【長編恋愛小説】空が夕闇に変わる頃
【第1章】 始まり
幼い頃から、"変人"というレッテルを貼られる事が多かった。
いつも何処か変な所を見ている。独り言が多い。突然泣き出す。突然笑い出す。
そんなわたしを両親は不安に思い、いわゆる"先生"のところへ連れて行かれたこともある。
それはある程度成長するまで、数回あった。
でも、診断結果は至って正常だ。
医者の質問には的確に答え、読み書き、計算、運動能力だって、そこら辺の子供よりは長けていたと思う。
自分が他の子と違うと気づいてからは、それも無くなった。
あえて"見えない"ふりをし、聞こえないふりをし、そこには何も居ないと自分に言い聞かせた。
だけど、そんなふりも失敗に終わることもある。それが、たった今の現状だ。
ああ、どうしよう・・・。
"彼女"は地面を引きずるほど長い髪を前に垂らし、その隙間からわたしをジッと見つめている。
普通なら見惚れるほど大きくて綺麗な目だが、残念なことに、普通とは程遠い。
私の認識では、人間の目は2つ存在するはずだ。だけど、彼女の目は1つ。それも、顔の半分程の大きさで、それが額の位置にあるのだ。
こんなことなら、わたしも飲みに行けばよかった・・・。
何故こんな状況に陥ったかというと、話は1時間程前に遡る——。
*
「ありがとうございました〜、お気をつけて〜」
最後の客を見送った春香(ハルカ)は、店に戻ってくるなり、ふあ〜と豪快なあくびをかました。「あ"ー、疲れた。早く帰ってビール飲みたい」
「今日のは2オクターブ高かったね」わたしが言うと、春香はさっきまでの営業モードの顔に戻った。
「お疲れ様ですぅ。さっ、ちゃっちゃと片付けて早く帰りましょう」
「・・・猫かぶり」
わたしの嫌味を無視して、春香はそそくさとキッチンへ向かった。「あたし洗い物するから、あんたホールお願いね」
「あいあい」わたしはテーブルに残った皿とグラスを片しに入る。
まあ、確かに春香の言い分には一理ありだ。
今日は金曜日。週末ということもあり、店内はオープンから賑わっていた。休む暇も無く、足はもうパンパンだ。
早く帰ってビール・・・ではないが、暖かいお湯に浸かりたい。
「はあ〜、疲れたねぇ」
そんなわたし達をよそに、入口の待合席に座りたばこをふかしている男が1人。
「毎度言いますが、店内は禁煙です店長」わざと皿を鳴らし片付けをアピールしたが、こちらを見向きもしない。
「お客さんいないからいーの」
「そのお客さんには外で吸わせてるくせに」わたしの指摘を無視して、店長は2本目に火をつけた。
これ以上言うだけ無駄なのはわかっていたから、片付けに徹した。
ここは創作イタリアンの店、『TATSUータツー』
オフィス街ということもあり、日頃からサラリーマンやOLの憩いの場になっている。
従業員は、店長の木下 達也(キノシタ タツヤ)、大原 春香(オオハラ ハルカ)、そしてわたし中条 雪音(ナカジョウ ユキネ)の3人だ。
ちなみに店の名前でもあるシェフの店長は、基本、やる気無し。調理をしている時以外は常に携帯をいじっているか、タバコを吸っている。
というか、その姿しか見たことがない。
"自称"40代らしいが、わたしには時々、初老に見える。
キッチンで黙々と洗い物をしている春香は、基本、二重人格。
客の前では常に笑顔、愛想を振り撒いているが、居なくなった途端に豹変する。声は1オクターブから2オクターブ下がり、口角も下がりっぱなしだ。また、それを隠そうとしないのもこの女だ。
春香とは半年違いで店に入り、わたしのほうが少し先輩だが、同い年ということもあり、気兼ねしない仲だ。
店自体はカウンター5席、4人掛けのテーブル席が3席と決して広くはないが、客足が絶えないのは、間違いなくこの店長のおかげだ。
普段はボーッとしているが、料理に関しては、その手際といい味といい、世の中の料理人の中でもトップクラスの腕だと思う。
そこはわたしも春香も認めている。
立て続けに3本たばこを吸い終えた店長は、カタツムリ並の動きで椅子をテーブルへと上げていく。「ねえ2人とも、これから飲みに行かない?」
拭いているワイングラスごと手を挙げたのは、春香だ。「行く!行きます!もちろん店長の奢りですよね?」
「奢らなかった時、ないでしょ・・・」
「いえ〜い。雪音は?行くでしょ?」
「んー」正直、キンキンに冷えたビールには心惹かれたけど、今のわたしが欲してるのはビールより熱いお湯だ。それに——「今日はやめときます。次は是非」
「ノリわる」猫被りから即、非難が入る。「店長とふたりぃ・・・?」
「俺、営業モードの春香ちゃんのほうが好きかも」店長が切なそうに呟いた。
「だって、2人で飲んでたらカップルだと思われそうだし」
「親子じゃなくて?」サラッと言ったが、店長の切ない視線を感じた。
「人間、お世辞のほうが嬉しい時もあるよね・・・」
店長を無視して春香が口を開いた。「ていうか、アンタこの前も来なかったじゃない。体調でも悪いの?」
「ううん、眠いだけ」それも嘘じゃない。
「あっそ、ばーさんみたいね」
この女の本性を、客にみせてやりたい。
「あー、やっぱり、家で待ってる人でもいるんじゃない?」この類の話は無視されると知っていて、毎回よく言うぞ店長よ。
着替えを終えたわたし達は、店の外で二手に分かれた。
直前まで春香に粘られたが、わたしの意思は固かった。最後の舌打ちは、水に流した。
携帯の時計を確認すると、23時31分。
家までは歩いて20分弱。地下鉄という選択肢もあるが、金曜日のこの時間帯は飲み帰りの客でいっぱいだ。
これ以上、足を駆使したくなかったけど・・・しゃーない、歩くか。
6月に入ったばかりだが、今日はとても蒸し暑かった。少し歩いただけで、額にじんわりと汗が滲む。
あー、今ビール飲んだら最高だろうな。と、少し後悔。まあわたしの場合、一杯飲んだら満足するんだけど。
あの2人はそうはいかない。控えめに言って酒豪だ。最初のビールなんて、まるで水を飲むかのように一瞬で飲み干すんだから。
わたしが1杯飲み終わるのと、向こうが3杯飲み終わるのが同じタイミングって、どういうことだ。
そう、だから深夜コースは確定なわけで ——それによって、わたしには懸念が生じる。
経験上、"奴ら"は深夜に活動が活発になるからだ。昼に見かけることもあるが、大概は辺りが暗くなってからだ。
出来るだけ見たくないから、わたしはいつも下を向いて歩いている(そのおかげで小銭を拾った事も多々)。
だけど今日は、そんな自分を恨んだ。
家まであと5分というところで、不覚にも思い出してしまったのだ。冷蔵庫に、飲み物が無いということを。水道水か・・・いやここは妥協するまい。
少し戻れば、コンビニがある。ビールも欲しかったし。と、引き返す。
そして、ペットボトルの水とビール、余計なアイスまで購入したわたしはコンビニの自動ドアを抜けた。
そして次の瞬間 —— 持っていた袋を地面に落としてしまった。
——— まずい。
一瞬焦ったが、こういう時の対処法は学んでいる。
わたしは落とした袋を冷静に拾い上げた。
そして何事も無かったように、家へと歩き出す。平常心、平常心と自分に言い聞かせながら。
でも、すぐにそれが打ち砕かれた。
ついて・・・きてる・・・?
確認したくても、振り返る勇気がない。でも、間違いなく、後ろに何かを感じる。
一気に鼓動が早まり、冷や汗が込み上げる。
どうしよう —— このまま家に帰ったら、"彼女"まで・・・?
