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日本の仏像1~如来編~

この記事の内容

皆さんは、お寺に祀られている仏像について、どれくらいのことを知っているだろうか。日本人の生活の中には、仏教が深く関わっている。皆さんも一度はお寺にお参りに訪れたことがあるはずだ。しかし、そのお寺の本尊である仏像の名前、そして、その仏像に込められた意味について知らない人は多いのではないか。私もその一人であった。
本記事では、梅原猛著「仏像のこころ」の内容をもとに、日本仏教で主要な仏像とそこに込められた意味を紹介する。本記事はその第一弾として、如来について、述べることとする。

私は敬虔な仏教徒ではないが、この本を読んだことがきっかけで、旅行先等でお寺に足を運ぶことが多くなった。やはり、何事も意味が分かればおもしろい。
・この寺は、あの寺と同じ仏像を祀っているつながりの深いお寺なんだな。
・この仏像にはこういう意味が込められているから、人気なんだな。
など、お寺に行った際の注目点が増えた。
皆さんが仏像へ興味を持つきっかけになれば幸いである。

釈迦如来

そもそも如来とは何なのか。仏様は大きく分けて「如来」と「菩薩」の二種類に分けられる。この二つの違いは以下の通り。
如来:すでに悟りを得た真の仏
   ⇒装飾品を身に付けていない(悟りに入った仏に飾りは不要)
菩薩:これから仏となる候補者
   ⇒装飾品を身に付けている(菩薩はあくまで人間)
私はこのことだけでも、目から鱗であった。

釈迦については、言うまでもないだろう。仏教の開祖である。そして釈迦は実在した人間である。人生の苦しみを解決するために、苦行の末、悟りを開いた。
私たちと同じ人間であるはずの釈迦が、わが国において、超人間的存在(仏)として信仰されているのは、どういうわけか。それは、日本に入ってきた仏教が大乗仏教であったことと深い関わりがあるらしい。

大乗仏教は、それまでの形骸化した伝統仏教(小乗仏教)に対して、釈迦の精神に帰れという仏教革新運動から生まれた(大乗:誰でも乗れる大きな乗り物)。
大乗仏教では、釈迦の存在を超歴史化・超人格化し、それを人間とは異なる仏として信仰する。

また、日本で造られた釈迦像は、主に誕生仏と涅槃仏であるらしい。つまり、生まれた時と亡くなる時の像ばかりが造られ、釈迦が苦行を行い、悟りを開く過程が捨て去られているのである。これは、日本において時間をかけて悟りに入る仏教よりも、ただちにこの身のまま悟りに入る仏教(より簡単な手段による救済)が受け入れられたことを意味する。このことは、以下でご紹介する仏像の崇拝にもつながっている。

薬師如来

薬師如来は、病気を治す仏様である。
仏にも流行がある。仏教が日本に入り、釈迦像が盛んに造られるが、次第に薬師像に取って代わられる。民衆からすると、苦行を通して悟りを開くことで救われる、という釈迦の教えは高尚過ぎる。それに比べて、薬師はお願いすると、病気を治してくれるのである。功利的で実用的。なんと分かりやすい仏様であろうか。
国宝・重要文化財に指定されている如来像のうち、薬師は阿弥陀に次いで第二位の数を誇る。私もお寺に行った際に、自らや家族の健康を願うことが多いので、このランキングには納得である。

また、梅原氏はこの薬師信仰の中に、日本人の思想の矛盾を指摘している。
戦前の日本においては、功利主義や実用主義は思想として認められていなかった。そういうことを口にすることは、自らの浅はかさを告白するのと同義と考えられていたのである。
しかし、この薬師信仰は、まさに功利・実用主義的な思想の表れであり、表向きの高尚な思想と、根底の功利・実用的な思想の矛盾が見て取れる。カッコつけて人格だのなんだのと言っても、結局は現世利益が大事なのである。

ちなみに日本仏教の中心地であった比叡山延暦寺、その中心である根本中堂の本尊は薬師様である。いかに薬師様が日本に根差した仏様であるかが分かる。

阿弥陀如来

阿弥陀如来は現在もなお西の方、十万億土を超えた所に極楽浄土を開いて、そこで説法をしていると信じられ、われわれ凡夫はこのままの姿で、この浄土にある宝池の蓮華の上に往生して、この如来に救ってもらえると信仰されている。

