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わたしは、どこに消えたのか?

私は、この私として、長いこと生きていますが、若い頃「自分がいない」ことに気づけずに生きていた時期がありました。

自分は、この世界に、存在するのに「いない」。


どういうことかと言うと、

私は自分を消して「相手に合わせる」ということが、やたらと上手な子供でした。


誰に強制されたわけでもなく、親に「そのようであれ」と育てられたわけでもない。
「女性はうまく察して、気配りをせよ」とか「空気を読んで場を調整せよ」とか、当時の文化や風潮の「エキス」が、知らずと私のカラダの中に沁み込んだ結果、そうなったのかどうかも、よくわからない。


気づいたら、通知表の「協調性がある」に〇が付かないことなど、「絶対にあってはならない」と考えるような子供になっていました。

「わがままはいけない」「自己中心的な考えはいけない」と、心に刻んで大人になりました。


そんなわたしは、

「自分はこうしたい!」という意志よりも、「あなたはこうして欲しいんでしょう?(わかりますよ) だから私はそうしますよ(そうしてあげますよ)

対応する相手によって、アメーバのように、ぐにゃぐにゃと自在にカタチを変え、「その場」に適応し続けるようになった。


私にとって、それが「この世を渡ってゆくうまいやり方」だと、どこかでそう思い込んだのかもしれない。

相手に主導権を握らせ、相手に「責任」をとらせる。

知らずと、そういう戦略をとるクセがついた。


「わたし」が消えた代わりに、「相手に合わせるわたし」が浮かび上がる。そのカタチは、相手によって変わるので、わたしは「わたし」という確固たる存在が、うまく認識できなくなっていた。


異性とつきあっていても、「相手がどうしたいか」を常に考えて行動するのが習い性。相手が嫌がることは避け、「ここに行きたい!」「あれが食べたい!」「これが欲しい!」は、うまく伝えることができない。

女友達が、彼氏に対して「こうしてもらった・ああしてもらった」という話を聞く度に、「そんなわがまま、言っていいの?」と首を傾げ、「私はそんな自己チューな女にはならないわ!」などと、内心で女友達を軽蔑したりした。
本当は、羨ましかったのですよね。


そんなおかげで(?)人との関係性において、幸いひどい目に遭ったことはない。
しかし、「私という人間」を、ちゃんと表明せぬまま、さよならした人もいた。せっかく縁あって、人として触れ合ったのに、私は私を伝えてこなかった。「よくわからない人だったな」と思った人もいただろう。

私は、こわかった。

自分という人間を、この世界にさらすのが。


私の意見を、私の言葉を、私の考えを、人に否定されたり、おかしな人だと思われたり、嫌われでもしたら、私は生きていけないと思った。

私が「本当に」思っていることを人に伝えたら、人は私から離れてゆくだろう。自分の中にある、辛辣で冷徹な考え、腹黒さ、意地悪さ、傲慢さ。人前では見せるわけにはいかないそれらを、うまく隠したつもりで、とりすまして生きてきた。

笑顔の裏で、「人間なんか面倒くせーんだよ」と心を閉ざし、「言葉で自分を説明すること」を、長く避けて生きてきた。
黙って私と対話してくれる読書だけが、私の友であった。


私が自分に危機感を感じたのは、「自分が食べたいものさえ、よく分からない」ということに気づいたときだったように思う。

誰かの「食べたいもの」「行きたい場所」を優先するあまりに、自分が本当に食べたいもの・行きたい場所が、まったく思い浮かばなくなっていることに、ある日唐突に気づいた。

私のこころが、泣き叫んで、訴えたのだろうか?

「わたしは、ここに、いるよ」と。

「気づけ、ボケ」と。


食べたいモノに限らず、私は自分の意見を、人に適切に表明することもできなかった。

「私はこれについて、こう思うけれども、あなたはどうか?」という対話を、うまくできぬまま、長く社会人生活をおくった。

へらへらとその場のノリに合わせて、適当に笑顔を作って、その場を切り抜けることに長けていた。


まずい。


わたしには、主体性がない。


まずいってことだけは、はっきりわかる。


そう気づいたのは、まさかの30歳を超えてからである。

私は、無色になってしまった自分に、まず色を付けなければならなかった。
赤を塗ればいいのか、青を塗ればいいのか、よくわからない。

いったい、何を、どうしたら、いいんじゃ!!


そうして、訳も分からず、もがくうちに気づいた。

わたしは、すでに「色」をもっているということに。

私がおもしろいと思うこと、私がくだらないと思うこと。
私が尊敬する人、私が軽蔑する人。
私が理不尽だと思うこと、私が許せないこと、おかしいと思うこと。
私がどうありたくて、どうありたくないのか。
私が、私が、私が。

私が思うこと・感じることが、どれほど辛辣で非情で、非常識であろうとも、そう心から感じる自分の想いを、自らが「ダメだ」と否定してどうする。

私の意見・考え・人間性のすべては、ぎゅうぎゅうに圧縮されていたが、心の中に、ちゃんと存在していた。

潰されて、なかったことにされていた「私」に、空気を入れて、外に飛ばしてやろう。

外への飛ばし方、つまり「人にどう伝えるか、どこまで伝えるか」は、単なるスキルに過ぎないのだから、「私という人間」をへんに捻じ曲げることなく、私が言いたいことを、どこまでどう伝えるか。

それを、今からでも、少しずつ学んで行ったらよいではないか。
そう思えたら、ずいぶん楽になれた。

なるほど、「自分になる」「ありのまま」とはそういうことか。

私はずっと、自分ではない「何者か」になろうとしていた。

今の自分は、「ダメな存在・足りないモノだらけ」だから、「自分ではない、何者かになるしかない」と思い込んでいたのだった。


そんなことに気づいたのは、40歳を超えてから。

ああ、若い頃に、知りたかった!!
……と思うから、こうして記事にしてみましたが、うまく伝わったらいいなぁ。

お読みいただき、ありがとう。
この記事を読んだあなたは、どうか「あなた」でいてくださいね。


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