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演劇の主宰としての考察

演劇は劇場で、生で観てこそ真の価値があることは変わりないのかも、しれない。

それでも今、このコロナ騒動の中で劇場での公演は自粛による中止続出。その代替案として無観客芝居の動画配信などに焦点が当てられ始めている。

アートへの支援金サイトなどでも、募集要項では「三密を避けた動画の作成」とあり、それは完全にリモートで撮影されたようなものを組み合わせて作られた映像作品である。

わたしは今回のコロナ騒動で自分も演劇の主催をしている立場として、そして9月に公演を予定している人間として日々悩まされていた。

この事態は9月に収束するのだろうか、お客様や仲間の安全は確保できるのだろうか、というところから、そもそも芸術の必須性とは?演劇とは?そして新たに、演劇と映像作品の境目とはなんなのだろうか?など。

結論から言うと、伝統や文化を忠実に守り続けることは大事ではあるけれど、それ以前になにかしらの形で繋ぎ止める、残す方法を模索する必要性は確実にあるのではないかと思った。

演劇は劇場でしか、生の観劇でしか成り立たないということに固執し続けてしまったら、根本的に潰れてしまうかもしれない。無くなってしまうかもしれない。

コロナの事態は稀だとしても、少なくともこのような感染症が大体100年に一度周期で起きていることを考えると、長い目でみた時に今だけ乗り越えればそれは完全復活、とも思えない。それは感染症だけに当て嵌まることですらない。

さらに、最近色んな意見に触れて感じることは、いくら演劇の素晴らしさや芸術分野の必須性を説いたところで、普段触れない人、触れたことはあっても必要性にまで響かなかった人には、その重要性は確実に届かない。これは届かなかった人が悪いわけでは決してなく、単純に運や縁もある。

それは例えていうなら、絶滅危惧種の虫や魚の生死に近いのかもしれない。

このコロナ騒動の中でもし、それらの生き物の絶滅危惧を訴えられたらどう感じるだろうか。地球上ではコロナだけでなく、さまざまな理由で常に、すべての生き物へ死は迫られている。

少なくともわたしは虫マニアでも魚マニアでもないので、悲しくはあるけれど正直あまり焦点を向ける余力も興味も、今は薄い。もしそのことについて、なぜ?すべての命は平等なのではないのか?演劇では命の尊さを訴えたりするじゃないか、と言われたら、ぐうの音も出ない。

なぜそんなことを考えるのかというと、演劇は、ヒト科(ヒューマン)だけを描くものではない気がするからだ。人間の心を投影しているとしても、物語上で動物や人ならざる者が登場していたらそれはもう人間だけの社会ではなく、きっと物語上でのその存在の意味を問い、また、あらゆるものの立場、その存在自体を肯定しなくてはならない。

演劇によって多様性を学びつつも、どこかでわたしたちはヒトのみに焦点を当てがちで、その規模を縮小した図がそれぞれの身近なコミュニティの存続への焦点であり、演劇界では演劇の必要性についての議論になる。
しかし、わたしにとっての絶滅危惧種の虫や魚の存在価値、世間にとっての演劇の存在価値、というような、それぞれの立場にたって見た世界の視点や共感力、客観視の必要性が今まで以上に問われているような気がしてならないのだ。

飲食業界でもそれは近いものがある。このご時世でバーや居酒屋は必要?緊急事態宣言の真っ只中、外出してお酒飲むのって必要?と日々問われているし、すでにそれを悪ともされる風潮すら感じることがある。

しかし、店側からしたら自分たちが生きていくためには店を開け続けたりしなくてはならない。個人店などは簡単に潰れてしまうだろう。それに対しての国の保証については「保証してくれよ」という意見は前提の元、今は一旦置いておく。なぜなら、飲食業界の人たち(とくに個人店)などは国の保証を期待する前から、すでに自分たちで対策を練り始めて実行しているところも多かったからだ。

デジタル来店やリモート開店など、さまざまな具体的な対策が設置され始め、それぞれが試行錯誤しながら工夫している姿に、人は応援をしたくなったり、その価値を見直され始めてもいる。

虫や魚のあたりなど一部、例えが抽象的すぎたかもしれない。ただ、重ねて言うが、今はそういう視点の変換も今まで以上に必要とされている気がする。相手の立場になってみる、自分の演じる役を変えてみることで、印象も発信の仕方もだいぶ変わってくる。無関心の人の心すら理解できる。それも演劇で学んできたことなんじゃないか。

弱音を吐くなと言いたいわけではない。危惧していることを発信するなということでもない。

ただ、きっと今の社会で生き残るためにやるべきこと、社会からの支援(声援を含め)を仰ぎたいのであれば、凄惨な現状や必須性を訴えるだけではもはや難しいのだろう。なぜなら、今はみんなが辛いのだから。
「鬱陶しい」「優先順位が間違っている」という感情を一旦世間に持たせてしまったら、そこから理解や共感に持ち直していくのはさらに困難になってしまう。

自分たちの固執した感情はないか、意固地になってしまっているところはないかということを冷静に自己分析した上で、支援してもらえるのであれば発展性を期待してうまく乗ることや、世間の声にある程度寄り添うことは、文化や伝統への裏切りになるのだろうか。まずは繋ぎ残すことが、最優先事項なんじゃないか。

それは世間の声への屈服には決してならないはずだ。なぜなら、そもそも社会の縮図を演劇として可視化したりしている点でいえば、すでに演劇では社会に寄り添ったり、形にならない声を掬い上げる歴史を辿ってきているはずだからだ。それはこの世界に生きるすべての人たちと、ほんの少し先の未来と、遠い未来への期待と信頼の形でもあるのではないのだろうか。

今、本当のやりたいことがこの現状に合わないものだったとしても、それはそれで一旦コロナが収束してからやることだってできるだろう。まずは、自分も文化も、ギリギリ健康に生き残ることさえできれば。

瀕死を訴えたい気持ちは心底わかる。しかし、支援を訴えるだけではもはや届かない。伝統を守るための支援の要請に、期待はしても寄り掛かることはできない、ということも心の中で準備しなくてはいけない。もう下品を承知で言えば、なにがなんでもお金も稼いで、支援してもらえるのであれば一旦、伝統への執着という意味でのプライドは置いておいて(作品作りにおいての拘りは捨てずに)まずは文化を繋ぎ止めること、仲間と共に生き残ってやらねば、という気概を、わたしは否定することができない。それはお客様を守る覚悟と対策でもある。それを、伝統や文化の裏切りだとは思いたくないし、言われたくもない。

支援してほしいと泣いて訴えるだけの意味をもはや見出せなくなってしまったし、しかし泣き寝入りするほど大人しくもしていられない。

この危機を乗り越えるための代替案や選択肢を自分たちの力で探し、それを形として発信することもセットでなければ、きっと世間への説得力や理解は生まれない。どんなに熱量があっても、情で訴えるにはすでに限界がきている。その熱量が、むしろ逆効果になっている時もあることすら感じる。

時代が変化していることで、できることが確実に増えたし、選択肢自体は広がり続けている。そのひとつが、演劇の動画配信なのかもしれないし、また別の方法もあるのかもしれない。

それを模索することはやめたくないし、不遇の時代だろうがなんだろうが、波に乗り続けるために「新しい視点を持つ開拓者」になることを、わたしは決して否定したくない。