平安時代中期以降、わが国では阿弥陀信仰が盛んになる。現世に対する絶望と死に対する不安が人の心を襲ったことにより、薬師信仰は阿弥陀信仰に取って代わられるのである。
阿弥信仰は、薬師信仰とは異なり、現世利益を求めるものではない。死後の世界における救済を求めるものである。人々は、希望の無い現世から目を背け、死後の阿弥陀浄土を信じることにより、人生の空虚さや無意味さに耐えることが出来る。そしてそのことが、現世における希望になるのである。

阿弥陀信仰は、平安時代以前と鎌倉時代以降で信仰方法が大きく変化する。
平安時代以前の阿弥陀信仰では、極楽浄土に行くために、大変な精神の鍛錬が必要であった。それが鎌倉時代以降、法然と親鸞によって、「とにかく南無阿弥陀仏を唱えていれば、極楽浄土に行くことが出来る」という方法が示された。
※南無:信じる⇒南無阿弥陀仏:阿弥陀仏を信じます
これは、釈迦如来の節で述べた「より簡単な手段による救済」の一例である。この手軽さは、浄土宗・浄土真宗が日本全国に広まった理由の大きなものであろう。

この変化は阿弥陀像の形状的変化をもたらした。阿弥陀像は坐像から立像に変化する。坐像の場合、坐っている阿弥陀様のところへこちらからでかけてゆかねばならない。しかし、立像となった阿弥陀様は、南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀様の方から出かけてきてくれる。また、手の形でメッセージを伝える印相は、定印(じょういん:瞑想の状態を表す)から来迎印(らいごういん:人々を極楽浄土に導く様子を表す)に変化する。このように阿弥陀様のサービスはだんだんと良くなり、気軽に極楽浄土に行けるということになる。


阿弥陀如来坐像_来迎印(しゅって出典:京都国立博物館HP)

私はこれまで、仏教は昔の偉いお坊さんが大陸から輸入した当時の形のまま、現代まで受け継がれているものだと思っていた。しかし、実際には社会情勢や民衆の思いにより信仰の形が変化しているのである。
これが良いことであるのかは正直よく分からない(何をもって良いのかすら分からないが)。阿弥陀信仰が人気を博したというのは、「大変なことは嫌だから、より簡単な教えに人々の人気が集まった」ということであり、宗教の堕落と表裏一体なのではなかろうか。しかし、それで多くの人々が救われるのであれば、良いことなのか。なんとも難しい。

大日如来

大日如来は「宇宙を統べる絶対の仏」である。
ここまでこの記事を読んでいただいた方なら、上記の一文で、大日如来が人気な仏様かが分かるのではないだろうか。

答えは「人気の無い仏様」である。その理由は以下の通り。

まず、大日如来は知の仏様であるということ。つまり現世利益を願う仏ではないのである。大日如来は知の仏様として理論的に創り出された仏なので、民衆には思想が難し過ぎる。
また、日本では知の仏様は情の仏様よりも人気が無い。日本文化は主情的であり、仏教を取り入れる際も、理論的・哲学的に仏教を理解する前に、芸術的・美的に仏教を理解したのである。よって主知的な大日如来は人気が出ない。

そして、大日如来が真言密教の本尊であるということ。
真言宗は空海が輸入し大成した宗派で、高野山が有名である。しかし、天台宗とともに、寺院や信者も少なく、人気な宗派ではないのである。よってその本尊である大日如来も人気が出ない。

しかし、大日如来は宇宙を統べる絶対の仏なのであるから、仏の王様なのである。そのため、仏様の世界を表現した絵図である曼荼羅では、その中心を大日如来が占めているのである。
仏の王様にして、民衆とはなじみが薄い仏様。非常に興味深い仏様である。

以上が日本の代表的な四如来である。奥が深すぎて、全くまとまりの無い記事となったが、詳しくは「仏像のこころ」を読んでみて欲しい。
次回は、悟りを開くために修行中である菩薩についてである。

※私は仏教について、全くの素人である。
 記事の内容に誤りがあれば、是非ご教授いただきたい。


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