見出し画像

野良犬


 人生の価値について悩み悶えるものに捧ぐ

 

 ある夏の日の田舎の夕焼けは焼けただれた皮膚のように、グロテスクな色合いだった。血生臭い空の下に小学校低学年の少年は一人で、捕まえたキリギリスの、六本の足を、一本ずつ引っこ抜いていた。ブチっ、ブチっ、とそのたびにキリギリスの体内から透明の体液が噴き出していた。キリギリスはそれでも平然としているように、口をもぞもぞと動かしていた。

 少年の顔に、感情の色は無かった。学校ではいじめられ、家にかえると、父から暴力を振るわれる。頬に深く刻まれた、黒ずんだ傷痕は父親の握っていた包丁が掠めた痕である。 

 幼稚園には行けなかった。金が無かったからだ。父親は生まれてきたお前が悪いのだと、お前のせいで金がなくなったのだと、彼の自我が芽生える前から、少年を痛めつけた。

 作者は夕焼けを焼けただれた皮膚だと先ほど表記した。―それは少年の体そのものである。父親の暴力は単純な暴力にとどまらない。彼は散々殴りつけて、意識が朦朧とした少年を裸にすると、両手、両足を、自身のネクタイで縛り付ける。そして蝋燭に、悲しいまでに鮮やかな火を灯し、その炎で彼の体を、炙る。溶けた蝋でさえも、彼の体に白い膿となって彼を燃やそうとする。生肉が悲鳴をあげて痙攣する。

 彼の母親も同じく体を炙られる。それでもかろうじて残った良心がそう張り上げるように、「あの子だけはやめて!」と叫ぶ。

 父親はそれを聞くと、中年の油照りの顔に、不気味な微笑を浮かべて、彼女の顔を殴りつける。彼女は「いやっ!」と僅かに叫ぶも、鈍器で殴られたようなあまりの衝撃に気を失う。

 彼の顔は傷だらけである。至る所が紫ずんでいる。目の周りは腫れているために、両の目は、本来の半分ほどの大きさしかない。当然風呂に入ることは許されない。彼は自分が臭いことを知っている。父親の煙草のヤニの臭い、毎日恐ろしいまでに体全体から滲み出る冷や汗、伸びきった髪の毛の照りはその醜悪な状態を象徴している。

 彼の同級生はそれに対して露骨に嫌な顔を向ける。日ごろのストレスやら鬱憤を晴らすための、都合の良い玩具のように、皆が皆、彼をいじめる。彼はそれを無視するために、それは益々エスカレートする。

 同級生は朝、登校してきた彼を教室で待ち構えると、「あっ、汚物!」「なあ汚物、ここは下水道じゃねえ。お前の居場所はこっちだ!」と、彼の、ランドセルにも似つかない、ぼろぼろのリュックサックを引っ張って、トイレへと向かう。そうして、便器の中の水に、彼の顔を埋め込む。彼は当然、足やら腕をあてもなく、ばたばたと動かしまわる。便器内の水に大きな泡がいくつも浮かび上がる。しかし同級生はそれをやめない。同級生は、彼の悶えがぴたりと止む、その瞬間まで、彼の顔全体を水に埋め込み続ける。少年は、それを何度も、彼らが満足するまでやり続けられる。

 給食はわざと支給されない。給食当番の女の子は彼が来ても、彼に食べ物を与えない。彼はそれとわかっていても、並ばないと先生に怒られるために並んでいる。そうして与えられないとわかると、他の同級生に突き飛ばされるように列から出て、自身の席で、うつ伏せになって眠る。それは空腹を紛らわすように。

 彼はあまりにも空腹が激しいと、下校時に、道端に死んでいる昆虫を食べる。イナゴはまだ好い方である、時にはカブトムシの頭、ミミズでさえも頬張る。最悪それで一日を乗り切ることもある。

 その生々しい夕焼けの日もそうだった。彼は一人、車も人もほとんど通らない、田舎の畦道を歩いていた。それは虫を探すためであり、また、同級生から逃げるためでもあった。畦道は丈の長い草に挟まれるように存在していた。体の小さい彼にとって隠れるには十分な草丈であった。

 彼は足のもげたキリギリスを鷲掴みにすると、それを遠くに向かって放り投げた。

 彼はまた俯きながら道を歩き始めた。

「あんなこといいな…できたらいいな…あんな夢、こんな夢、いっぱいあるけど…」

 彼は同級生が口ずさんでいた訳のわからない歌を無意識に呟きながら、歩いていた。

 彼はなかなか好い獲物が見つからないなと、ふと顔を上げた。すると彼の視界は畦道の先に、体を丸めている一匹の、黒い動物を捉えた。彼は興味本位で近づいていった。近づくにつれて彼はその真っ黒な毛を持つ動物が何であるのか理解した。―それは一匹の野良犬であった。中型犬であった。マゼンタの夕焼けに、それは底気味の悪い影のように、真っ黒だった。それはすべての光を吸収しているようだった。顔は少年の方を向いていたが、困り眉に目も耳も垂れ切って、すっかり疲弊しきっている様子だった。眼球の白が露骨に明るかった。その犬は逃げるそぶりを見せなかった。 

