神の性

芥川龍之介「秋」の俊吉・照子夫妻の会話

芥川龍之介の「秋」は、1920(大正9)年に発表された短編小説で、芥川の歴史に取材した創作スタイルからの転換を試みた(そして失敗した)作品と言われている。文学少女の信子は、親しくしていた同じく文学を志す従兄俊吉とは結ばれることなく、突然高商出身のサラリーマンと大阪で結婚してしまう。その後彼女の妹照子が俊吉と一緒になり、しばらくして妹夫婦に信子は会いに行く――そんな話だ。

信子は女学校時代、妹の照子を伴って俊吉と出かけることが多かった。当然二人は共通の文学的話題に盛り上がり、照子はついていけない、ということが頻繁に起こっている。そんな照子も俊吉との新居に姉信子が尋ねてくる頃になると、彼らに追いつくような知識と機知とを披露する。

 話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」と云つた。すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」と云ふ言葉であつた。信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて? アポロは男ぢやありませんか。」――照子は真面目にこんな事まで云つた。

青空文庫|芥川龍之介「秋」

信子は結婚してから、小説を書けないでいたが、久しぶりに聞く俊吉の弁舌に意欲を刺激されたのだ。それで、信子は小説を書き始めようなんて言ってみたが、俊吉は女に文学なんて所詮わからんよと言わんばかりに、芸術の女神ミューズに愛される男性だけがその恩恵にあずかれると、そういうフランスの詩人グールモンの警句を引き合いに出した。

問題はその後で、そう皮肉(?)を言われた信子自身ではなく、かつては文学議論に置いてけぼりにされていた妹の照子のほうが、同じギリシャ神話で芸術の神アポロンを引っ張って来て男女逆転の構図での反論を試みたわけだ。多分これはグールモンやほかの詩人たちの言葉ではなく照子自身のオリジナルな反論であり、流れに即した反論、そのオリジナリティという二重の意味でかつての照子とは明らかに違った、文人俊吉と対等に話し合える妻としての彼女が描かれている。俊吉からもそのように扱われているように、信子には見えただろう。

(ギリシャ神話について詳しくないのでよくわからないが、ミューズもアポロンも「音楽と詩」の神、芸術の神として崇められているっぽいので、そもそもグールモンの警句(とされているもの)自体変な気もする)

ともあれこのシーンは「秋」の中で信子の中にある、姉を慕う健気な少女としての照子像をぶち壊してしまうシーンのひとつだが、ここでこの作品からは離れる。
尚以下のサイトに「秋」の語彙の解説があるので参考にされたい。

狩人と山の女神

女神は男を寵愛し、男神は女に恩恵を与える、という発想が、このミューズ・アポロンのやりとりにはあることになる。
西洋の宗教観は明るくないから詳しくはわからないが、日本の神々よりはよっぽど人間に近い。ギリシャ神話において神々と人間とはガイアから生まれた身分差のある兄弟のようなものであり、キリスト教においては土塊の似せ人形だ。明確に人間女性が人間男性よりも後発的で差別化されている思想の元にあるとは言えども、同じヒトガタ故に、愛の対象になる。
少なくともそういう発想自体が完全にありえないというか、神と人間とは姿が似ているだけで住む世界が違うのだがら、片一方の性別に肩入れなんかしてくれない……と跳ね除ける斥力が存在しているわけではないと思う。

全然話は飛ぶが、日本の神々においても、神が一方の性別に肩入れするというか、(二元論的な意味で)自身の性別がどちらに属していて、人間を含んだ相手の性別はどちらに属しているのか、ということを勘案する態度は散見される。

パッと思いつくのは山の神である。
コノハナサクヤヒメの姉で醜女と言われるイワナガヒメなどが代表例だが、山の神は結構女が多い。で、色々な要因はあれど、かつては神体としての山や、修行の場としてのそれは、女人禁制のことも多かった。実利的な問題は勿論集団の財産たる女(男の命は軽いのだ)を危険な場所に逃がすことがないようにということだっただろうが、大義としては山の神たる女神を怒らせないようにとか、嫉妬させないようにとか、そういう同性嫌悪を土台にしていることが多い。
狩猟のために山に入った男たちは女神の嫉妬を避けるために決して女のことを話題にしてはいけないとか、獲物が沢山捕れるように男性器を振り回して女神を喜ばせる祭祀があるとか、異性であることを意識したしきたりがある。

