昨日のことのように…

 十五になる青年の反抗期ももうじき終わりを迎えようとしていた。母や父との思い出はこの中学校三年間で新たに心に刻まれることはなかった。——思い出に値することがなかった。
 三者面談で青年は母親を隣に「高校には行きたくない」と。母親は先生を前に泣いた。家では無口な青年の想いを、母親はこの時まで聞いてやることができなかった。母親は自分に対して絶望した。声にならない激しい嗚咽がそのまま自分を非難する言葉として発音されているようだった。
「お母さま、保健室に行ってお休みしましょう」
 先生が母親の肩をさすっている様子を青年は気にしない風に横目で見ていた。鋭い眼差しだった。気にして欲しくないと思っていた。——青年は孤独だった。孤独を己に強いていた。家族より友達だった。が、友達は青年の内情を知る訳ではなかった。皆反抗期という仮面を被った少年だった。皆仲間とつるんでいるように見えて本当は孤独だった。
「お母さま保健室に連れていくから、ちょっと待っててくれ」
 青年は一人取り残された教室で天井を茫然と眺めていた。一度小さな舌打ちが弾かれた。それは教室内をあてもなく戸惑いながら反響するようだった。自分のようだと思った。青年の耳にはいつまでもそう聞こえていた…。

 それから五カ月ほど経過した。霞んだ青が空一面に広がる晴れた日の朝だった。青年は家のリビングでスマホを眺めていた。漫画を読んでいた。目はページ内を追っていても内容が全く頭に入ってこなかった。何か落ち着かない感情に少し腹が立っていた。思わず溜息が漏れた。すると母親が
「もう合格発表されたんじゃないの?」と。
 キッチンにいた母親は青年に急に話しかけた。意表を突かれ青年は
「ああ?」と一声。
 意図しない威圧に青年自身辟易してもう一度
「うん」と。
 そうして
「定員割れしてるんだから、受かってるに決まってるだろ。」と普通に言った。
「わからないわよ。あなたなんだから。」
 母親は笑みを浮かべて言った。その表情には心からの安堵の色が孕まれているようだった。
 程なくして青年はその高校のホームページに飛んだ。青年は「どうせ」と思いながらも唾を一度飲み込んだ。読み込みの遅いページが開いたかと思えばそこには数字がずらッと並んでいた。一から順に並んでいた。青年は五十三番だった。青年はその時緊張など忘れ「どうせ落ちててもいいや」と吹っ切れたように突然思った。そうしてそのページ内を直接その数字にたどり着くように眺めた。——
 その番号はあった。それは最後の番号だった。青年はすぐに視線を逸らした。そしてもう一度そこを見ると確かにその数字はあった。鼓動は早いままだった。しかし肩の荷が下りたようで大きく伸びをした。
「受かってた?」
「うん。受かってた。」
 母親はそれを聞いた途端涙を流した。顔が淡く火照っていた。母親にとっては青年が無事に高校生になってくれたことが何より嬉しかった。高校のレベルなどは青年が気にしているだけであった。青年は母親の涙を三者面談の時とはまるで違う眼差しで眺めていた。そこまで泣かなくてもと、その涙を否定することは無かった。気が遠くなるような恥ずかしさを覚えていた。

 その夜、ソファに座っていた母親は肩凝りを気にするように、自らの手で肩を揉んだり、伸ばしたりしていた。風呂上がりの青年は冷蔵庫からジュースを取ろうと、珍しく、家族がいる時間帯にキッチンへと足を運んだ。青年はその時母親の、その様子を見た。いつもこうだったのかとふと考えた…。 
 青年はジュースを取ろうか躊躇することもなく母親の元へと向かい背後に回った。そうしてその両の肩を、二三度、柔らかく握られた拳で交互に叩いた。青年はこの時、自分が楽になったような気がした。が、その瞬間青年ははッとした。母親の背中に、幼い日の自分の姿を鮮明に見た気がした。——その手が止まった。——
 切ないほど楽しそうに笑っていた。


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