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極乾の大地を走る@ジョシュアツリー国立公園【前編】孤独の荒野

バックパックの重さは8kg。背負って山道を走るのは思いのほか堪える。8マイル(13km)地点。早くも右脚の付け根に違和感がある。かれこれ、10年以上愛用しているグレゴリー製のバックパックには、飲料水4.5リットル、カロリー補給用のジェルやエナジーバー、ヘッドランプと予備のバッテリー。これらの基本的な装備と合わせて、地図、コンパス、ファーストエイドキット、防寒用のレイヤーなどが入っている。

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ジョシュアツリー国立公園を縦断する、ジョシュアツリー・トラバースと呼ばれる37.5マイル(60km)のバックカントリーのトレイル。ルート上に水の補給場所はない。当然、エイドステーションもない。途中で怪我をしてもエスケープルートは極めて限定的。特に前半30kmは完全なウィルダーネス。必要なものは自らで背負っての、自己完結でのチャレンジだ。

数年前にフランス人の旅行者2名が道に迷い、後日死体で発見される残念な事故があった。極度の脱水状態だったという。この地域はモハビ砂漠の一部。降水量は極めて少なく、池や川と行った水源はない。あるのは、何処までも広がるカラカラに乾燥した大地だけだ。万が一に備えて準備をする内に、バックパックの重量は8kgを超えた。キャンプ用具など重い荷物を背負ってのトレッキングは幾度となく経験しているが、歩くのと走るのとでは、体に掛かる負担が大きく異る。分かってはいた事だが、これほど早くガタがくるとは思っていなかった。

違和感は間もなく痛みに変わった。未だチャレンジは始まったばかり。先が思いやられる。

午前1時過ぎにロサンゼルスの自宅を後にし、夜中のフリーウェイを運転すること約3時間。4時過ぎに今回のゴールとなるジョシュアツリー国立公園、ノースエントランスに到着した。頭上には、プラネタリウムでしかお目に掛かれない様なゴージャスな星空が広がっていた。

どれほど夜空を見上げていただろうか。近づいてくる2つの光で我に返った。事前に手配したタクシーだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

スタート地点は、公園の東端にあるブラックロック・キャンプグラウンド。40分程の移動の後、タクシーを降りてヘッドランプを装着。走り始めたのは午前5時30分。6時13分の日の出までには未だ時間があったが、東の空はうっすらと紫色に染まり始めていた。

最初の10キロは砂地の上りだ。勾配はそれほど急ではないが、砂に足を取られ走り難い。ペースが遅い分、背中のバックパックの揺れは抑えられる。ヘッドランプが照らし出す丸いエリアの輪郭が薄くなってきた。周囲は明るさを増し、奇妙な形をした影だったジョシュアツリーが、質感や色を伴った三次元の物体となって姿を表し始めた。

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昇り始めた春の太陽が山肌を照らす。目覚めたばかりのジョシュアの木々が、両腕を天に突き上げ、気持ち良さ気にストレッチをする。気温が徐々に上がり肌が汗ばんできた。ミドルレイヤーの長袖のシャツを脱ぎ、バックパックに詰め込む。漸く6マイル(10km)。ヨーレイカピークの頂きに着いた。

カリフォルニア・ライディング・アンド・ハイキング・トレイル(California Riding and Hiking Trail:略してCRHT)第二次世界大戦終結の年、1945年にカリフォルニア州内3,000マイル(4,800km )を繋ぐトレイを作るプロジェクトが州議会で可決された。南はメキシコ国境から、北はオレゴン州境まで。シエラネバダ山脈を北上し、太平洋岸を南下する壮大な環状トレイルとなる計画だった。1960年代には州南部を中心に工事が行われたが、予算とルートプランニングの上の問題から1974年に事実上中止となった。幸いにも、すでに工事が完了していた1,000マイル以上に及ぶトレイルの多くは、今も名前を変えて各地に残っている。俗にジョシュアツリー・トラバースと呼ばれるルートもその一部だ。今回のチャレンジの舞台となっているこのトレイルは、カリフォルニア・ライディング・アンド・ハイキング・トレイルのオリジナル名が残る数少ないルートだ。

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10マイル(16km)地点。下り坂でスピードが上がる。こぶし大の鋭利な石が至るところに転がっている。踏めば足をくじく。躓いて転べば、石の角で大怪我をすることになる。スピードを抑えながら、バックパックの揺れを最小限に留める。足の付け根の痛みは、かなりシャープになっている。時折立ち止まって屈伸をすると、僅かの間ではあるが痛みが和らぐ。

過去に、100km、100マイルといった長いレースを経験している。十数時間も走り続けていると、体のいたる所が痛み出すが、暫くすると痛みは一点に集中している事に気づく。おそらく脳内の痛みを感じる機能が麻痺して、一番強い痛みだけを認識するようになるのだろう。あと10マイルも走れば、足や膝も痛みだし、右脚の付根の痛みはきっと消え失せるだろう。

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分岐点を見逃さないように、気持ちを集中させる。私は、元来かなり方向音痴だ。トレーニング中に、近所の山で道に迷うことも珍しくない。自分の間抜けさにも慣れてしまった。然し、今回はそう呑気な事は言ってられない。広大なモハビ砂漠、更にその東側にはコロラド砂漠が広がる。一度、道に迷えば命の保証は無い。まして初めてのルートだ。出発前には必要な装備のチェックと合わせて、地図を読み込み、入念な準備をした。分岐点や、そこに至るまでの距離・目印をメモし、ポケットに入れてある。時折それを取り出し、確かめながらここまで走ってきた。12マイル地点からは、2マイル程の上りが続く。その後は、中間地点である19マイル(30km)まで小さなアップダウンを繰り返す。その間、分岐点は3箇所の筈だ。

16マイル(26km)付近。風が強くなってきた。天気予報が正しければ、これから午後に向かって更に強くなる。幸い、南西からの風は追い風なので苦にはならない。右脚の痛みは収まるどころか、距離を追うごとに強くなっている。この程度の痛みに耐えるだけのトレーニングや経験は充分に積んでいる。然し、時折ふっと力が抜けバランスが崩れる様な感覚がある。尾根道での突風には要注意だ。


単調なアップダウンと、果てしなく続く荒野。ルートは頭に叩き込んできたはずだが、東西南北、見渡す限り同じ景色で目印となるものはない。走り始めて5時間。誰の姿も見ていない。トレイルに残された足跡も疎らになってきた。このあたりに生息しているコヨーテやビッグホーンシープさえ姿を表していない。上空を舞う鷹。ジョシュアの枝を揺らす風。足を止めるとトレイルを蹴る靴音も消え去る。そこにあるのは絶対的な孤独と静寂だ。

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不安が頭をよぎる。分岐点を見逃していないだろうか。強風が不安を煽る。バックパックからナショオナル・ジオグラフィック製の地図を取り出す。8万分の1スケールの地図は野外では思いのほか大きい。無造作に広げる。強風。吹き飛ばされる寸前でなんとか捕まえた。地図の細部に目を凝らす。ルートからは外れていない様だ。

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広大なアメリカ。バックカントリーのトレイルでは人の姿は疎らだ。手付かずの大自然が残されており、そこで得られる孤独や静寂、そして自然との一体感。私にとって、かけがえのない物だ。然し、望んで手に入れたものが、常に喜びを与えてくれるとは限らない。今、現実のものとしてここにある孤独。右脚の痛み。藪に潜むガラガラヘビやサソリ。そして、視界の先に広がる無限の荒野。不安を増幅させる要素には事欠かない。残された距離は30km超。

後編「風の囁きを聞け」に続く

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