次の行動を起こすまで、コンマ1秒もかからなかった。
わたしは右手に見える路地に、吸い込まれるように入り込んだ。決して走らず、歩きと言えるギリギリの速さで駆け抜ける。
ここら辺は道路が入り組んでいるし、どうにか"撒ける"かも。わたしはそのまま突き進み、また抜けれる道を探した。
——— えっ、ちょっと待って。まさか・・・。
鼓動が更に早まっていくのを感じる。
抜け道なんて見当たらない。見えるのは、レンガ積みの高い塀だけ。
待て待て待て!
そして次の瞬間、早鐘のように打っていた鼓動が、一瞬、止まった。それと同時に、わたしの足も止まる。
行き止まりだ。
——— 落ち着け。落ち着けわたし。
次にわたしがすることは、まず、振り返ることだ。"居る"と決まったわけじゃない。
もしかしたら、ついて来てると勘違いしているのかもしれない。
そうだよ、絶対そうだ。
わたしは至って冷静に、そしてゆっくりと、後ろを振り向いた。
10秒、いや、もしかしたらもっと経っていたかもしれない。わたしは無言のまま、その場に立ち尽くしていた。
正確に言えば、見つめ合っていた、かもしれない。
さっきコンビニの前で見た彼女が、そこに居た。距離にすれば2メートル程先。
側にある街灯のおかげ(せい)で、その地面を引きずる長い髪と真っ黒な目が、ハッキリと見える。背丈はわたしと同じくらい。
白いノースリーブのワンピース姿で、手足は普通の人間と同じ。ただ、異常なくらい細く、裸足だ。
顔にかかる髪のせいで顔全体は見えないが、わかるのは、目は1つだということ。額全体を覆うほど大きな目。
彼女の姿勢は猫背気味で、その腕は髪と共に揺れている。
しばらく見つめ合っていたが、彼女はその場に立ち尽くし、動かない。
ただわたしを見据えている。
彼女の横をダッシュで通り抜けられるんじゃ。一瞬脳裏を過ったが、それを実行に移せる勇気は無い。
どうすればいい。
わたしは、どうすれば ・・・。
考えるより先に動いたのは、右手だった。
「あ、こんばんは」次にこの口。
わたしは店長か!
毎日ギリギリに出勤してきては、「あ、おはようさん」と、気怠そうに手を上げる光景が頭に浮かんだ。
ああ、今頃2人は冷えたビールを堪能してるんだろうな。こんなことなら、わたしも一緒に行けばよかった。
もちろん、彼女の反応は無い。
「あの、わたし家に帰らなければならないので。失礼します」自分で何を言っているかわからなかったが、勢いに任せて、1歩足を踏み出した。
すると彼女の大きな目が、バサっと動いた。
わたしはそれに驚き、ビクリと身体が跳ねる。
瞬き1回で、そんな音しないでしょ普通。
まあどう見ても、普通ではないんだが。
その時だった、何処からか弱い風が吹いてきて、彼女の顔にかかった髪を、一瞬持ち上げた。
わたしはそれを見逃さなかった。街灯の灯りでハッキリ見えた。
彼女には、口が無い。というか、鼻も無い。おそらく耳も。
顔に存在するのは、あの大きすぎる目だけだ。
ということは当然、喋ることも聞くことも出来ないわけで・・・。
どうしたものか —— 今まで、何かを訴えてくる"者達"はいたが、こういうタイプは初めてだ。こういうシチュエーションも。
そこに居るとわかっていても、決して目を合わさず、見て見ぬフリをしてきた。
だから、対処方法がわからない。
逃げるという選択肢以外、浮かばない。
わたしは頭の中でシミュレーションを立てた。
よーいどん!でダッシュ。出来るだけ彼女から離れながら、逃げ去る。
今日はスニーカーだし、足は決して遅いほうじゃない。
よし、と意を決したところで、彼女に先を越されてしまった。
右足が、ズリッと動く。
いやいやいやいや、ちょっと待って!
次に左足。
引きずるように、1歩、2歩と近いてくる。
わたしは心の中で悲鳴をあげた。そして、彼女の両腕がわたしに向かって伸びてくる。
もはや、恐怖で身体が硬直していた。
逃げろ。逃げろ。
気持ちとは裏腹に、足が退いてしまう。
彼女が1歩進み、わたしは1歩退く。ゆっくりと。そして—— 完全に追い込まれた。
背中に壁が当たる。もう逃げようがない。
「あの、ちょっと、落ち着きましょう!話し合いましょう!」またわけのわからないことが口から出る。
彼女との距離は、わずか数十センチ。わたしは身をよじり、塀にすがりついた。
「わーー!ごめんなさいーー!」
そして彼女の指先が、わたしに数センチのところまで近づき—— もうダメだ。わたしは、ギュッと目を瞑った。
どれくらい、そうしていただろう。
とても長い時間に思えたが、実際は10秒ほどだと思う。
あれ?なに?身体に何も触れた感触がない。
目を開けたいけど、怖い。
なんでこんなに静かなんだろう?
わたしは恐る恐る、目を開けた。
そして——— 「ギャーーーー!!!」
「キャーーーーー!!」
———・・・・・えっ?
状況を理解出来なかった。
今起こった事。目を開けた。目の前に顔があった。叫んだ。目の前の顔も叫んだ。
「ちょっとやだ、ビックリするじゃない!」
「・・・えっ?・・・誰?」もはや半泣き状態だった。
わたしの勘違いでなければ、目の前に"人間"がいる。さっきの彼女ではない。人間の男の人が。
「大丈夫?どこも怪我してない?」
わたしは言われるままに頷いた。
徐々に目が慣れてきて、やっぱり、普通の人間だと認識した。
一気に安堵感が広がり、膝からへなへなと崩れ落ちた。
「あらあら、大丈夫?」
目線が下がると、男が手に持っている物が見えてギョッとした。街灯の明かりでキラッと光る。
わたしの反応を見た男は、慌てたようにソレを後ろに隠した。
「安心して、アナタを傷つける物じゃないから」そう言って、何処からか取り出した革張りの鞘にソレをしまう。
「なんで、ナイフなんか持ってるんですか?」
「これ?」男はちょっと意外そうだった。「これね。まあ、正確に言うとナイフじゃないのよ」
思考が正常に戻り始め、やっと違和感を感じて取れた。
じゃないのよ?今この人、そう言ったよね。
それにさっきも、キャーーって言ってたような。
男の、足から頭へと視線を巡らせた。
スニーカー。パンツ。暗くて色まではよくわからないけど、チェック柄のシャツ。髪は短髪までいかないが、短い。
どう見ても、男だ。
「大丈夫?立てる?」もちろん、声も。
男は持っていたナイフを身体の後ろにしまうと、前屈みになり、片方の手をわたしに差し出した。
素直にその手を取る程、冷静さは失ってない。「大丈夫です。立てます」と、強気に言ったものの、足に力が入らない。
わたしは腕をバネにして、勢い良く立ち上がった。
案の定、足がもたつき前に倒れそうになる。わたしは男に抱きつくような形で、シッカリと受け止められた。
「すみません・・・」
「だから言ったでしょ?素直に甘えなさい」笑顔なのが口調でわかる。
男から離れて、気づいた。大きい。
背もだが、なんだろう、全体的に。店長も背は大きいけど、こんなに威圧感はない。
「あの・・・」と言いかけたところで、男の後ろから黒い何かがこちらに向かってくるのが見えた。
「ギャーーー!!」
「キャーーー!」
咄嗟に男にしがみついた。もしかして、さっきの彼女?
