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『ことばの危機』を読んで

この記事では、東京大学文学部広報委員会編『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』(集英社、2020)を読んで考えたことについて記そうと思う。

この本は、東大文学部の先生方が、国語教育における大学入試改革や学習指導要領の改訂がもたらす「ことばの危機」について提言を行ったものである。昨年東大文学部で行われたシンポジウムの内容が元になっている。

国文学のみならず、翻訳学や哲学など、人文学という見地からのとても示唆に富んだ内容であったので、この記事と併せてぜひ多くの方に読んでもらえればと思う。


1. 実用・論理・文学という区分け

新学習指導要領の一番の問題点として、安藤(国文学)は「世に存在する文章を「実用的な文章」「論理的な文章」「文学的な文章」の三つに区分けできるという前提に立ち、「実用」「論理」をセットにして「文学」と区別している点」を挙げている(p. 12)。これらは互いに重なり合っているものであり、区別すること自体が不可能であるのはもちろんであるが、文学を実用と論理から切り離そうとするということは、換言すれば文学が非論理的・非実用的なものと捉えられているということである。

また、納富(哲学)は新学習指導要領における「論理」ということばの意味するところが不明瞭であることを指摘し、「小説であろうが詩であろうが、広い意味では、ことばをきちんと理解して使っていくことはすべて論理」であるとしている(p. 134)。すなわち、非論理的なことばというものはないと考えられる。ことばがコミュニケーションや思考を形作るためには、ある程度論理的でなければ意味あるものとは捉えられないだろう。もし非論理的なことばがあれば、それは相手には受け取ってもらえず、また自分としても意味をなさないものとなる。あるいは、あえてどのような意味も持たせないという「意味」で、そのようなことばを「実用的に」用いていることもあるだろう。また、もし文学作品がまったく論理的でないとするならば、そもそもそれらを国語という教科の題材として問題を作ることは不可能であり、教育という枠組みの中に位置付けることができないであろう。したがって、ことばは論理的かどうか、実用的かどうかなどという観点から論じられるものではなく、ましてそれらをことばの文学的側面から切り離すなどということはまったく無意味であると言えるだろう。


また、安藤によれば、高校の現場では「二年生以降、「論理国語」と「文学国語」を共に選択するのが困難な事例が増え、結果的に「文学国語」を履修しない学校が増えていくことが予想されている」(p. 11)。このことは学習指導要領を改訂する段階で予想できることであり、そのように予想したうえで改訂をしているとすれば、これはすなわち文学を軽視しているということになる。文学とはそれぞれの言語の文化そのものであり、その言語を使用するコミュニティの文化でもあるだろう。すなわち、森鴎外の『舞姫』や夏目漱石の『こころ』など、洗練された高度な文学作品を国語教育の中で取り扱わないということは、自らの使用する言語や所属するコミュニティの文化の真髄に触れる機会がないということであり、文化を深く正しく理解する素地を形成する場が与えられないということである。さらに言えば、このことは日本語や日本についての意識、ひいては日本人としての意識の低下も招きかねないと思われる。


教育という場面でなくとも望めば文学作品には触れられるとも考えられるが、やはり文学作品と人を初めて出会わせるのは多くの場合、教育である。教育によって言語の文化的側面である文学というものを知るからこそ、教育の場面以外でも文学作品に触れることを望むのだろう。


もし、日本語の持つ文化を無視して実用性のみを追求するならば、究極的には日本語より、リンガフランカとしての機能を持つ英語などを用いた方が良いという考えにもなりうる。文学作品が軽視される風潮が蔓延すれば、日本語は文化という後ろ盾を失い、いずれは他の言語に取って替わられ、衰退していくだろう


2. 多様性を持つ「ことば」

沼野(現代文芸論)が述べているように、「言語というものは、有限な語彙と文法規則をつかって無限に多様な文を生み出すことができる奇跡的な想像力を持った道具」(p. 114)である。だからこそ、それまでにはなかった新しい思考が可能になる。また、そのように作り出された無限に多様な文章の意味をどのように読み取るかについても、可能性は一つだけではない。すなわち、ことばは多様に生み出されるが、その受け取り方もまた多様であるということである。


納富は哲学の立場から、「ことばは私自身の存在だ」としている(p. 129)。これはすなわち、「私たちはことばで行動して、自身のあり方を作って」いるということである(同)。その一方で、阿部が述べているように、「文章は、たとえ自分で書いたものであっても、書かれた瞬間から「他者性」を持ち始め」るのである(p. 58)。ことばとは、自身を形作るものでありながら、それが外に出てしまえば、そのことばを発した私たちとは異なる他者として独立に存在するものとなる。だからこそ、読みも他者の数だけ多様になりうるのである。


センター試験に代わる新テストでは、「より深い理解や新たな発見に欠かせないプロセス」(p. 174)である複数の素材を読み合わせる複合問題を取り入れようとしている。しかし、それを無理やり導入しようとするばかりに皮相的なレベルに止まり、複合問題を作ることだけが目的化されてしまい、結果的に原文にきちんと向き合わせるということが蔑ろにされている、と大西(中国文学・文化資源学)は指摘している。また、現在導入が試みられている記述式問題では採点の技術面から細かい条件がつけられるため、「受験生は言葉の自由も批判的思考力も奪われ」、「出題者の意向をひたすら忖度する卑屈な精神を身につける恐れ」がある、と沼野は指摘している(p. 115)。このような表面的な資料比較や記述式問題は、一見受験者の発展的な思考を促しているように見えて、実際には出題者の意図をただ汲み取ることだけに終始してしまい、素材としてのことばが本来持っている多様な読みの可能性や多様な表現の可能性をむしろ制限するものであると考えられる。


そして、教育の外に目を向けてみると、社会全体としても、「文章の読みには答えは一つしかなく、良い文章なら読めばその意味がすんなりとわかるものだ」と考えている人が多いのではないかと思われる。そのような人々には、阿部(英米文学)の言う「「そもそも文章というのはそう簡単にはわからないものだ」という覚悟のようなもの」(p. 58)が欠けているのだと思われる。このことは、文章の読みには唯一の答えがあると思わせるような国語の試験問題を受けてきたせいであるのかもしれない。だからこそ、答えが一つに定められない文学作品は「非論理的」だとされているのかもしれない。このように考えると、根本的には「文章を読むとはどういうことなのか」についての社会の意識改革が必要だとも言える。そしてそれは、結局のところまずは国語教育についての意識改革を行っていくしかないのだと思われる。

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