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静寂 (掌編小説)

 

 隣で妻が寝ている。私は本を読んでいる。白色の電灯が弧を描いている。その壁に妻の寝息が時々反射する。溶けるような息遣いだ。

 私はそれに深呼吸した。

 静寂の夜、昼間の熱が微かに尾を引いた室内は心地よい静けさに満たされている。私はそのなかで妻に無言の眼差しを向けた。

「良い風入ってくるから窓開けよう?」

 そう言って吹いた風の香りは昼だ。天日干しした布団のような安心感があった。空に染まった夕焼けがほのかなオレンジに柔らかかった。妻の表情も何ともいえない幸せの感情に浸っていた。

 その表情のまま眠ってしまったような妻を見るとなぜか静寂が気になり始める。

 静かだと思う。

 夜の静けさだけではない、心の静けさ。自分の情は凪いでいる。それに気づかされる。

 本に目を戻すと無数の文字列が視界を流れていく。何ら突っかかりもない。意味をもたない文字列。ただ眺めるだけ。

 読めないとわかると本を閉じる。茶こけた古本がかぐわしい。意識すると再び静寂が心を満たす。

 やすらかな静寂である。何も考えられない、ただ呼吸をしたい…。


 寝返りをうった妻に緩やかな視線を向ける。顔は見えなくなった。でもきっと静寂の愉悦を泳いでいる。

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