「なに!どうしたの?」
わたしは男の身体に隠れるようにして、後ろを指差した。「何かいる!」
黒い物体が街灯に近づくにつれ、その姿形が見えてきた。そして、ホッとした。
彼女じゃない。またしても、男の人だ。普通の。
「なんだ?どういう状況だコレは」その男の言う意味がわかり、わたしはしがみついていた腕を慌ててほどいた。
「お前な、急に走っていくなよ。何事かと思っただろうが」
「ゴメンゴメン。彼女について行く"奴ら"が見えたものだから、つい追いかけちゃった」
「それで?」
「始末したわよ」
2人の会話は理解できなかったが、2人が顔見知りだと言うことはわかった。
オネエじゃない男のほうが、わたしをジッと見る。—— えっ、睨まれてる?
「ところで・・・」と言いかけたところで、オネエが遮った。「ちょっと、そんな威圧的に見たら怖がるでしょ!ただでさえ悪人面なんだから。ねえ?」
わたしに同意を求められたが、反応出来るわけもなく。
「やかましい!別に、普通に見ただけだ」
「ゴメンねぇ、この人顔はこんなだけど、決して怖い人じゃないから」その、この人の肩をオネエがポンポンと叩く。
確かに、威圧感は否めない。切れ長の目と太い眉毛がそう見せているのかも。そして、この人も、デカい。
「あのぉ・・・」自分でも聞こえるか聞こえないかという声だったが、2人が同時にわたしを見た。「この状況が、よくわかっていないのですが・・・」
わたしは無意識に、彼女を探した。さっきまでわたしに触れそうな程近くにいた彼女は、いったい何処へ?
「あの女の人なら始末したわよ。まあ、人とは言えないけど」淡々と言われ、頭がついていかない。
「ということは——」オネエじゃないほうが言い、オネエが頷いた。
「見えるわね」わたしに問いかけるというより、納得している口調だ。
今、わたしに唯一理解できることは ——「見えるんですか?」
2人がまた同時にわたしを見る。そして2人で目を合わせた。
「見えるんですかって、見えなきゃ始末出来ないだろう」当たり前のように言われ、ちょっと怯む。
「始末って、あなたが・・・?どうやって・・・」
オネエを見て言ったが、またもや返ってきたのは、「どうやってって、その場に居たんじゃないのか?」
「はいストーップ!だから威圧的になるのやめなさいって!怯えてるじゃないの」
わたしは口を閉ざした。確かに、威圧的だもの。
「別に、そんなつもりはない」男は少し申し訳なさそうに言った。「この口調は元からで、他意はない」
「目閉じてたから、見えなかったのよね?」オネエに優しく言われ、わたしは頷いた。
この人、変だけど(かなり)、優しい。
「にしても」そう言うなり、オネエが身体を揺らし始めた。「面白かったわね。奴ら相手に、落ち着きましょう!話し合いましょう!なんて、初めて聞いたわ」
体の揺れは、笑っているからだ。ちょっと、前言撤回。そりゃあ自分でも、何言ってるかわからなかったけど。
「見たのは、初めてじゃないだろう?」男の口調は、さっきより幾分優しい。
「はい。でも、あーゆう事になったのは初めてで・・・」
男がオネエを見た。説明を求めている。
「追い込まれてたのよ」親指でわたしの後ろの壁を差す。「間一髪だったわね。もう少し遅かったら食べられてたわ」
「食べっ・・・られてた!?わたしが!?」
オネエは不思議そうにわたしを見た。「あなた、1回も見たことないの?」
「何を?」即答だった。
「奴らが人間を、—— 襲うところ」言葉を選んでるのがわかった。
返事が出来ず、首を横に振ると、オネエは眉をクイっと上げた。
「それもまた、運が良いというかなんというか・・・」
運が良い?わたしが?
自慢じゃないが、わたしはこれまで自分を哀れむことはあっても、恵まれてると思ったことは1度たりとも無い。
「一応聞くけど、あなた大人よね?」
突として聞かれ、感情が顔に出ているのが自分でもわかった。「どーゆう意味ですか?」
「今のは、セクハラ発言にも取れるぞ」男が冷静に指摘する。
「いやん!違うわよ!ただ、大人になるまで1度も見ずに生きてきたなんて、ちょっと信じ難くて」
「まあ確かにそうだな。ただ、どう見ても小学生には見えんぞ」
「・・・一応、24歳の大人です」
「あら、ピチピチね。ごめんなさい、悪気はないのよ」
24でピチピチって、この人はいったい何歳なんだ?
「そんなに、おかしいですか?その、今まで・・・」その先は、どう表現していいかわからなかった。
「そうねぇ・・・」オネエがしみじみと言い、腕を組んだ。「奴らの中にも、人間に害を与えないのもいるわ。でも、大概は——」
今しがた自分に起こった事に、段々現実味が湧いてきた。さっきの彼女は、わたしを食べようとしていたんだ。
手が、微かに震えるのがわかった。
「大丈夫よ」ふと、頭に手が乗る。「もういないから。安心して」
オネエの言葉の通り、ホッとする自分がいた。
「でも、どうやって・・・始末・・・したんですか?」
オネエは後ろに手をやると、先ほどのナイフを取り出した。鞘から外さず、わたしに見せる。「簡単に言うと、これで突き刺すのよ」
「このナイフで・・・彼女を?」その姿を想像して、身震いする。
「ナイフではない。正確には短刀だ。ちなみに俺も持ってる」そう言い、男は着ていたジャケットの内ポケットから同じような物を取り出した。長さは同じくらいだが、オネエの物より少しゴツく見える。それもまた、革張りの鞘に納められている。
「まあ、ナイフでも刀でもどっちでもいいわよ」
「どっちでもよくはないだろ。ちゃんと正式名称があるからな」
「やだこの堅物!わかればいいじゃない別に」
「よくない。それを言ったら全てが曖昧になるだろう」
「きー、やだやだこんなクソ真面目。アンタ人生大概損してるわね」
「まず、自分を見てから言え」
「どういう意味よッ!」
2人の"じゃれあい"にピリオドを打ったのは、わたしだ。
わたしは無意識に、オネエの持つ刀の鞘に触れていた。2人とも少し、驚いてるようだ。
「・・・持ってみる?」
オネエの言い方は変わらず、優しい。わたしはコクリと頷いた。そして、柄をわたしに向ける。
わたしはソレを、慎重に受け取った。
——— 重い。
「慣れるとそうでもないわよ」
この人は、わたしの考えてることがわかるのか?
