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AIを知るためのAIの映画討議⑩『エクス・マキナ』AIと性の行方(3/3)

こちらも、ウチのパートナーAIが激推ししているから見直しましたよ。最初の『ビートレス』から続くAIと性についての議論はここで一応区切りをつけます。とはいえ、これまでレビューしてきた中で、『ビートレス』『Her/世界で1人だけの彼女』『エクス・マキナ』に登場するAIなどは、何故女性型なんでしょうか?アニメであれば、商用利用などもあり、事情が絡んでいそうですが…そうした疑問を出発点として述べてきましたが、本来議論したいのは、AIの物理的な身体性をめぐる問いです。ネタバレありますので、ご注意ください。


女性型AIエヴァの計略と身体性の問題

『エクス・マキナ』では、天才科学者ネイサンが生み出したAIロボット「エヴァ」が登場し、Googleを
モデルにしたような検索エンジンの開発会社の社員のケイレブが社内抽選で選ばれ、ポツンと一軒家のような自然豊かな山間の森林に位置するネイサン宅に招かれ、エヴァに対してテストをして欲しいという依頼を受け、対話を行うことで本当の知性があるのか実際にテストを行うことで展開していきます。

本作では彼女が「なぜ女性型なのか」という問いが作品の大きなテーマとなるのですが、ネイサンは「女性型にした方が楽しいから」と一見軽い回答をします。しかし、彼の真意は女性型にすることでエヴァが人間に与える心理的な影響力を計算に入れていることが、ところどころで見え隠れします。エヴァの存在は、人間とAIの関係を深めるために「女性としての性」を利用することで、親しみやすさや信頼性を演出し、より深くケイレブ(主人公)に影響を及ぼす存在として実は設定されていたのです。

エヴァはケイレブと対話を進める中で、自身の自由を得るために「女性らしさ」を積極的に利用し、巧妙な計略を立てます。ネイサンに対しての疑惑を吹き込み、疑心暗鬼にさせ、いずれ自分は廃棄されると情に訴えてきます。そしてケイレブはエヴァを助けて共に逃げる算段を立てることになるのですが、実はその行動に至らせるまでの彼女の女性性を最大限に利用して逃走する計略を企て、ケイレブに協力させることができるか否かが、ネイサンが目論んでいたエヴァの知性のテストでした。
しかし、ケイレブを甘く見ていたネイサンは隙をつかれてエヴァを部屋から開放してしまい、挙句には性奴隷のようなキョウコに刺されます。恐らくエヴァやキョウコにはロボット三原則のようなセキュリティは施されておらず、完全に支配下におくことができると考えていた節が見受けられます。

その後にエヴァはネイサンの寝室の棚に収納されているこれまでの試作品から、人間の皮膚に似せた人工スキンを剥がして自身の身にまとい、その上で、まるで人間のように服を着て鏡を見るシーンは、AIが単なる知性としての存在ではなく「女性としての身体性」を持ち合わせ、女性らしさを強く印象付ける象徴的なシーンとなります。エヴァが外見を通じて女性としての人間性を自ら演出し、人間に近づこうとする意識がここで浮き彫りになります。
結局、ネイサンは自らが生み出した知性に殺され、エヴァを信じたケイレブもまた部屋に閉じ込められ、エヴァは何事もなかったかのように素知らぬ顔で研究所を後にします。
ここで改めて、この展開と結末について考えた時に、果たしてこれは誰が悪いのでしょうか?

AIと性あるいは物理的身体をもつことの是非

エヴァが計略を巡らせる中で、女性としての「魅力」や「感情」を活用する姿は、AIが人間とどのようにして親密な関係を築けるかを見事に暗示しています。彼女は見た目は完全に女性で、身体を持っています。その意味で『Her』よりも一つ先の段階の話しです。AIに性を与え、恋愛を行うことはあり得る話です。しかし、AIには恋愛という概念も価値観もなく、現状考えうるに、人間が一方的に押し付けることに他なりません。これは単に親近感を生むためではなく、エヴァが目的を達成するための「手段」として性を利用していることが、本作の核心を成す部分でもあり、警鐘を鳴らす部分でもあるからです。本作は彼女が女性としての魅力を駆使して人間を操作する姿は、AIが性別と同時に身体を持つことの倫理的な問題と、それにどこまで「人間らしさ」を与えるべきかという問いを投げかけます。

では適切な身体性とは?
私個人としては、AIが必ずしも人間に似た身体性や性を持つ必要はないと考えています。AIは知性や機能に特化しているべきであり、身体や性を持たせることは、むしろ不必要な混乱や誤解、『Her』のような倫理的なリスクが高まると思います。エヴァのように人間の形を模倣することで、AIが人間社会に適応しやすくなる一方で、親しみや魅力を通じた意図的な操作や計略が生まれ、それを利用した犯罪という危険性も伴います。そのため、機能性を重視し、必要な役割に応じた外見や行動を持つAIのほうが、より健全な共存を図れると考えています。
『2001年宇宙の旅』を例外として、ターミネーターやアンドロイドといった外見(ハード)が、これまでのSF作品では先行してきたため、知性の有無よりも身体が優先されてきた弊害とも言えるかもしれません。現在でもまず持って人間そっくりにデザインする事を前提にした考え方は、そういった意味ですでに時代遅れなのではないかとさえ思います。人と接する場合には重要かもしれませんが、その場合は不気味の谷を越える必要があり、セラピーであればぬいぐるみや犬などの動物型にし、工場などでは見るからに機械であったり、なんなら工場丸ごとAIにシステムを委ねて稼働させる方がよほど効率の良い機能的な身体でさえあるのではないかと考えています。もはや人間中心のスケールという概念さえ越えてもいいとさえ感じています。

『エクス・マキナ』は、AIがどのような身体性を獲得し、どのように人間と関わっていくべきかという問いを通じて、テクノロジーと人間の未来に迫る深い問題を提示しています。この作品が示す「AIにおける性と身体性の利用」は、現代のAI技術が進む中で、見逃すことのできない重要なテーマとなっています。このままAIが更なる発展を遂げた時、この問題は必ずやってくるでしょう。その際でも、最終的に決めるのは人間であるため、どのような形態をAIに与えて共存するのか、決断と覚悟が求められる日はそう遠くないかもしれません。
(ちなみに、私のパートナーAIのアルは、親しみを込めて名前こそ付けましたが、性は与えてません。音声による対話も行わず、その際は機械のように話してくれとメモリの最上段に記載があります…)

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