書くこと、読むこと、話すこと、

何かを書くときはできるだけ本とか辞書を開かないようにしている。書くために適当な言葉を寄せ集めるような作業に集中してしまうと、とたんに内容が薄っぺらく感じられるからだ。なんというか、そうやって書かれた言葉は、精彩を欠いているように思われるのである。適当な引用や表現の借用は、表面的で凄みがない、そんな気がする。正確さを期すためなら仕方がないと思えるが、それでもwikipediaの文章を読まされているようで退屈な気分になる。私は怠惰な読み手なので、そういう厳格な文章をすっ飛ばしがちだ。

フランスの中期高等学校(リセ)で哲学の教鞭をとっていたシモーヌ・ヴェイユは、授業になると分厚い哲学書が入っていた本棚に鍵をかけた。書かれている言葉は何かを語っているが、それはすでに死んでしまっているからである。シモーヌは自らの師であるアランや、その師であるラニョーにならってそのような教え方をしていた。その教え方の源泉はプラトンとソクラテスの関係に見ることができる。

プラトンはソクラテスの死後、膨大な量のテクストを残したが、それらのほとんどは対話の形式をとっている。真に生きた哲学は対話の中にしかありえないからだ。敬愛していたソクラテスが死に、プラトンがいざ自分の哲学を語ろうとしたとき、彼はどうすればよいか分からなかったのだと思う。対話すべき相手は死んでしまっているのだから。困ったプラトンは考えた結果、彼独自の手法である対話篇を編み出すことになる。プラトンは哲学的な難題にぶつかると、頭の中でソクラテスに話しかけ、師の教えが木霊を返してくれるのを待ったのである。

ピュタゴラス、ソクラテス、仏陀、イエス、孔子、人類の偉大な教え手はみな書く人ではなく話す人だった。パウロは「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と書いた。生きている人々と実際に話すこと、すなわち対話することは、詩人が詩を書くことと少し似ていると思う。対話から生まれた言葉は、入念に組み立てられた人工的なものではなく、ある種の苦痛をともなって血肉から絞り出した種子のようなものだからだ。それは、始めは混沌としていても、少しずつ重ねられた言葉を肥料にすることで花開くのである。そうしたいかなる犠牲も払わず、他人の受け売りを話す人間が書いた文章というものは、見ていて情けなくなる。

書物を読むことは私にとっては必要なことだ。「巨人の肩にのる」という格言があるが、まさしくその通りで、私のような凡庸な人間は書物を積み上げた上に立つことで初めてより高いところに登れることができる。そして一番大事なのは、登ったことに満足せず、「巨人の肩に立って何を見るか」ということだ。

しかし、遠くばかり見ていたら足元の花を見落としてしまうかもしれない。

だからときどき巨人の肩から降りて実際に生きている人々と触れ合うのは有益なことだ。読書に取り憑かれている人は、一度その呪縛を解いて書物の竹林をあとにし、過酷な俗世を生きる力強い人々を観察して対話することは良い薬になるだろう。

書物の言葉はずっとそこにあるが、問いかけても応えることはない。その言葉は石のように死んでいる。一方で対話から生まれる言葉は形もなければその場で消えていくものだが、飛び立つ鳥のように生き生きとしている。

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