)と申します。

日本ユニストは関西を中心に不動産開発のほか、大阪・新世界や和歌山・熊野古道でホテルを運営している会社です。
これからnoteを通して会社の事業などについて発信していくつもりです。

記念すべき第1回目では、私の自己紹介をします!
日本ユニストのことを知ってもらう前に、まずは日本ユニストを起業した私のことを知ってもらえればと思います。

少々長くなりますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです!


私の半生

私は1981年12月14日、大阪府豊中市に生まれました。
大阪空港や万博記念公園が近くにある街です。
4人きょうだいの2番目で、姉と弟2人に挟まれ、にぎやかに育ちました。

面影ありますか?

小・中学生時代

「長男がすべてをまとめていけ」という親の考えのもと、家族内で問題が起きたときは解決する役割を、小学生の頃から自分が果たしてきました。
家族の人数が多かったため、きょうだいそれぞれに役割がある家庭でした。
ライオンの群れのような家族で、少し特殊だったかもしれません。

父はさまざまな事業を手掛けており、祖母も飲食業を営んでいたので、自ら事業を興して商売することは身近に感じていました。
父の仕事の知り合いが自宅に来て食事をすることも多く、「目配り・気配り・心配り」についての礼儀やマナーが、自然と身に着いた子供時代でした。

祖母には幼い頃から「男は自分で商売せなあかん。あんたも30歳までには独立しいや」と口酸っぱく言われていたので、起業しようという考えをいつ持ち始めたのかわからないほど、かなり低年齢の頃から意識していたと思います。
洗脳に近い気もしますが(笑)、今の自分があるのは間違いなく祖母のおかげです。
(ちなみに、弟2人も不動産会社を興しています)

遊園地に遊びに行った時の1枚(右端が私)

高校時代

地元の公立小中学校から、高校は私学へ進学。
足の速さには自信があったので、アメフト部に入ったものの、90kgくらいのゴツイ男子に体当たりされるのが思っていた以上に嫌で、即行で退部。

部活をやめたことで時間ができて、高校1年生の頃から「将来どうしようか」と真剣に考えるようになりました。
地元だけにとどまっていた中学時代とは違い、自分とは違う能力や個性を持った人と高校ではたくさん出会ったので、「自分にできることは何か」と、自己内省する良い機会でした。

色々考えぬいた結果、「大きな市場があって、ヒト・モノ・カネを集めやすい業界は金融か不動産やな」と思うように。
振り返れば、高校時代が不動産を志した原点と言えます。

将来のことを真面目に考えていた反面、かなりやんちゃもしており、実は停学処分をくらったこともあります… 
詳細気になる人は、直接聞いてくれたらこっそり教えます。笑

大学時代

大学は関西大学へ。
歴史が好きで、中国という国に興味を持っていたため、文学部で中国語を専攻しました。

思い出深いのは1回生と2回生の夏休みに2回、
中国へバックパッカーとして1カ月以上、旅行したこと
大阪・南港から上海へ行くフェリーに乗り込み、中国大陸へと向かいました。
船内には世界一周中の人や北朝鮮に向かう人など多種多様な人がいて、交流できるのが到着前から新鮮で楽しかった!

中国では、新疆ウイグル自治区の中心都市・ウルムチ周辺など、多くの場所を1人で巡りました。
現地では、「南京大虐殺のことをどう思っているか?」と聞かれることも。ただ、日本で詳しい歴史教育を受けていないからわからず、返答に困る場面もありました。
海外から日本がどう見えるのか、なぜその見方がされるのかなどがわかってきて、人生の中でも大きく価値観が変わった出来事でした。

それ以外では、ひたすら麻雀に明け暮れる日々を過ごしていました。
雀荘では、牌の切り方や、勝ち負けに伴う周りの人の感情の揺れ動きを目の当たりにして、人間観察の目が養われました。
そして、麻雀のしすぎで就活もやらずじまいでした・・

1社目:不動産ではなく商社へ

大学卒業後は、住宅資材の専門商社・通商株式会社に親の紹介で入社。
いきなり不動産会社に入るのではなく、不動産を支える側の仕事を学ぶことで、資材の相場や仕入れの仕組みなど、構造を学びたいと思ってのことでした。

新規営業を担当し、最初の1年で予算を達成。
新しい会社へ転職することも考えましたが、「1年だけなら数字を出せる奴はいる。あともう1年でここまで数字出せたら本当にすごい。そうなったら辞めたらいい」と上司から目標数値を提示されました。
先輩方のサポートのおかげで、翌年も数字をクリアすることができ、2年目の終わりには、快く送り出していただきました。
その上司とは今でも付き合いがあり、私を一番熱く応援してくれている人です。

2社目:デベロッパーの世界に飛び込む

次は「東京の不動産会社で働きたい」と思い、知り合いの伝手で2社の面接を受けたものの、どちらも不採用に。
どうしたものかと思っていたところ、回りまわって不動産開発の株式会社ジョイント・コーポレーション(現・株式会社 長谷工コーポレーション)に入社しました。

初めて東京で暮らすことになったと同時に、不動産の世界に足を踏み入れた第一歩となりました。
2社目は当時、日本のデべベンチャーで最大規模の会社。
不動産のいろはを学んだとともに、最先端の仕事に触れて衝撃が大きい日々でした

