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じぶんの声で、小さな声のまま発信する美学

日常会話の技術が自分には全く身についていない、と感じる。
考えずに自然に話す、ということができないのだ。

例えば、日常のおはよう。とかさようなら。にも「これってどういう意味だろう?相手はどういう意図があって言ったのだろう?」と黙って考え込んでしまうような違和。

はやくレスポンスが求められ、有益な情報の交換が求められる社会では、こんなところに違和感を持ち込む人間など、めんどくさくてしょうがないだろう。わたしだって、めんどくさい。

ヘンな人に思われたくないという気持ちが働くから、余計ヘンになる。

結果、何も語れず、自分の言葉を無視するようになってありきたりのことしか言えなくなってしまう。。
そうして話すことが苦手になる。負のループ。

大人になった今でも、私は声が小さいまま。発声を習ったこともあったけど、声を大きくするということにすごくすごく抵抗があった
結果、舞台役者の道より自分の声をとった。
サービス業や接客業となると、声が大きくて(少なくとも小さくなくて)明るい人が好まれる。

わたしだって、人に幸せを与えられる存在になりたいのに。。
暗いままじゃ、小さい声のままじゃ、それは実現できないのか。。
人とコミュニケーションをとることも、かなわないのか。。

ひとりでいる時間が長いと、わたしは何がすきなのか?とよく考えるようになるけど、人形劇団 シュールクリーム一座のコンセプトとして挙げている「ちょっぴりいびつで不器用」とか「小さくて弱い(メディア)」ということに、美しさ、価値を感じているんだなあということがわかってくる。
もしくはそう言い切ること、その上での表現か。

それも、自分の内側と向き合い外に発信するインターネットというツールがあったからこそ知れたことだ。

「これは美しい」と言うことは、自分が主観的に美しいと思うその対象を客観的に説明する行為だ。
哲学とか美学は、お金持ちの暇人や心を病んだ人が考えるもので何の役にもたたない、と言われることも多い。

私はお金持ちでもないし心を病んでいるわけでもない(と思っている)けど、自分なりの美をとらえることは価値があることだと信じている。
大学で美学を学んだせいで就職できないオカシナ人間になってしまった、もうおわりだ、とは思いたくない。

ちょっぴりいびつで不器用」、「小さくて弱い」は、いわゆる西洋近代的な狭義の美(調和、完璧な自律性をもった美)から少しずれた美的なものとして捉えられるだろう。(津上英輔『危険な「美学」』p.133ほか 美的カテゴリー論参照)

美的カテゴリーにあてはめると、これらの感じ方は「かわいい」とか「滑稽」、あるいは「」といった美的なものにあてはめられそうだ。
(中心からの欠如がみられる美)

日本人は特に、調和を少し逸脱したところ、ずれゆえに共感を呼ぶものを美しいと感じる感性をもっているかもしれない。

いまや美的なものとして捉えられている「かわいい」も、もとは顔映ゆし=直面すると赤面する、かわいそうという意味だった
(実用日本語表現辞典ほか参照)

。。。そう考えると、いまマイナスのイメージで捉えられがちなことだって(内向的とか、声が小さいとか、ニートとか、ひきこもりとか、不器用とかいろいろ)時代の変化によってプラスの価値をもつ美しいものとして捉えられるかもしれないわけだ。
まだ、時代がそれを美的価値をもつ言葉として表現できていないだけで。。
(言い回しを変えることで受け入れられやすいかたちに変換する、というのは現にある。滑稽、や醜、が美的なものとして浸透しているのかは実感に乏しい。。)

芸術は世界を示し、現実を再構築する。
ひとりひとりが自分らしさを肯定して、世界と人の生き方を示すことができたなら、それは現実を超える美しい力になるはずだ。
そして人はみんな、その力を持っているはず。

醜いと思われても。
怠け者でかっこわるい人間だけど。

人形劇団シュールクリーム一座で新しい言葉を作れたらと思ったりする。


-BGM-Official髭団dism 「Laughter」より-

人格者ではなく 成功者でもなく
いつでも今を誇れる人でありたい
そんな希望抱き 未来図を描き
手放さず生きていたいだけ





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