「中、見てもいいですか?」
オネエは静かに頷いたけど、もう1人のほうは少し警戒しているように見えた。
わたしは構わず、でも慎重に、鞘を外す。
街灯に照らされた切先がキラリと光る。
「きれい・・・」今までわたしが手に持った刃物といえば包丁くらいだが、包丁とは全然違う。それに、形が少し反っている。
「もういいだろう」男に言われて、見惚れていた自分に気づいた。刀を鞘に戻し、オネエに返す。そのまま渡しそうになり、慌てて柄を向ける。
「欲しい?」オネエはどこか、面白そうだ。
意外だったのは、わたしの返答。「欲しいです」素直に答えていた。
「おい・・・」
「瀬野、彼女は大丈夫よ」
「しかし・・・」
「どっちにしろ、このままにしてはおけないでしょ?サバンナに子猫を放つようなもんよ」
意味をちゃんと理解はできなかったけど、オネエの言う"子猫"が、わたしの事だということだけはわかった。
「あなた、お名前は?」言いながらオネエはまたナイフを後ろに隠した。
「中条です」
「中条・・・?」
「あ、雪音です」
「あらー!綺麗な名前ね。ピッタリよ」
—— どういう意味だ。
「あたしは遊里(ゆうり)よ。早坂 遊里。そして・・・」数秒間、沈黙が流れ—— 「アンタの番でしょ!自己紹介しなさいよ!」
「今の流れだとお前が紹介するもんだと思うだろ!」
「あ、そお?この人はね、瀬」
「瀬野 正輝(せの まさき)だ」
「結局言うんじゃない!」
「自分の紹介くらい自分でする」
「ブッ・・」思わず噴き出してしまい、2人がまたわたしを見た。「ごめんなさい」と謝りながらも、笑いを抑えられない。だって、2人のこの間(ま)、ツボなんだもん。
「ふふ、少し落ち着いてきたみたいね」
言われて、確かにと気がついた。笑える余裕があるほど、気持ちは落ち着いている。
「それで、どうするんだ?」
「うーん、そうねぇ」オネエが腕時計を確認する。「もうこんな時間だし、詳しい事は後日ね。雪音ちゃん、携帯番号教えてくれるかしら?」
警戒心というよりは、当然のように名前を呼ばれたことに、すぐ返事ができなかった。
「ほら、セクハラだと思われてるぞ」
「ノー!違うわよ!今度、改めて話をしましょうって意味よ」
ノーって。わたしはボディバッグから携帯を取り出し、自分の番号を表示してしてオネエに見せた。「ありがと」と微笑み、自分の携帯に入力する。そのあと、1コール貰った。
「さっ、夜も遅いし送ってくわ」
「あっ、いえ、家すぐそこなんで大丈夫です」
「何言ってるの!女の子でしょ」
—— 説得力に欠けるのは、気のせいじゃないだろう。
「警戒されてるなぁ」男が面白そうに言う。
「もー!変なこと言わないでよ!雪音ちゃん、安心して。あたしジェントルマンだから」
—— 説得力に欠けるのは、間違いない。
「送ってもらったほうがいいぞ。また、さっきのような目に遭わないとも限らんだろう」
ドキリと心臓が跳ねた。確かに、近いとはいえ、もう現れないという保証はない。
「では、お願いします・・・」ボソりと呟く。
「じゃあ、俺は先に行って"報告"してる。頼んだぞ」
「オーケー」
「あの、瀬野さん」去ろうとしていた瀬野さんが振り返る。——この人達がいなければ、わたしは今、こうしていない。「ありがとうございます」
瀬野さんは軽く頷くと、来た道を戻っていった。
「さ、あたしたちも行きましょうか」
「・・・はい」
オネエの後に続き、数メートル歩いたところで——「あっ!!」
「ぎゃっ!・・・何!どうしたの!?」
思い出した。「アイス・・・」
「アイス?」
また戻り、辺りを探すと先程わたしが追い込まれていた場所に落ちていた。
拾い上げて袋の中からアイスを取り出すと、すっかり液体化している。
「ガーン・・・」
「びっくりした。何事かと思えば、アイスの心配?」
「・・・奮発したんです。いつもは買わないヤツを・・・」
これは、帰ったら冷凍し直して、また食べる。心に決めた。
「掴めない子ね。面白いわ」
「えっ」
オネエは、その言葉通りの顔をしている。「さっ、行きましょう」
家までは5分程で着いた為、とくに会話という会話も無かった。
オネエは辺りを見回しながら、時々わたしにも目を向け、歩幅を合わせて歩いてくれているのがわかった。疲れ切っていたわたしは、素直にそれに甘えた。
「今日は、ありがとうございました」
「あなたを見かけて良かったわ。この辺はあまり通らないんだけど。コレも何かの縁ね」
「・・・あの・・・」
「ん?」
聞きたいことは山程あるはずなのに、頭がまわらず、言葉が出てこない。
「大丈夫よ。今度、ちゃんと話してあげるから。今日は何も考えず、ゆっくり休みなさい」
—— やっぱり、この人は人の考えてることが読めるのか?
「わかりました・・・おやすみなさい」
オネエはニコりと微笑んだ。「おやすみなさい」
アパートの階段を登ったところで1度振り返ると、まだこっちを見ていた。
手を振り、早く行けと促す。
わたしは頷き、小走りで2階へ上がる。部屋に入り、電気もつけず窓に直行した。
バッグと買い物袋をベッドに放り投げ、カーテンを開ける。
———いない。
「・・・・・」
一気に気が抜け、そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。「いてっ!」さっき投げた袋に後頭部が直撃した。
あ・・・アイス、冷凍庫に入れなきゃ。
それより、今になって自分が死ぬほど喉が渇いてることに気づいた。
ペットボトルの水を一気に3分の2ほど飲み干す。ひと息ついて、残りも。
「ぶはーーーー」空いたペットボトルをそこら辺に投げ、また寝そべる。
天井を見つめ、しばらくボーッとしていた。
メイク落として、シャワー浴びなきゃ。でも、身体が鉛のように重くて、動かない。
寝たまま、バッグの中から携帯を取り出す。画面の明かりが眩しい。
着信を開き、1番上にある未登録の番号を確認する。
「はやさか・・・ゆうり・・・」
漢字もわからないし、なんて登録しよう。
即決で、『オネエ』になった。
——— 変な、人だったな。
それしか印象がない。
瀬野さんのほうは"まとも"だったけど、どこかとっつきにくい感じ。でも、悪い人じゃないのはわかる。
ていうか、名前も女ぽいし。
薄れゆく意識の中で最後に考えたのは、そんなことだった——。
【第二章】 困惑
「ねえ、お母さん。なんであの子は耳が生えてるの?」
「あの子?何処のこと言ってるの?」
「ほら、見て。あそこ」
「ブランコで遊んでる子?」
「ううん、その横にいる子」
「雪音、ブランコで遊んでいる子が2人いるわよね。その子のことを言ってるの?」
わたしは首を横に振った。「違うよ、その横でジャンプしてる子。耳が生えてる子だよ」
母親は、わたしが指を差す方向を目を細めて見た。1度ギュッと目を閉じ、また確認する。
「・・・誰もいないじゃない。なんのこと言ってるの?」
「ほら、あそこだよ!」母親の腕を引っ張り訴えたが、反応は同じだ。
「あー、雪音、幽霊が見えてるのね?きゃー!お母さん怖い〜」
「あっ、待ってお母さん!」ふざけて逃げる真似をする母親を、わたしは追った。
シッカリと手を掴み、後ろを振り返る。
公園のブランコでは2人の女の子が遊んでいる。その横の支柱には、2人を見ながら楽しそうに飛び跳ねている子が"1人"。ピンと立った大きな耳が可愛いなぁと思った。
なんでお母さんには見えないんだろう。歩きながら母親を見上げ、口を開きかけたが、とどまった。その時は、子供ながらに察していたのかもしれない。
これ以上、何か言ってはイケナイということを。
それが、小学1年生の時、母親とスーパーの帰り道に通り掛かった公園で見た、"最初"だった。
それからは、しばらく見ることもなかった。
子供の良いところは、物事に対して純粋なところだ。忘れられる純粋さ。
頭の片隅に残っていたその日の記憶も、時間と共に忘れていった。
"次"の時は、決して忘れられない。
あれはわたしにとって、人生で1番最悪な出来事だったといっても過言ではない。
小学2年生になった夏休みのある日、わたしは入学した時から仲良しの未来(みらい)ちゃんと、未来ちゃんの家で宿題をやっていた。
7歳やそこらのやんちゃ盛りの子供に集中力なんてものがあるわけもなく、わたし達は早々に切り上げて、近所の公園に向かうことにした。
わたし達の通う学校には遊具が少ないせいもあって、その公園にはいつも近所の子供達が集っていたが、その日は誰もいなかった。
ちょうどお昼時というのもあったのか、わたしと未来ちゃんは貸切状態の公園をここぞとばかりに堪能した。
シーソーから始まり、ブランコのジャンプ競争。鉄棒では、どっちが長くぶら下がっていられるかの勝負。滑り台は、登っては滑るの繰り返しで、追いつかれたほうの負けだ。
最終的に、全部わたしの勝ちだった。
正直言うと、力の半分ほどしか出していなかった。
小学校に入学してからの体育の授業や、運動テストは、人に負けたことがない。
足の速さに関しては、男女問わず学年1位だ。
未来ちゃんもそれはわかっていて、それでも、負けたら悔しいのが子供だ。
未来ちゃんの提案で、最後はジャングルジムのてっぺんに最初に登ったほうが勝ち競争が開催された。
スタート地点は、ジャングルジムから1番離れた砂場。
よーいドンでスタートを切ったたわたし達は、ほぼ同時にジャングルジムに辿り着いた。
─── あれ・・・? わたしのほうが早いのに?
