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車窓


 小さい子供がワンマン列車のロングシートに膝立ちで乗っている。最後尾、隣で母親が居眠りをしている。膝の上には買い物袋を乗せて。子供は車窓を流れる風景をじいっと眺めていた。

 夕暮れ時だった。初夏の暑さを打ち消すような凛とした赤と紫の夕暮れが空一面に広がっている。靉靆たる雲が消えずに残った煙のように黒く浮いていた。地に視線を落とせば、遥か奥の方まで伸びる畑に規則正しく深い緑が生い茂っている。

「そうそう、あなた聞いた?〇〇さん亡くなったんだって」

「ええ?あの人が。」

 …

「前会ったとき、って言ってももう一年以上前かしら、それにしても、あんなに元気だったのに。寂しいものね」

 子供は外の景色から車窓に反射するおばさま二人の顔と声に意識を向けた。その時、ガタンと列車が揺れた。その拍子に、途端目が合いそうだという嫌な予感が胸を襲ったから、すぐさま意識を窓の外に出した。

「わたしたちもある日突然ぽっくり逝ってしまうかもしれないわよ、そうなったら遠くにいる娘にも迷惑かかるし、普段寝てばっかの夫は頼りにならないだろうし」

「怖いわねえ、この年になっても。それに…元気すぎて余計怖くなるわ」

 子供は外を眺めながらも全くと言っていいほど、その景色を認識できていなかった。視界はいつの間にかぼやけていた。ただ興味本位にその二人の声だけに神経を集中させていた。

「そういえば前聞いたんだけどね、△△さんの娘さん、亡くなったでしょ、何年か前だけど。その時娘さん、二歳ぐらいの子供がいたの。その子供はお母さんが亡くなったことなんてはっきりとはわからないし、葬儀のときも一切泣かずに利口でいたらしいの。それがね、告別式も終わって霊柩車にお母さんが乗せられて、そうしてその車が火葬場に向けて出発したときに、何を思ったか、急に泣き出して、その車が走っていく方を追うようにして走ったっていうの。それ聞いた時、私可哀想だなって、ほんとは思っちゃいけないかもしれないけれど、そう考えてしまってね…。その子はきっと何かを察したと思うのだけど、もし私が亡くなったら、娘は何を思うのかしらって。自分勝手な心配かもしれないけれど…その子と同じように、私のこと大事に思ってくれてたのかしらって…」
 おばさまは目に涙を浮かべた。それがたまらず崩れるように、透き通った雫が一筋頬を伝った。自身の子供への、気の遠くなるような母親としての想いがこの時、爆ぜてしまったようだった。

「なに泣いてるの…。きっと大丈夫よ、いや、大丈夫って思いなさい?だってそんなに子供のこと考えてあげてるんだから。そのお母さんもきっと子供のことを愛していたから…子供もそれをわかって、ほんとはいってほしくなかったけれど、最期のお別れとして、お母さんを想って、走ってくれたのよ。素敵な話じゃない。ねえ?」

「ええ…そうね」

 子供は再びそのおばさま二人の様子を見てしまっていた。
 ハンカチで目元を拭うおばさまとその横でその様子に優しく笑いかけるおばさま。背景のキリリとした夕暮れの風景に重なるその姿だったが、なぜだか、景色全体が丸みを帯びて温かくなっているような気がした。それは気の張った初夏の暑さを忘れさせてくれるような、人間の、深い温情だった。

 子供はなんとなく、おばさま二人が話していた「死」について考えてみようと思った。が、全くわからなかった。唯一「おとうさん」という言葉だけ気の遠くなるような感覚と共にポツリと浮かんだが、小さい頃の話過ぎて何も思い出せなかった。そうして飽きたようにやがて座りなおすと、隣にいた母親の腕を少しゆすぶった。特に意図はなかった。ただ、何かを確かめたいというような、形骸化した欲だけが、無意識の中に心細さとして浮かんでいた。

 母親はそれに気が付くと、寝起きの薄い目で子供の顔を見た。その顔には母親らしい、愛情深い微笑が湛えられていた。

「なに?」

 緩やかに弧を描いた口角でそう聞かれた子供は何も言わずに、ただ二三度かぶりを振った。それでもこの時、子供の心は母親という確かな存在によってしっとりと凪いでいた。そうして今や反射した車窓に映る、地平線上の濛とした紅に静かな目を向けた。

 母親はそれを見ると、緩やかな愛おしさにそっと子供の頭を撫で、再び眠りについた。平日の疲れが溜まっていた。それでもその重たい瞼に残った鮮やかな夕暮れに明日も晴れるかなと、ふと思った。

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