小説執筆におけるスタイルの話
前置き
小説書きが趣味です。カブです。
経緯は省きますが、解離症状を持っています。(詳細は以下の記事に譲ります)
今回はリンク先記事の続き、友人との会話で新たに得た気付きの備忘録となります。
憑依型と観測型
今回の記事の発端は、友人の小説を読ませてもらったことでした。
その小説は二次創作の一人称視点。私には逆立ちしても書けない類のものだったのですが、友人の描写はあまりにも滑らかで自然。まさにキャラクターそのものの思考だと思わせるものでした。
感想を伝えると同時に、「どうしてここまでキャラクターの思考回路を把握できるのか?」と尋ねました。
答えは、「人間の思考回路を把握するのが癖になっている」というもの。つまり、キャラクターの思考になりきって、いわば憑依させて書いているということでした。
私にとって友人の執筆スタイルはあまりにも衝撃的なものだったのですが、会話を続けるうちに、私のスタイルと友人のスタイルはベクトルが違うだけでかなり近しいものであることが分かりました。
友人はキャラクターを憑依させることで思考回路を把握する極端な主観。
私はその世界でこのキャラクターはどう動くのかを観察する極端な客観。
最も分かりやすい差異は、感情移入をするかしないか、でした。
友人は性別も関係なく、あらゆる登場人物の立場から感情移入ができるそうです。一方、私は感情移入ができません。そもそも感情移入がどのようなものなのかを理解していない可能性もあります。
憑依型(極端な主観)と観測型(極端な客観)、どちらもかなり特異な書き方であると思います。
主観が得意、客観が苦手。一人称は難しい、三人称が好き。主観と客観のどちらが得意なのか、という傾向はあるでしょうが、「どちらか一方しかできない」ほど極端に得手不得手がはっきりしているパターンは少数派であると想像します。
観測型がもたらすメリット
私の小説は「淡々としている」と言われることがよくあります。これまではその理由を考えることはなかったのですが、上記の考察から推測すると、感情移入をしないことが理由としてありそうです。
解離症状が起こるようになった原因の影響で、自分の感覚や感情から切り離されていた時期が人生の九割以上を占めているため、私は今でも自分の思考や感情を把握できません。
思考を把握するにはこの記事のように、テキストに起こして読み解くことが必要です。当然、キャラクターの思考が把握できるはずもないし、描写に感情が乗ることもありません。そのため、どのような展開になっても淡々とした描写を続けられるという特徴を獲得したのではないでしょうか。
実際に、地方賞をもらった小説でも「グロテスクな展開を淡々と描写しているために、自然と読み続けることができる」と評価されたことがありました。
観測型のデメリット
ひたすらに書き続けてきたため、一人称で書くことはできます。その代わり、書き終えた後は体調を崩すほどの激しい疲労に見舞われるのが常でした。視点人物が感情豊かであればあるほど、疲労は大きくなります。
これも自分自身の思考や感情ですら把握できていないことが大きな原因を占めていると想像します。
私にとって感情とは、創作物の中からパターン化して学んだものです。
この性格の人はこのようにされたから悲しむ。あるいは怒る。またあるいは喜ぶ。
一人称小説は、視点人物の感情表現が華です。なまじそこを理解しているからこそ、ひたすらに難解な公式を解き続けるようなエネルギー消費が必要になるのではないでしょうか。
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