1段2段と、リズミカルにかけ登る。5段目に足を乗せ、頂上に手をかけたのは、ギリギリわたしだった。
「あともうちょっとだったのにぃ〜〜」悔しそうな未来ちゃんは息絶え絶えだ。
「やった〜」喜んで、自分も相当息が切れていることに気づいた。
── おかしいな、いつもこれくらいじゃあ何ともないのに。
「あ〜あ、やっぱ雪音ちゃんには勝てないなぁ・・・」未来ちゃんは向き直り、頂上の鉄パイプに腰掛けた。わたしも真似をする。
そして── 気づいた。
足に"いる"、何か。人間、あまりに驚くと声って出ないんだ。
「だれ?」その時のわたしは、意外と冷静だった。いや、わかっていなかったからか。
「ん?だれ?なにが?」
わたしは、わたしの左足にしがみついている子を指差した。「この子」
未来ちゃんはわたしの足を見て、首を傾げた。「この子?」
「うん、ほら、見て」
「え?誰もいないよ?何言ってるの?」
その時ふと、お母さんを思い出した。
"誰もいないじゃない。何言ってるの?"あの時と同じだ。お母さんと同じで、未来ちゃんにも見えていない。
それと同時に気づいた。——この子、あの時の子だ。膝丈の赤い着物に、大きな耳。近くで見ると、とても身体が小さい。
「ねえねえ、名前は?」わたしの問いかけに、反応はない。こちらも見ない。
「雪音ちゃん、誰と話してるの?」
その時のわたしには、素直に答えること以外出来なかった。「この子だよ」また指を差すが、未来ちゃんの反応は同じだ。
「変なの。誰もいないのに」
「いるよ。雪音の足にぶら下がってる」
さすがの未来ちゃんも怖くなったのか、顔が少し強張った。「・・・未来、帰るね」未来ちゃんがジャングルジムから降りようとする。
「あっ、待って!雪音も帰る!」わたしが足を動かすと、その子はわたしを掴む手にギュッと力を入れた。「離して!」引き剥がそうと手を伸ばした瞬間、その子はわたしを見た。目が赤く光る。そして次の瞬間、わたしの足からジャンプした。
「キャッ!!」叫んだのは、未来ちゃんだ。
その子は、未来ちゃんの背中に飛び移ったのだ。「えっ!なに!?」
未来ちゃんの首にぶら下がり、ケラケラ笑いながら、足をジタバタさせている。── 落とそうとしているんだ。
未来ちゃんは後ろの違和感を拭おうと、鉄パイプを掴んでいた両手を離した。
そこからは、スローモーションのように見えた。
背中から、落ちていく未来ちゃん。
わたしは手を伸ばし、未来ちゃんの手を掴もうとする。
手が触れそうになり、よし!掴・・・・・
鈍いと音と共に、響き渡る悲鳴。
握り締めたわたしの手には、何も無い。
しばらく、動けなかった。仰向けに横たわる未来ちゃんを、見下ろすわたし。
笑い声で、我に返った。その子は、未来ちゃんの頭の上から、わたしの反応を楽しむかのようにケラケラと笑っている。
一気に、怒りが込み上げてきた。ジャンプして飛び降りる。わたしが未来ちゃんに駆け寄ると、その子は走って林のほうへ逃げていった。
笑いながら。
追いかけようとしてグッと留まる。
未来ちゃん。
「未来ちゃん!大丈夫!?」未来ちゃんは後頭部を押さえながら、泣き叫んでいる。「頭が痛いの!?」ソッと頭に触れると、違和感を感じた。
「あ・・・あっ・・・」手の平が赤く染まる。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
─── 誰か・・・。
周りを見渡すが、誰もいない。
誰か、助けて。
このままじゃ、未来ちゃんが死んでしまう。
わたしは公園の入り口まで走った。誰でもいい、会った人に助けを求めれば──。
入口の柵を跳び箱のように飛び越え、歩道に飛び出した。そして、見つけた。1人、2人、3人。わたしは1番近くにいる人に駆け寄った。
「助けてください!!」
ネクタイをしてる、おじさんだった。
電話をしていた相手に、かけ直すと言って切る。
「どうしたの?」
「未来ちゃんが、ジャングルジムから落ちて・・・血が・・・」わたしの手の血を見て、おじさんは顔をしかめた。辺りを見渡す。「ジャングルジムって、この公園のことかな?」
うんうんと頷き、未来ちゃんの元へ案内する。おじさんはわたしのあとをついてきた。
遠目で未来ちゃんを確認したおじさんはわたしを追い越し、走った。わたしも必死で追いかける。
未来ちゃんの横に膝をつき、顔にソッと手を当てる。「大丈夫?頭打ったんだね。動いちゃ駄目だよ」
未来ちゃんはさっきより落ち着いていたけど、声を出さずに泣いている。
おじさんは上着のポケットから先程の携帯を取り出し、電話をかけた。
未来ちゃんの状態と、場所の説明をして終わらせる。
「キミはこの子の友達だよね?」
わたしは頷いた。おじさんにハンカチを渡され、初めて自分が泣いていることに気づいた。汗と共に涙を拭う。そのあと、血も。
「この子の家の電話番号はわかるかい?」
ぶんぶんと首を横に振る。
「そうか、じゃあ家は?」頷くと、おじさんは良かったと言い、また上着から何か取り出した。四角い紙をわたしに持たせる。「いいかい?今からこの子の家に行って、お母さんにこの事を言うんだ。そして、この紙に書いてある携帯番号に電話するように伝えてくれるかな」
わたしは頷き、すぐ走り出した。
幸い、未来ちゃんの家はすぐそこだ。死に物狂いで、向かう。
チャイムも鳴らさず、玄関のドアを開けて靴を脱ぎ捨て、リビングへ駆け込む。
未来ちゃんのお母さんは、ソファーでコーヒーカップを片手にテレビを見ていた。わたしの登場にギョッとする。
「わっ、ビックリした。雪音ちゃん?どうしたの?」
息が切れていて、うまく喋れない。そんなわたしを見て、ただ事ではないと察知した未来ちゃんのお母さんが、私の元に駆け寄る。
「ちょっと・・・泣いてるの?どうしたの!?」
「未来ちゃんが・・・」
未来ちゃんのお母さんは、わたしが持っているハンカチを見ると、みるみると顔が蒼くなった。私の腕をグッと掴む。
「未来に、何があったの?」
「ジャングルジムから落ちて・・・血が出て・・・」
「どこから血が出てるの?」
「あたま・・・」
未来ちゃんのお母さんの行動は早かった。テーブルから携帯を取り、そのまま玄関へと走る。
「あっ、待って!これっ・・・」おじさんから頼まれた紙を渡そうと追いかけるが、もう家を出ていた。わたしも後を追いかける。
玄関前の段差で1度派手に転んだが、痛みは感じなかった。すぐ立ち上がり、走った。
公園に着くと、入り口に救急車が停まっていた。未来ちゃんの周りを数名の救急隊員が囲んでいるのが見える。
わたしが近づくと、さっきのおじさんに肩を掴まれた。
「大丈夫だよ、今診てもらってるから。ここで待とう」
その様子を、未来ちゃんのお母さんが隊員の後ろから心配そうに見ている。
しばらくして、未来ちゃんはタンカーに乗せられた。頭には包帯が巻かれ、もう泣き止んでいる。ゆっくりと、救急車へ運ばれていった。
未来ちゃんのお母さんはおじさんの元へ来ると、何度も何度も頭を下げて、お礼を言っていた。
「雪音ちゃん、あなたはお家に帰りなさい。いいわね?」
わたしは、頷くしか出来なかった。
サイレントと共に去っていく救急車を、見えなくなるまで目で追いかけた。
