ドストエフスキーについての所感

私はドストエフスキーの作品が好きでよく読む。ただその楽しみ方は一般的な読み方からは外れていて、うまい言い方が思いつかないが、他の作家で例えるなら、シェイクスピアを読むようにドストエフスキーを読んでいる気がする。いわゆる「サウンド・アンド・フューリー」すなわち「響きと怒り」として読んでいるときのほうが個人的には楽しめている。

ドストエフスキーをロシア文学の正統の潮流におかず、巨大なアウトサイダーに配置する考え方は近年ではもはや一般的だ。ドストエフスキーは西洋を毛嫌いし、ロシア的なものを礼賛したが、ドストエフスキーほどヨーロッパ文学の影響を受けている作家はいない。プーシキンに始まりトルストイに終わる近代ロシア文学の栄光のなかで、ドストエフスキーは明らかに異質な存在感を放っている。

ナボコフのドストエフスキー嫌いは有名だ。彼にとってドストエフスキーの小説は、思想現象として見れば幾分か面白いものであったが、純粋芸術の観点から調べれば二流三流のとるに足りない小説に思えたようである。ドストエフスキーの小説は、感傷的な文学的因習に満ち、粗削りで、血と汗と鼻水にまみれた哀れな産物でしかなく、ドストエフスキーの名を永遠のものにならしめた後期の作品群(『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』)をこき下ろしている。私はドストエフスキーが好きなので、ナボコフのあまりに辛辣な批判には首をかしげるところもあるが、ドストエフスキーの欠点について思い当たる節はあるので複雑な気持ちである。とりとめもなく続く単語や語句の反復、生煮えの言語、うんざりするほどの感嘆符の濫用、せわしないというか品のない感情の爆発的発露……どのページのどの作品でも構わないので、試しにここに引いてましょう。

「ぼくはアグラーヤさんを愛しています。そして、あの人はそれを知っているんです、そして……ずっと前から知っているらしいのです」
 将軍は肩をすくめた。
 「奇態だ。奇態だ!」
 「非常に愛してます」
 「奇態だ、なにもかもわたしには奇態に見える。じつになんといいようもない、思いもよらん打撃だ……じつはね……きみ、わたしのいうのは財産のことじゃないよ(もっとも、いま少し余計あるものと期待してはいたがね)。しかし、わたしにとっては娘の幸福が……で、結局、きみはその幸福を……なんといったらいいか……与える能力があるかねえ? そして……そして……あれはいったいなんだね? あの子のほうでは冗談なのか真剣なのか? つまり、きみのことではなく、あれのことをいってるんだよ」
 このとき戸のかげからアレクサンドラの声が聞こえた。父を呼んでいるのであった。
 「待ってくれたまえな、きみ、待ってくれたまえ! 待っておる間に、よく考えてくれたまえ、わたしはすぐに……」彼はせかせかとこういって、まるでおびえたようなふうつきで、アレクサンドラの声のするほうへかけだした。
 行ってみると、妻と娘はたがいにかたく抱きあって、たがいに涙で顔を濡らしあっていた。それは幸福と、歓喜と、和解の涙であった。アグラーヤは母の手、頬、くちびるを接吻していた。ふたりは熱情をこめて、ひしと寄り添うているのであった。
 アグラーヤは涙に泣きぬれた幸福そうな顔を、母の胸から放して、父親のほうをひょいと見上げると、高い声でからからと笑いながら、そのそばへ飛んで行き、しっかりと抱きしめて、いく度も接吻した。それからまた母のほうへ飛んで帰って、今度はだれにも見られないように、すっかり母の胸に顔を隠し、すぐにまた泣きだすのであった。

『白痴』米川正夫訳、岩波文庫、p367~p368

ドストエフスキーの癖がよく出ていて笑える面白いシーンだ。イヴァンは「奇態だ、奇態だ!」と言っているが、それはこちらの台詞である。アグラーヤの感情の変わり身の早さに至っては中国の変面ショーを見せられているような気分であり、読者はこのあけすけで節操のない感情の変化に唖然とさせられる。

