緑の墓

 遥かに上を望めば際涯の無い夏空が深青を一面に湛えていた。半袖に半ズボンの少年は畦道を歩いている。肩には虫かごのひもをかけて。左右に渺茫と広がる田んぼには若緑が柔らかく満たされていた。

 その畦道を真っ直ぐに歩いて行けば濃緑が密集した小さな林に突き当たる。上空から鳥瞰すればその緑は空や田んぼの鮮やかさにその色を黒だと錯覚させるようだ。

 そうしてその突き当たり——木々の生み出した深海のような木陰に、冷え冷えとした石の鳥居があった。その上には両端の立派な木々から伸びた丈夫な梢。そこに緑の葉っぱが盛んに実っている。木陰は夏の血走った暑さを許容しないようにひんやりとしていた。

 その鳥居の一歩先に、苔むした、茶こけた墓があった。ただ一つ、そこに傾いていた。その周りには墓を囲むようにして小さな地蔵らが慈愛の微笑を浮かべて佇んでいる。

 墓の中には遥か昔に永眠した少年が納められていた。少年と言っても十五歳であった。原因不明の病を患ったまま、少年は純粋な少年のままで眠りについた。

 彼は生前、死への恐怖を誤魔化すように努めて強がっていた。決して弱音を吐かず、嘘の自分を演じるように無理して生きていた。それによって自分を見失ってしまっていた。ちょうど、少年の寝込む、白かった布団が褪せていくのと同じようだった。その自分はなぜだか――死ぬことができなかった。「死」に愚弄されるように、影の薄くなった「生」が営まれて続けていた。目標の無い生であった。そうしてあてもなく時間が経過するに連れて、際限なくその恐怖感が増大していた。生すら怖いと思った。

 しかしある日、少年は、自分を見つめなおすかのように、本当の怖さを母親に打ち明けた。
「死んだら僕は、どこに行っちゃうのかな…」と言った。
「だいじょうぶ…私の子供として、きっと、また、生まれてきてくれる」と母親は返した。
 観念的だが少年にとってそれは、恐怖を誤魔化すことのできる、明確な、核心を突いた疑問だった。死への恐怖を誤魔化すために強がっていた、それなのに、もはやそれさえ通用しないほどに、彼はその恐怖に攫われていた。そうしてその疑問を呈したのだった。
 母親は辛うじてそう答えることができた。が、布団の中の少年を見つめるその目からは我慢ならずに大粒の涙が溢れだした。
 少年はこの時、自分が生まれてきたことで、母親をも苦しめることになってしまったと考えた。「生」はただひたすらに辛いものである。終わりの見えない苦痛が大山脈の山嶺のように日々その程度を変動させながら襲い掛かってくる。少年は無理してそれを乗り越えてきた。それでもいつまでも、自分に強がる姿勢を貫くことはできなかった。心に蓄積された恐怖という病にさえも、死を覚える寸前まできていた。そうしてその顔を見つめ上げながら
「うん…でも、やっぱり怖いよ、死にたくないよ」と。
 それは今にも泣きだしそうな、震えた、か細い声であった。
 
 だが、少年はそれを口に出した刹那、気味の悪いほどに気持ちが軽くなった。ようやくそれを口に出すことができたと寸時に思った。本当の自分になれたと思った。少年にとって——それが真実だった。
 その途端、少年は感じた。 
 それは少年自身、驚くほどに、澄み渡った心だった。
 重たく蔓延っていた自身の嘘偽りの姿たる貪婪とした雲が晴れ渡った心だった。
 その廓然たる心が彼自身を思い起こさせてくれたのだ。その瞬間、清純な涙が彼の頬をそっと伝たった。正調な呼吸が意識のがらんどうにその音を響かせていた。少年は涙を拭った。涙が褪せた布団に染み込んでいた。その湿った影だけが褪せた色を忘れさせてくれるようだった。

 少年の中で、「死」への恐怖が完全に消え去ったわけではなかった。だが、少年はこの時、その恐怖に素直になれた気がした。抗うことで肥大化してきた、漠然たる死への恐怖が涙によって流れ去ったような気がしていた。やっと本来の生を取り戻すことができたと思った。

 しかして、それから数日後であった。
 
 自らの天命を全うした少年は、到頭安らかに眠った。口元の淡い笑みは彼の彼自身への希望を象徴するようだった。少年にとって、それは、自然体の生だった。その後母親は少年の墓を作った。小さな鳥居、寂しくならないようにと、周りにはたくさんの地蔵を携えて大切に作り上げた。そうして彼女も、その後を追うように死んだ。彼女は誰にも見つけられず、最後には家の中で腐り果て、白骨化した。やけに白い頭蓋骨が床の上にボトリと転がっていた。それでも家の中には生の残像たる暖かみが満たされているようだった。

 

 
 墓の中にはただ一人の少年が周りのにこやかな地蔵に囲まれ眠っている。

「お礼してきなさい。きっとそこに眠っている人は喜んでくれるわ」

 少年は墓を見つけた後、一度家に帰った。墓があったの、と少し興奮した、夏の暑さで赤くなった顔で言った。そこで母親にそう言われた。そうして再び畦道を快活に歩いている。歩くたびに「サク、サク」と草が鳴いている。

 木陰にたどり着いた少年の目の中に、その墓が倒れかかっていた。墓の周りは苔やら木陰の奥行きのある緑に包まれ、丸みを帯びた優しい空気に満たされていた。その中で少年の汗は、波の引くように落ち着いていた。

 少年はそこで、体の前に小さな手をぴったりと合わせると、ゆっくりとおじぎをした。今や首に掛けられた虫かごの中に入っていたキリギリスは足を地につけ体を休めている。

 少年は少年を憎むはずもなかった。

 墓の中に眠る少年は、夢を見ていた。そこで少年は、別れることとなった母親の姿を探していなかった。探す必要もなかった。生に従順に、「今」を、地に足をつけるようにしっかりと生きていた。

 そうして少年は、永眠しても尚、自分が「少年」であることを他の何よりも喜ばしく思った。少年は——心に素直な少年であった。母親の愛情や自然の美しさを十分に受けて育つことのできる、清冽な、小川の流れのような少年であった。

「優しいね」

 少年はそう言いながら地蔵の頭をそうっと撫でた。石の心地よい自然な冷感がその手から体中に浸潤していくようだった。心が目に見えて穏やかになっていく気がした。汗の滲んでいた指には茶色の砂が微かに付着していた。汗を吸収するように、それはサラサラと、心地の良い手触りだった。

 その少年の目線の下で、地蔵はいつまでも安らかな微笑を湛え、少年を見守っている。両の目は開いていない。瞼に無数の黒い虫が歩き回っている。それでもその透き通った心が、愛情深い母親の眼差しのように、少年を望んでいるようだった…。

 少年は木陰の、瀟洒とした空気に一つ、すーッと深呼吸した。物静かな緑の墓で、小さな虫たちが、温顔の周りをゆったりと飛行している。
 木陰に湿った苔が夏の暑さを少し忘れさせてくれた。

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