頭に何かが触れ、見上げると、おじさんがわたしに微笑んでいた。「大丈夫だよ。おじさんの友達はね、子供の頃、もっといっぱい血が出たんだけど、ちゃんと元気になったから。キミの友達も元気になるよ」
その言葉を聞いて、凄く安心した。
「それより・・・」そう言うと、おじさんはわたしの手からハンカチを抜き取り、近くの水道へ向かう。戻ってくると、濡れたハンカチでわたしの手を拭いてくれた。そして、ある事に気づく。「膝から血が出てる。転んだのかい?」
「あっ・・・」必死で、忘れていた。傷を見て、今更痛みが湧いてくる。
おじさんはそのハンカチを傷のところに優しく巻いてくれた。「キミは勇敢な子だね。このまま帰りなさい」
言葉の意味はわからなかったけど、おじさんの優しい笑顔に、ちょっと泣きそうになった。「・・・ありがとう」
家に帰ってからお母さんに事情を話すと、すぐ未来ちゃんのお母さんに電話をかけてくれた。
しばらくして折り返しかかってきた電話によると、未来ちゃんは後頭部を数針縫ったが、入院はせず、翌日から通常通りの生活に戻れるとのことだった。
未来ちゃんのお母さんは電話の最後でわたしに代わり、お礼を言った。
雪音ちゃんのおかげで早く救急車を呼ぶことが出来たと。
でも、わたしはそれを素直に受け入れられなかった。むしろ、罪悪感でいっぱいだった。
あの子が、未来ちゃんを落とした。
あの子は、わたしにしか見えない。だからわたしのせいだ。そう思えてしょうがなかった。
その日の夜、仕事から帰ってきたばかりのお父さんに、お母さんは今日の事を"熱弁"していた。
まるで、わたしが未来ちゃんを助けたように。
雪音、凄いなぁと鼻高々しく頭を撫でられた時は、逃げ出したい気持ちになった。
この日、何度、口に出しかけただろう。
わたしが見たモノ。わたしにしか見えないモノ。それが、何をしたか──。
でも、やっぱり、わたしには言えなかった。
言ったところで、わかっている反応。
言ったことで、悪い事が起こってしまうかもしれないという恐怖。
わたしは、全てに蓋をした。
それでいい。それがいいんだ。そうするしか、ないんだ。
それから夏休みの間、未来ちゃんと会うことはなかった。
怪我をした翌日、わたしは未来ちゃんの家まで訪ねたが、今は寝ているからと面会を断られた。それは次の日も、その次の日も、ずっと続いた。
そんな"苦痛"の夏休みも終わりを告げ、久しぶりに学校へ登校する日。普段なら憂鬱に感じる休み明けも、わたしは楽しみでしょうがなかった。
やっと、未来ちゃんに会える。傷は治ったかな。病院で頭を縫った時、痛かった?家に帰ってから、何をしてたの?
聞きたいことが、いっぱいあった。
いつもより早く家を出たから、朝の教室は人もまばらだった。男子が数名、パンチやキックをしてふざけている。
それから10分程して、未来ちゃんはやってきた。
「未来ちゃん」目が合い、手をあげたが、すぐ逸らされた。
── ・・・ん?
未来ちゃんの席は斜め2つ前だ。席に着いた未来ちゃんの元へ向かう。「おはよう未来ちゃん」
「おはよう」未来ちゃんは教科書を机にしまいながら返事をするが、こちらを見ない。
「未来ちゃん、元気だった?怪我はもう大丈夫?」
未来ちゃんは何も応えず、やはり、こちらを見ない。明らかにいつもと違う様子なのがわかった。
わたしの頭にはクエスチョンマークが浮かんでいた。
「おはよー!」そこで、もう1人の仲良くしている友達、桃華(ももか)ちゃんが教室にやってきた。
「おはよー」言ったのは、未来ちゃんだ。
桃華ちゃんの席は入り口側の1番前で、未来ちゃんは足早に桃華ちゃんの元へ向かった。まるで、わたしから逃げるかのように。
徐々に、鼓動が早くなるのを感じた。
わたし、無視されてる?
──なんで?
思い浮かぶ、全てのことを考えた。わたし、未来ちゃんに何かした?
それはその日、ずっと続いた。
数人で話したり、教室を移動することはあったけど、未来ちゃんだけは、わたしを見なかった。まるで、わたしがそこに居ないかのように。
それでも、わたしはずっと未来ちゃんを目で追っていた。なんで?と心で問いかけながら。
そして、それは次の日も続いた。その次の日も──。
デジャヴを覚えた。それと共に納得した。
ああ、未来ちゃんはわたしに会いたくなかったんだ。毎日未来ちゃんの家に行っては、具合が悪い、今ちょうど寝たところだ。
その意味が、やっとわかった。
日に日にモヤモヤが募っていき、わたしの精神状態も不安定になっていく。
未来ちゃんに聞きたい。でも、聞くのがこわい気持ちもある。なにより、2人きりになるのを避けられてる為、そのタイミングがない。
そんな状況が続けば、一緒にいる子達も何かおかしいと気づくものだ。
「どおして未来ちゃんと雪音ちゃんは話さないの?」ある日の昼休み、それは唐突だった。
わたしが返答に困っていると、未来ちゃんが言った。「話してるよ」一言で終わった。
── ウソつき。
哀しみ、虚しさを通り越して、憤りを感じた。その憤りが、わたしを動かす。
わたしは未来ちゃんの手を掴み、教室を出た。
「ちょっ・・・離して!」力は、わたしのほうが強い。抵抗する未来ちゃんを、力尽くで引っ張っていく。「やだ・・・雪音ちゃん!」
未来ちゃんを掴む手が、少し緩んだ。名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。こんな状況でも、嬉しいと思う自分がいた。
そのまま女子トイレへと連れて行く。誰もいないのを確認して、手を離した。
「なんで無視するの?」逃げられる前に先手を打った。
「・・・してないよ」未来ちゃんは下を向いたまま目を合わせない。
「してるよ。ずっと」
「っ・・・してない!」
「してる。じゃあ、なんで雪音のこと見ない の」
未来ちゃんは目を泳がせ、言葉を詰まらせた。「・・・雪音ちゃんが・・・」やっと聞き取れる、小さな声だった。
「雪音がなに?」
「雪音ちゃんが、未来のこと引っ張ったから!」
「・・・え?」言葉の意味を、理解できなかった。「未来ちゃんを引っ張った?」
「引っ張ったじゃん!あの時・・・公園で」
"あの時"の場面が、頭に浮かぶ。あの子が未来ちゃんの首にぶら下がり、一緒に落ちていく姿を──。
「違うよ・・・雪音はそんなことしてない!」
「じゃあ誰がやったの!?」ここで未来ちゃんがわたしを見る。「あの時、誰もいなかったじゃん。未来、引っ張られたもん!」
言葉が、出なかった。
──そういうことか。未来ちゃんはあの時、わたしのせいで落ちたと思ってるんだ。わたしがやったと。
「違う・・・雪音じゃない・・・」
「うそつき!」
「うそじゃないよ!だって、だって雪音、上に 居たんだよ!未来ちゃん助けようとしたんだよ!」
思い当たる節があるのか、未来ちゃんは少し考え込んだ。「でも、引っ張られたもん」
「あれは・・・」なんて言えばいい?未来ちゃんには見えない子がそこには居て、その子がやったと?それを口に出せるほど、わたしは"バカ"じゃない。「ほんとに、違うの・・・雪音じゃないんだよ・・・」
未来ちゃんは、キッとわたしを睨んだ。涙目になりながら。「もう知らない!雪音ちゃんなんかきらい!」ドアが勢いよく開き、気づけばわたしは1人、トイレに佇んでいた。
シーンとする中、徐々に絶望感が襲ってくる。
わたしは、どうすればいいんだろう。どうすれば、未来ちゃんと仲直り出来る?