度外れな抒情の爆発といえばシェイクスピアを思いつく人もいるかもしれない。シェイクスピアはあえて韻を踏まない「ブランク・ヴァース」の使い手であり、言葉の調子を整えるよりも、純粋な言葉のパワーで圧倒的な抒情を叩きつけるのが得意な作家だった。シェイクスピアの戯曲のなかでは『リア王』が一番好きなので、そこから例を引用してみます。

リア 俺の阿呆め、かわいそうに首を締められてしまった! もう駄目だ、駄目だ、助るものか! なぜ犬が、馬が、鼠が生きているのに、お前だけ息をしないのか? お前はもう帰ってこない、もう、もう、もう、決して! 頼む、このボタンをはずしてくれ。ありがとう。お前にはこれが見えるか? これの顔を見ろ! 見ろ――この唇を! それ、こんなに、それ!
エドガー 気を失ってしまわれた! もし、お気を確かに!
ケント 裂けろ、この胸! 裂けてしまえというのに。
エドガー お顔をお上げになって、もし、もし。
ケント 霊魂の妨げをするな、お心のままに逝かせて差上げるがよい。まさか王を憎んでいるのではあるまい、それなら、この硬い現世の拷問台にこれ以上をお体を縛附けておこうとするな。(リア息絶える)

『リア王』福田恆存訳、新潮文庫、p198~p199

リアが末娘であるコーディリアの死に慟哭する有名なシーンだ。「Thou'lt come no more, never, never, never, never, never!」という、neverを5回も繰り返す台詞を聞いたことがある人も多いかもしれない。もしこれをシェイクスピア以外の人がやったら陳腐以外の何ものでもないが、彼の「響きと怒り」的な世界観においてはこれ以上ないほどの悲しみと無常感を表現できていると思う。

もちろんだが、ドストエフスキーとシェイクスピアの感情の扱い方には似ていると言っても決して埋められない違いがある。シェイクスピアの場合、その源泉は、避けられない運命に服従することへの深い悲しみや怒りにある。一方でドストエフスキーの場合、その源泉は純粋に自分のみであり、彼本人の性格がそうであったようにきわめて病的だ。これはドストエフスキー自身の性格をよく表していると思う。すなわち常軌を逸した自惚れと劣等感、そして度外れな狭量さと博愛が入り混じるという、あまりに矛盾した人格の顕現である、ということだ。

……これだけだとまるで私がドストエフスキーを道化扱いしているように取られかねないので、弁明ではないが彼の驚異的な文学的才能について書いておきたい。もし、彼の文学をロシア文学の最高峰のひとつ足らしめるものがあるとすれば、それは彼のプロットの巧みさであり、全体を納得のいく構成にまとめ上げる才能はなくとも、個々のシーンをスリルとサスペンスに満ちた文学的神話にまで高めてしまう恐るべき才能だと思っている。私は『罪と罰』でラスコーリニコフが老婆を殺すシーンほど恐ろしいものを知らないし、『カラマーゾフの兄弟』のイワンが大審問官の話をするときほど情熱的なシーンを探すのは難しい。

ドストエフスキーのキリスト教に対す考え方は私のそれとは正反対のものだと思っていますが、彼の言うこともひとつの真理だと思っています。それはある意味において正しい。つまり、ドストエフスキーは宗教的理想が人間の弱さを認めないことに憤りを感じているのだ。それは純粋に合理主義に陥った西洋文明に対する批判であり、権威化したカトリックの教義に対する批判である。普通の人間はキリストよりも弱い、イエスはその強靭な精神力で、全人類の原罪をあがなうために十字架にかかった。だが私たちのような弱い普通の人間が、そのような高邁なことができるだろうか? いや無理だ、というのがドストエフスキーの見解なのである。


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