担当業務は、事業収支の計画書を作り、仕入れの実務部門に流すこと。
外勤の営業マンのように外を飛び回る仕事ではなかったものの、1日20件の事業収支作りをこなしたため、
物件を実際に見なくても、概要書を見ただけで数字をはじき出して判断できる力が身に付きました
これは現在の社長業にも生きている能力であり、今でも周囲の同業者からは「レアなスキルですね」と言われます。

2社目での経験は、私の不動産人生における原体験となりました
ただ終電まで働くような毎日でノイローゼ状態に陥り、宅建の合格を機に、転職を決意しました。
 

3社目:不動産を一気通貫で学ぶ

2社目の退職後、激務から解放され、1カ月間ハワイ旅行へ行くことに✈

帰国後に転職活動をしようと思っていたところ、「面接の枠を今すぐ用意してくれる会社があるよ」と2社目の上司に紹介され、選考を受けることになったのが、3社目となる不動産開発の株式会社日本エスコンでした。

何の気なしに急遽受けることとなった面接でしたが、この会社と出会えたことには本当に感謝しかありません。

ただ、面接の話をいただく前に、旅行に向けて髪の毛を真っ赤に染めていたため、染め粉で黒くして面接へ。
しっかり粉を振ったつもりが、「なんで髪赤いねん!」と面接官に突っ込まれる羽目に。全然隠せてませんでした・・・笑

面接では「4年後の30歳頃には独立したい。そのために不動産の全体像を把握し、もっと勉強したい」と伝え、入社が決まりました。

3社目では、不動産開発事業全般を幅広く担当。
事業収支作成、社内稟議、土地を買った後の測量、
設計事務所・ゼネコンとの打ち合わせ、竣工後の販売。

建物を建てて売るための、ほぼすべての工程を経験しました

日本エスコンに入社した翌年の家族写真(後列中央が私)

私が入社した2008年は、リーマンショックが起きた年。
会社では150人いた社員が半分に減り、「明日つぶれるんじゃないか」という噂を聞きながら働く毎日でした。

分譲マンションの販売事業を行っている会社だったので、モデルルーム前で看板を持ったり、チラシを配ったり、それまで外注していた仕事を内製化するようになりました。

私も看板持ちを任されました。
ちょうど肌をこんがりと焼きたい年頃だったので、タンクトップで看板を持って立っていたところ、「あいつは何者や」とクレームが入ったことも・・
土日も出勤しなければならなかったので決して楽ではなかったのですが、「仕事の傍ら焼けたら一石二鳥やな」と思って楽しんでやってました。笑

ある日、後輩がモデルルーム前でチラシを配り、私が看板持ちをしていたとき。通りがかった人に、後輩がうまくチラシを渡せなかったことがありました。
そのとき私が「あの人がマンション買おうか考えている人やったどうする?せっかく仕事を任されているなら、ちゃんとやらなあかん」と諭したそうで、それが心に残っていると、最近その後輩から言われました。

私自身はすっかりこのことを忘れていたのですが・・・
思い切りジョブローテーションが切り替わった状況でも、仕事に真剣に取り組んだのは良い経験だったと思っています

また、27~28歳の頃、年間200回の合コンを開いていました。
1日2回合コンをはしごしたこともあります。
男女の出会いという目的だけではなく、伸びそうな若者を業者会で見つけたら声をかけまくるようにしました。
各方面への声掛け営業がバズり、一気に人脈を形成できたのも懐かしい思い出です。

30歳を目前に独立を決意 

もともと「30歳までには独立する」と決めていたので、その前段階でやらなければならないことは、逆算して準備していました。
起業する1年前は、自宅にいて紙にひたすらTODOを書き出し、考え事をして過ごしていました。

自分の中で、独立を決意するタイミングは前もって決めていました。
それは、「自信が7割くらいついたと思ったとき」
かつ「どうしても無性に自信がみなぎってうずうずしてくるとき」

自信が8割、果ては100%まで出てくるのを待つのはキリがなくて、逆に踏ん切りがつかないと思ったから。
あとは、自分の直感ややる気が沸き起こってくるときこそ、運が味方してくれるような気がしたからです。

その感覚が重なったのが、2011年春のこと
直感的に、そして瞬間的に、「会社辞めます」と口にしていました。
まさにその時の自分は、「今独立しないと作れないものがある」とビビッと感じました。

ただ、会社を退職したのが、妻が第2子を出産する月。
妻への事前相談なしに辞めたので、とてもびっくりされました・・

そんなこんなで晴れて、日本ユニストを創業。
今では不動産営業マンやホテルスタッフ、マーケターなど、30人超の従業員が働く組織となりました。

2021年12月の忘年会で。

昨年までは不動産開発1本でやっていたところ、
通天閣近くや熊野古道でホテルを開業するなど、新しいことにもどんどんチャレンジし、今までと違った人材も集まってくれるようになりました。
これからの組織の将来がますます楽しみですし、まだまだやりたいことがたくさんあります。

日本ユニストを立ち上げてからの11年間や、これから目指す会社の姿、自分の夢などは、追って少しずつ発信していくので、また読んでいただけると幸いです。

長くなりましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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