 少年はそいつのために虫を探そうと勝手に思った。そうすると犬の周りにすぐに見つかったのは触覚をピンと張った一匹のゴキブリ。夕焼けに染められたように、その体はほのかに赤かった。

 少年は慣れた手つきでそれを捉えると、犬に「食べる?」と言って、その両手の中に包み込まれたゴキブリを見せた。舌を垂らしていた犬は俄かに反応したように、ハッ、ハッと息を荒げ始めた。そして少年がその手を口元に近づけると、犬はそれに噛り付いた。

 ボリボリと鳴っていた音もやがて、シャリシャリと、命がすりつぶされる音となって少年の耳の中に響いた。犬は満足したように尻尾を振った。

 それから少年と犬は仲良くなったように見えたが、実際そうではなかった。

 少年はこの黒い犬が、自分と似たような境遇であることに親近感を覚えたのではなかった。単純に暇つぶしの相手として好ましく思い、それと接していた。同情と言う言葉は知らなかったにせよ、犬に対してそのような感情を持たれることは嫌だった。犬も犬で少年が食べ物を与えてくれるだけの理由で、少年に、猜疑心など無縁であるかのようにして近づいていた。

 それから一年程経った。少年も犬も何とか生き延びた。少年は身長が伸びたが、対照的に犬はほとんど大きさが変わらなかった。

 そうして人間の性に忠実に従うように、少年の心も無慈悲に成長してしまった。少年はこの一年、いじめであったり、暴力を受け続けたことで、ある感情を覚え始めていた。

 それは復讐心である。

 度重なる心理的負担は彼の、素直な少年の心を粉砕した。

 彼は強い復讐心を覚えていたが、その復讐を、己の犠牲無しに済ませることはできないと思っていた。父親には圧倒的な体格差があるために、反抗心を見せただけで、母親のように殺されて、家に放置される危険があると思った。同級生には一人には勝てたとしても、数でやられると思っていた。

 それだから彼は半自動的に、復讐の標的を、黒犬に定めた。彼は復讐と名乗りつつも、それがこれまでに募り続けたストレスの爆散なる、殺意であることを薄っすらと理解していた。それでもそれを正当化するために、無理に復讐心だと自らに言い聞かせていた。

 彼はダイナマイトをそいつにのみ込ませて、その命を体ごと、跡形も無く消し飛ばそうと思った。肉片があたり一面に降り注ぐ。それほどのことをしなければ自分の欲求は満たされないと思っていた。彼の中で黒犬はまるで、彼のストレスの結晶のようなものだった。それが木端微塵になることで自らも楽になれると信じていた。だがそれはあまりに現実的でなかった。

 彼はしょうがなく、いつか道端で拾った、緑青の果物ナイフをポケットに忍ばせた。

 その日も始めて黒犬と会った日のように、夕焼けが鮮やかだった。どこまでも続いていくような鮮烈な赤だった。彼はあらかじめ捕まえたゴキブリを握りしめながら、黒犬の元へと向かった。足がもぞもぞと動く感触が彼の掌の中で、彼の心を投影したようにさざめいていた。

 黒犬はいつもどおり尻尾を振って彼を待っていた。彼はそいつに会うなり、頭を撫でると、すぐにゴキブリを与えた。彼はそいつが美味しそうに頬張る様子を一心に見ていた。すると喉が蠕動したために、それが喉を通ったのが分かった。彼は普段ならそこで帰るはずだった。だが、この日は黒犬の首を瞬く間に絞めあげた。黒犬は慌ててその腕を振りほどこうとしたが、それは遅かった。彼は犬の体表に染み込んだ油によりぎとぎととした右腕で黒犬を締めながら、左手で錆びたナイフを取り出すと、それを黒犬の首に何の躊躇も無く突き刺した。犬は予期せぬ戦慄が走ったその瞬間、猛烈に吠え始めた。彼はあまりの抵抗に、たまらずそれを一度引き抜くと、もう一度、今度は仕留めきるように、全力で突き刺した。黒い毛皮からは想像もできないほど強烈な赤味を放つ血液がそこから噴き出した。犬は途端、全身から力が抜け切り、ぐったりと地面に寝そべった。不規則な息遣いと甲高い鳴き声は、譫言のように行先も無く発せられると、真っ赤な空に浮かんで消えていった。

 やがて息の音が完全に止まる。ただでさえ痩せこけていた黒犬の抵抗は、成長した彼には通用しなかった。彼はやけに冷静だった。彼は息絶えようとする黒犬を、憧れの眼差しで眺めていた。自分もここで死のうかと思っていた。そうすれば初めての友達になってくれるかなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?