花青 kasei

花青 kasei

最近の記事

瞳の錆 |掌編

「夜風が厳しくなってきましたね」  盲目の彼女の肌に落ちた街灯の水たまり。それの静かに揺蕩う光景に、不思議と意識は吸い込まれていった。 「そうだね…」  やがて一直線に並んでいた街灯の明りは途切れた。展望台へと続く山道が暗闇に潜んでいた。そこからはより寒く感じられた。    僕らの足音は風に揺れる葉音に掻き消されていた。僕は落ち着かなかった。絶えず囁かれているようだった。 「お前はお前じゃない」と。  森を抜けた。  静寂の展望台が星空に黒く浮かんでいる。

    • 陰口 (詩)

      雨の上がった香りに虫が集っている 賑やかなペトリコール 私は張りつめた湿気に抱擁された むさくるしさにふと笑みがこぼれる 残虐な笑みである 引き裂かれた雲間からこぼれた青空に木々の緑は鼻歌を歌う 私とは対照的だ それに それは私にサササと陰口を言う 私は得意げに話しかける 「陰口を言われる人は偉いのだよ、君たちは畢竟私が妬ましいんだ、愚かな真似はやめたまえ」 木々は益々威勢よく声を荒げ始める 想像通りだ 所詮ガキなのだなあ その下で「はあ」とため息を漏

      • 静寂 (掌編小説)

           隣で妻が寝ている。私は本を読んでいる。白色の電灯が弧を描いている。その壁に妻の寝息が時々反射する。溶けるような息遣いだ。  私はそれに深呼吸した。  静寂の夜、昼間の熱が微かに尾を引いた室内は心地よい静けさに満たされている。私はそのなかで妻に無言の眼差しを向けた。 「良い風入ってくるから窓開けよう?」  そう言って吹いた風の香りは昼だ。天日干しした布団のような安心感があった。空に染まった夕焼けがほのかなオレンジに柔らかかった。妻の表情も何ともいえない幸せの感情

        • 車窓

           小さい子供がワンマン列車のロングシートに膝立ちで乗っている。最後尾、隣で母親が居眠りをしている。膝の上には買い物袋を乗せて。子供は車窓を流れる風景をじいっと眺めていた。  夕暮れ時だった。初夏の暑さを打ち消すような凛とした赤と紫の夕暮れが空一面に広がっている。靉靆たる雲が消えずに残った煙のように黒く浮いていた。地に視線を落とせば、遥か奥の方まで伸びる畑に規則正しく深い緑が生い茂っている。 「そうそう、あなた聞いた?〇〇さん亡くなったんだって」 「ええ?あの人が。」

        瞳の錆 |掌編

          空  (掌編小説)

          「…(どーんないろおがっすきっ?)って私と子供たちみんなで言ったの。そしたらね、鬼だったのは渚ちゃんなんだけど、なんて言ったと思う?渚ちゃんね、(あお!)って笑顔いっぱいに叫んだの。花が咲くように笑うってきっとああいうことをいうのだと思うわ。ほんとに可愛かったんだから。でねっ、私も、子供たちに交じって一緒にそれやってたの。晴れてたから公園にみんなで行ってたんだけどね。公園に青ってあるかしらっ、て。咄嗟に遊具とか見ても青はなかったし、私思わず渚ちゃんに言ったの。(青なんてないわ

          空  (掌編小説)

          緑の墓

           遥かに上を望めば際涯の無い夏空が深青を一面に湛えていた。半袖に半ズボンの少年は畦道を歩いている。肩には虫かごのひもをかけて。左右に渺茫と広がる田んぼには若緑が柔らかく満たされていた。  その畦道を真っ直ぐに歩いて行けば濃緑が密集した小さな林に突き当たる。上空から鳥瞰すればその緑は空や田んぼの鮮やかさにその色を黒だと錯覚させるようだ。  そうしてその突き当たり——木々の生み出した深海のような木陰に、冷え冷えとした石の鳥居があった。その上には両端の立派な木々から伸びた丈夫な

          昨日のことのように…

           十五になる青年の反抗期ももうじき終わりを迎えようとしていた。母や父との思い出はこの中学校三年間で新たに心に刻まれることはなかった。——思い出に値することがなかった。  三者面談で青年は母親を隣に「高校には行きたくない」と。母親は先生を前に泣いた。家では無口な青年の想いを、母親はこの時まで聞いてやることができなかった。母親は自分に対して絶望した。声にならない激しい嗚咽がそのまま自分を非難する言葉として発音されているようだった。 「お母さま、保健室に行ってお休みしましょう」  

          昨日のことのように…

          野良犬

           人生の価値について悩み悶えるものに捧ぐ  ある夏の日の田舎の夕焼けは焼けただれた皮膚のように、グロテスクな色合いだった。血生臭い空の下に小学校低学年の少年は一人で、捕まえたキリギリスの、六本の足を、一本ずつ引っこ抜いていた。ブチっ、ブチっ、とそのたびにキリギリスの体内から透明の体液が噴き出していた。キリギリスはそれでも平然としているように、口をもぞもぞと動かしていた。  少年の顔に、感情の色は無かった。学校ではいじめられ、家にかえると、父から暴力を振るわれる。頬に