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老人の、わからないことを攻撃する愚かさ

わからないことを攻撃する愚かさ


数十年も昔の話である。
sonyがウオークマンを出した。
だれでも知っている、ポータブル音楽プレイヤーである。
そのウオークマンは売れに売れた。
他の電気メーカーも色々なポータブル音楽プレイヤーを商品化して、
sonyより安く売り出したが、まったく売れなかった。
その頃、ウオークマンを持っている人は、他の製品を良く言わなかった。
ウオークマンを贔屓する発言ばかりだった。

iphoneとandoroidはどちらも優れたスマートフォン

今の日本で一番売れているスマートフォンはiphoneである。
だからiphoneを持っている人は、アンドロイドスマフォのことを良く言わない。
一方的にアンドロイドのスマフォは、iphoneより性能的に劣っていると言っている。
では、そういう否定的な人がアンドロイドのスマフォを使いこなしているかといえば違う。
まったくアンドロイドOSのことを理解していなくても貶めようとするのである。
専門の雑誌を読めば、iphoneとアンドロイドの性能に違いはないはずだ。
それでも、iphone派は自信を持って、iphoneが一番だという。
これは一体なんだろうか。

国同士の関係で考えてみたい

大抵の日本人は、中国という国が嫌いである。
そして反対に、アメリカ合衆国が好きである。
モスクワは嫌いだが、パリは大人気である。
大人になるまで、人は色々な情報に囲まれて育っていく。
だからパリは素敵で、モスクワは危険な年イメージが出来上がる。
こういう思い込みは一体どうして出来上がるのだろう。
そして、一旦思い込んだ事を客観的にみることが難しい。
戦前の日本人は、アメリカのことを鬼畜と称した。
『鬼畜米英」のスローガンとして全国に流布したからだ。
スローガンだけではない、「鬼畜米英」の使う英語も敵性言語として使えなくなった。
ところが、今の日本では、アメリカ文化が日本の津々浦々まで浸透している。
これは、戦前と現代日本の何が違うのか。
結論を言えば、流入してくる情報力である。
戦前の日本では英語自体を理解する人が少なかっただけではなく、米英の情報も新聞や書籍に頼るしかなかった。
だが、現代はどうだろうか、現代はアメリカやイギリスなど外国の情報も自由に見ることができる。
大リーグで活躍している二刀流大谷選手の情報も、リアルタイムで入ってくる。
積極的に情報を得る気さえあれば、情報はかなりの量を得ることができる。
今の時代、「鬼畜米英」とは誰も口にしない。
もし公然に言ったら、笑われるだろう。

情報量は何が決めるのか

世の中は、同じだけの情報量が流れていても、人は自ら情報の選別をしている。
たくさんの情報を受け入れても、処理できる能力は違うからだ。
好きなものや好ましいと思うものの情報量は多くなる。
反対に、嫌悪を感じたり、関心が低いと、入ってくる情報量は少なくなる。
これは、誰でもこうした傾向にある。
では、問題は何か。
情報の多い少ないで、分かることと分からないことに気持ちが分かれる。
スマフォの話に戻ろう。
iphoneを持っている人は、iphoneのことを理解しているけれど、
アンドロイドのスマフォのことは分からないのである。
その時、分からないアンドロイドに対して嫌な感情が芽生えることである。

分からないことに対して人は疑い深くなる

移民などで居住している外国人に違和感を持つ人は多い。
しかし、外国語で話をしている外国人に対して、その分からない言語が人を不安にさせるのも事実だ。
そして、その分からないことに対する不安感から、人は攻撃的になりやすい。
分からないことの「あいまいさ」が、攻撃的な意見を生み出す。
Yahooのニュースに対するコメントを読んだ人は多い。
yahooの記事に対する、意見は、あえて意見が対決するようにできている。
大げさに言えば、反対意見を扇動しているように見える。
意見というのは、反対意見が出てくるのが良い、そういう受け取り方があるようだ。
しかし、一方的に相手の反対意見を誹謗したり嘲笑したり愚弄したりするのも、意見なのだろうか。
反対意見というより、分からないことに対する理不尽な怒りだけを感じないわけにはいかない。

論理的に話をする人は少ない

大抵の人は、論理的に話をすることはない。
たいていは、感情論である。
もし、日本人が理路整然と会話ができるなら、パワハラなどは存在しないはずだ。
パワハラをする人は、相手の意見に耳を傾けることは最初から頭にない。
あるのは、思い込みだけだ。
そして、自分で理解できないことや知らないことを忌み嫌う。
要するに自分の領域以外の事象に対して排他的な態度を取るのだ。
残念だが、話し合いのルールを理解している人は稀だ。
これも、分からないことを素直に認める気持ちの欠如からくる。
分からないことを、素直に認めることは、歳を取れば取るほど難しくなる。
人は刷り込まれて大人になるからだ。

分からないことを素直に認めよう

分からないことを素直に認めることは、難しい。
ちょっとした勇気もいる。
人は大人になったら、完成していると思いがちだ。
しかし、大人になっても学ぶことは多い。
いや、大人になったら、大人のことを学ばなければならないのだ。
老後も同じ。
老人になったら、老人のことを学ばなくてはならないのだ。
分かっているふりをして、相手を誹謗する前に、自身が学び直すべきだ。

いつも学び続けている人は耳を傾けている

情報はどんどん変わる。
固定した情報はない。
分かっていたと思っても、その情報は刻々と変わっていく。
だから、物事を断定することは、新しい情報を遮断していることと同じ。
どんどん変化していく情報には、自分自身も変化していく努力をするべきだ。
皮膚は、作り変えられている。
皮膚だけではない、体全体が全部作り変えられて人は新しくなる。
心も同じようにどんどん変化をしていく。
その変化は、すべて生きるために必要だからだ。
変化しない身体はミイラと同じだ。
だから、心もまたどんどんいろいろな情報を取り込んで、
古い情報を更新しなくてはならない。

旗じいの話を最後まで聞いてくれてありがとう。
最近の世の中は、自分のわからないことを頭ごなしに攻撃をする老人が多い。
テレビのコメンテーターも、怒りのコメントを売りにしている人もいる。
怒りは売り物ではない、怒りは人に伝染する。
分からないことが怒りを生む。
年取って、愚かになるのは、怒りが原因だ。
世の中の正しい情報を、進んで学ぶ柔らかい気持ちを持ちたいものだ。

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