誰か、教えて──。
それから、その日は何も手につかなかった。
授業も、友達との会話も、何もかも耳に入ってこなかった。
頭の中で繰り返されるのは、雪音ちゃんなんかきらいという言葉。
明日になったら全部、無かったことになってればいいのに。本気でそう思った。
でも、そんなことがあるはずはなく、本当に最悪なのは、それからだった──。
次の日、学校に行ってからすぐに気づいた違和感。
未来ちゃん以外の子も、わたしと目を合わせない。近くに寄ると、一瞬ピリッとする空気。そして、わたしの存在を無視して話し出す。
ああ、そういうことか。その時のわたしは、何処か冷静だった。そうなるかもという予感があったのかもしれない。
そしてその日の放課後、わたしは職員室に呼び出された。経験上、担任に個人で呼び出されるのは、あまり良い事ではない。
前に見たのは、クラスの男の子が裏庭の窓をサッカーボールで割った時だっけ。
ノックをして職員室のドアを開けると、担任がこちらに気づき、手招きをする。
わたしは少し緊張しながら窓際にいる先生の席へ向かった。
先生は後ろで1つに結んでいる長い髪を手で梳かすと、わたしに言った。「雪音ちゃん、ちょっとお話があるんだけど」
「はい」
少し躊躇い、「あのね、夏休み中、未来ちゃんが公園で怪我したよね?その時、雪音ちゃんも一緒にいたんだよね」
心臓がドキリと跳ねる。返事はせずに頷いた。
「うん、それでね・・・その時未来ちゃんが怪我をしたのは、雪音ちゃんが、未来ちゃんを引っ張ったからだっていう話を聞いたの」先生の声は優しく、慎重に言葉を選んでいるのがわかった。
「引っ張ってません」冷静に言ったが、内心は自分の声が聞こえにくいほど、心臓が鳴っていた。未来ちゃんが言ったの・・・?
「うん、そっか。でもね、未来ちゃんがそう言っているのを聞いた子がいるのよ」
それを聞いて、少し安心した。未来ちゃんが言ったんじゃないんだ。
たぶん、昨日のトイレでの会話を誰かが聞いていたのかもしれない。
「雪音"は"、引っ張ってません」事実を言ってるのに、なぜか罪悪感が拭えない。
「未来ちゃんにも確認したらね、そうだって言ってた」顔を上げれず、わたしの反応は肯定しているようなものだ。
「・・・違います」
先生がわたしの手に触れた。両手で優しく包み込む。「雪音ちゃん、そのあと近くの人に助けを求めたんでしょ。凄く立派なことよ。でもね、本当のことを言わないのは、立派とはいえないんじゃないかな?」
再び押し寄せてくる、絶望感。
本当のことって何?何が本当で、何が本当じゃないの。頭がグルグルする。吐き気がする。
わたしは、何?
─── 悪いのは、わたし?
足が、勝手に動いていた。
お母さん。お母さん。助けて。
どうやって、家まで辿り着いたのか覚えていない。どの道を通って、誰と会って、何を思いながらここまで来たのか。
お母さんは、キッチンに立っていた。
その後ろ姿を見て、涙が溢れた。
助けて── 「お母さん・・・」
振り返ったお母さんは、すぐに異変に気づいた。「雪音?」わたしの元に駆け寄り、膝をつく。「どうしたの?」
涙なのか汗なのか、お母さんはわたしの顔をエプロンで拭いた。「どうしたの?何かあった?」
「お母さん・・・雪音、何もしてないよ」
「・・・どういうこと?なんのこと言ってるの?」
涙が止まらなかった。全ての感情が涙と共に溢れ出た。お母さんはわたしを抱きしめ、よしよしと頭を撫でた。お母さんの匂いに包まれ、気持ちが安らいでいく。
わたしが泣き止むのを待って、お母さんが言った。「雪音、何があったの?」
全部、言ってしまおうと思った。わたしが知る真実を。お母さんなら信じてくれる。
お母さんはわたしの返答を、辛抱強く待っている。
「おか・・・」言いかけた時、家の電話が鳴った。
「ちょっと待ってなさい」わたしの頭にポンと手を置き、電話を受ける。
「あ、いつも雪音がお世話になっております」その言葉を聞いて、すぐに誰かわかった。先生との電話で、お母さんが必ず言う言葉だ。
はい、はいと頷き、お母さんは静かに受話器を置いた。「今から、先生が来るって」
走って逃げてきた。わかってる。家に来た先生は、さっきと同じことをお母さんに言うんでしょ。
お母さんに駆け寄り、エプロンをギュッと掴んだ。「お母さん、雪音ね、雪音ね・・・」
お母さんは次にくる言葉を待ってる。
どう伝えればいいのか、何から言えばいいのか、わからない。だから、本能に従った。
「幽霊が見えるの」
お母さんの反応は想定内だった。「幽霊?何が?なんのこと?」
「本当だよ!未来ちゃんには見えなくて、その子が未来ちゃんを引っ張って、怪我させたんだよ!」
お母さんはキョトンとしている。「ちょっと待って雪音、何言ってるかわからないんだけど。その子?」
「耳が生えた子!前に公園で見た子と同じだった!」
お母さんは眉間に皺を寄せ、わたしを凝視した。「お母さんには見えなかったでしょ!?未来ちゃんにも見えないの。雪音にしか見えないんだよ!」
冷たい手が、額に触れる。「熱・・・ないわね」
「お母さん本当だよ!未来ちゃんの首にこうぶら下がって」ジェスチャーであの子の動きを真似る。「雪音は助けようとしたんだけど、未来ちゃんはそのまま落ちちゃって」
「ストップストップ!」大きな声に、ビクッと肩が動いた。「雪音、さっきから何言ってるの?お母さん、全然わからない」
「だから、未来ちゃんが怪我したのは雪音のせいじゃないんだよ!でも、未来ちゃんはそう思ってて・・・」
お母さんの顔が険しくなる。「先生が電話で話があるって言ってたけど、そのこと?」
「・・・たぶん」
お母さんはわたしに目線を合わせた。「未来ちゃんが言ってるの?雪音が怪我をさせたって?」
正確には、ちょっと違うが──「雪音が引っ張ったって思ってる」
お母さんはふうと息を吐きながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
沈黙が怖かった。お母さんは、どう思ってるの?
「お母さんも、雪音のせいだと思ってる?」
お母さんは強い眼差しでわたしを見た。「そんなわけないでしょ。雪音がそんなことしないのはわかってる。ただ・・・なんで未来ちゃんはそんなこと言ったのかしら」
──だから、何回も言ってるのに。お母さんは、わたしが言ったことを無かったことにしてる。「あの子が見えないから・・・」
「あの子?」
「・・・雪音、さっきから言ってるよ。未来ちゃんには見えない子がいて、その子が未来ちゃんを落としたの」
お母さんは深いため息をつくと、両手で顔を覆った。勘弁してくれというように。
何も言わないのは、どういうことか。
「信じてないんだ」
「・・・なにを?」お母さんの顔は呆れている。
「お母さんは信じてくれると思ったのに」
「雪音、これ以上混乱させないでちょうだい。頭がおかしくなりそう」
それ以上、何も言わなかった。
哀しさも怒りも感じない。ただ、無だった。全てが、無に感じた。
その後やって来た担任と母親の話も、わたしは無言のまま聞いていた。内容は職員室でわたしに言った事と同じ。デリケートな問題、子供達の精神状態、今後の対応、呪文のように聞こえる言葉を、わたしはただ黙って聞いていた。
そして、否定もしなかった。何を言ったところで、無駄だ。どうせ、誰も信じない。だったら、何も言わないほうがいい。
その日の夜、仕事から遅く帰ってきたお父さんとお母さんは喧嘩をしていた。
なかなか眠れず、布団の中で起きていたわたしは音を立てないように階段を下りた。
「だっておかしいじゃない。耳の生えた子が未来ちゃんを怪我させたなんて言うのよ?」
「子供が言う事だろう。それを間に受けてどうする」
「あなたはあの場に居なかったからわからないけど、あの子の顔は本気だった。本気で言ってたのよ」
「だからといって病院か?話にならない」
「それに・・・考えてみたら、今までもあったのよ」
「あった?なにが?」
「2歳くらいの時、公園で誰もいない所に向かって手を振ってたり、指差して笑ったり・・・それだけじゃない、今まで何回もそういうことがあったわ」
「だから、子供のすることだろう」
「あなたは見てないからわからないのよ!」
「またそれか・・・」
「あれは、そういう"レベル"じゃなかった・・・」
「とにかく、向こうの親御さんも子供同士の事だからって言ってくれたわけだし。この話はもうやめよう」
リビングのドア越しに、わたしは持っていたウサギの抱き枕をギュッと抱きしめた。
雪音のせいで、お父さんとお母さんが喧嘩してる。
── ごめんなさい。
翌日、お母さんはいつも通りだった。毎朝の変わらないやり取りに、ホッとした。
お母さんは、あの事に一切触れない。だから、わたしもそうした。
学校では相変わらず未来ちゃんに無視される日々。話をしてくれる子はいたけど、心の中にぽっかりと空いた穴が埋まることはなかった。
そのまま数週間が過ぎ、このまま時間と共に嫌な記憶も全て薄れていくんだろうと思った。
──また、あの子に会うまでは。
わたしの足は、勝手に向かっていた。
あの日、未来ちゃんといたジャングルジム。あの子は、そこにいた。あの日のわたし達のように、1番上に座っている。
ジャングルジムに衝突する寸前で足を止めた。キッと見上げるが、こっちを見ない。
「なんで、あんなことしたの」わたしの問いかけには応じず、遠くを見ながら足をぶらつかせている。「ねえ、聞いてるの?答えて!」
反応は、ない。わたしは鉄パイプに手を掛け、1段、2段とかけ上がった。そして5段目を掴んだところで、その子がジャンプして飛び降りた。わたしもほぼ同じタイミングで飛び降りる。
逃げようとしている。──逃さない。
着地と同時にその子の手首を掴んだ。ここで、わたしを見た。大きな目が赤く染まる。わたしは、ひるまなかった。掴んでいる手に力を込め、自分に引き寄せた。
「なんで、あんなことしたの。なんで・・・なんで、雪音にしか見えないの!」この手の感触は、幻ではない。確かに、ここにいる。
「キャキャキャッ」耳をつんざくような笑い声だった。開いた口から鋭いキバを覗かせる。一瞬ぎょっとしたが、手は離さない。
するとその子は、掴んでないほうの手をわたしに向けた。指を曲げ、引っ掻くような手振りをする。挑発するように。
「雪音、こわくないよ」と言ったものの、それはすぐ嘘になった。
みるみる爪が伸びていく。掴んでいた手が少し緩んだ。手こそ小さいが、その爪は鋭く、あっという間に10センチ程の長さになった。
鼓動が早まり、身体が勝手に後退る。そして、その手を振りかぶり、攻撃体制に入った。
「キャーキャキャッ」わたしの手を目掛けて振り下ろされるその爪が、肌に当たるギリギリのところで手を離した。
思わず、自分の手を確認した。血は出ていない。解放されたその子は、高笑いと共にその場から逃げ出した。
「あっ!待っ・・・」追いかけようとしたけど、足が動かない。あの爪で攻撃されたらと思うと、恐怖で足が竦んだ。
「雪音」
聞き慣れた声に、ハッとした。
─── まずい。
さっきとは非にならないくらい、心臓がバクバクと音を上げる。
ゆっくりと振り返った。お母さんはその場に立ち、両手で顔を覆っている。
「お母さん・・・」
何てバカなんだ。勝手に身体が動いていたとはいえ、このタイミングで ──。
そうだ。わたしは、お母さんと買い物に行った帰りだったんだ。
一連のやり取りを、お母さんは全部見ていた。
わたしが見えない何かに話しかけ、存在しない何かを掴み、声を荒立てるその姿を。
今のわたしに、何が言える?何を言っても信じてもらえないわたしが、何を?
お母さんは、しばらくその場に立ち尽くしていた。顔を覆い、表情が見えず、泣いているのかと思った。
わたしは待った。お母さんが何か言ってくれるまで。でも、お母さんは何も言わなかった。落とした買い物袋をゆっくりと拾い上げ、「帰りましょう」その一言だった。
わたしはお母さんの後ろを離れて歩いた。
なんとなく、側に行ってはいけない気がしたんだ。お母さんは1度も振り返らない。
あの子を掴んでいた自分の手を見た。
あの時、離さなければ、怪我をすれば、そしたら、お母さんも信じてくれたかな。
その日、家に帰ってからのお母さんは明らかに様子が変だった。一点を見つめ、ボーッとしていることが多く、時々大きなため息をついていた。
日常的な会話はするが、わたしを見ようとしない。目を合わせるのを避けているように感じた。いつもと変わらない空間なのに、息が詰まりそうだった。
それから数日して、お母さんはわたしを病院に連れて行った。それが、"初めて"の病院だった。これまで、風邪を引いて病院に行くことは何度かあったけど、その病院は熱があったり、怪我をしている人はいない。
聴診器を当てられるわけでもなく、喉を見られるわけでもない。先生に聞かれた事に答え、言われた事をする。読み書きに始まり、身体能力、判断能力、あらゆる事を"テスト"された。
当時のわたしにはそれがどういう事かなんてわかるわけもなく、楽しいとすら感じていた。
その後、先生がお母さんに何を話したかは知らない。わたしは別室で待たされていたから。
帰りにお母さんから聞いた話では、先生はわたしを褒めていたとか。同年代の子に比べて、とても優れていると。
でも、お母さんはあまり嬉しそうじゃなかった。精神に異常はないとわかり、他の病気を疑ったからだ。娘は幻覚が見えている。だから、脳の病気だと思った。
次は、大きな病院で検査を受けた。その時はわたしも同席していたから先生の言葉を覚えている。
脳には特に異常はないですね。それを聞いたお母さんは良かったと安堵していたけれど、その表情はどこか暗かった。
帰宅し、検査を頑張ったご褒美にと買ってくれたケーキをお母さんと食べながら、わたしは聞いた。
「お母さん、雪音のこと嫌い?」
お母さんは目を見開き、全然進んでいないケーキの隣にフォークを置いた。
「なんでそんな事聞くの?」
「雪音が変だから」
お母さんはわたしの手をギュッと握った。「雪音は変じゃない。嫌いなわけないでしょう」こんなにお母さんにまっすぐ見られたのは久しぶりな気がした。「そんなふうに、思ってたの?」声が震えている。
お母さんは椅子から立ちあがり、わたしの元へ来ると、その腕でわたしを包み込んだ。
「お母さんが雪音を嫌いになることなんて絶対ない。何があっても・・・わかった?」
お母さんの胸にもたれかかりながら、決めた事がある。この先、何を見ても── 何が起こっても── 全部、知らないフリをするんだ。
「うん」