当然神話や祭祀儀礼などは社会的な圧力によっても形成されているものなのだから、グールモンの警句という「ミューズ」も、例えば男神アポロンのことを考えなかったと言うよりは、文学など女には所詮わかるまいという差別意識、社会通念が言わせたある種の詭弁であって、神の側の属性から決められたセリフではなく、人間社会の側が規定した発想なのだ。
狩人たちも同じではないだろうか。狩猟採集文明において、山に入る狩りは、概して男の仕事である。古代その原初ともかく、近代に至るまでに残っているのは男の仕事としてのそれであるから、だから山の神=女性という相補的な構図が、ミューズやアポロンの例と同じような思考的傾向によって導かれていたのではないかと考えている。

とはいえ、これは全然法則と呼べるようなこととは思わない。職種やその概念に関わる性別が偏っている場合でも、祀られる神の性別は必ずしも明示的ではない。女性の仕事である煮炊きに関わる竈だって男女神どっちもいる。
なんか、そういう発想が適用されていそうな例がありそうだなーと思う以上のことはない。

アマテラスは女っぽい

ただ、記紀神話における日本の最高神、アマテラスは一般的に女性モチーフで描かれている。配偶者が男神だったなどという直接的な記述があるわけではないが、わざわざ「男の格好で」とか書かれている部分があって、基本的に女性扱いされている。
アマテラスはかつて一氏族の氏神だったのが、記紀において日本の最高神にまで祭り上げられたのであったが、この時点で記紀を編纂した当時の朝廷は、多分男性中心の社会だったと思う。男の権利、政を男が行うことの正当性を示したければ、わざわざ女神など立てる必要はないのではないか? 父系で脈々と継がれる後の天皇家の血筋を示すのに、何故その根源を女性に託すのか? こういう疑問は当然あるだろう。

この疑問に、先程の「神と人の異性セット」の構図は当てはめられないだろうか。つまり、男権社会の基盤を認める女性の最高神の構図。女神に寵愛されているのだから、正統性があるのだという主張。暴論だけど。

ツクヨミは女神だったかも

傍論に逸れるが、ツクヨミは男神であると解釈されている。アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三姉弟の中でツクヨミだけ記紀の中で活躍がないのは、昔ツクヨミは女神だったからなのではないかという説がある。日本神話は(そして世界の神話は)部分部分を見ればオリジナリティなどなく、大陸の神話や南洋の神話などの要素が継ぎ接ぎにされて織り成されているわけで、月と言えば普通女神を連想するだろう。

卑弥呼などの女王が伝えられるように、原初的な人間社会では母系社会、女性の権力が強かった時代があったのではないか、という主張は一定数言われ続けていることだが、その頃にもしかすると、ツクヨミは女神として崇め奉られていたのかもしれない。女性の月経及びそれに伴う感覚的変化と、月の満ち欠け、暦との対応を見出していたという可能性はあるだろう。まあ、これも妄想でしかない。
古事記はそもそも記憶力を朝廷に買われた稗田阿礼が語ったものを書き写したものだが、ということはそれまでは口承で伝えられてきた神話であって、そのなかに日本各地の神話伝説が織り混ぜられているのは不思議ではない。母系社会の代名詞たる女神ツクヨミを男神に変更させ、重要な三柱の一柱として奉りつつ活躍は奪う。大和朝廷の形成に際してそういった圧力が働いていたのではないかと夢想する。

そうなると、先程までの異性セット仮説はやはり打ち砕かれてしまうので、普遍的な法則ではないということだろう。月の満ち欠けを月経周期とそれに伴う非常感覚を身体的に結びつけた存在として親しく月の女神がいる場合のほうが想像に難くない。

祭祀権の移動と蛇の性別変化

吉野裕子は蛇とそれを神として扱うことに傾倒した在野の民俗学者として筆者は認識している(そして主張の多くは結構怪しいとも思う)が、彼女の蛇に関する著書のなかで度々古代日本列島の祭祀権は女性にあったが、琉球や奄美を除いて男性にそれを取って代わられたという記述がある。根拠は把握していない。
卑弥呼の例もあるし、男女どちらがより神秘的な力を持っているかと聞かれたら女の方だなと多分どの人間でも思うだろうから(それが歪めば差別に繋がる訳だが)、まあ強いて否定したくなるわけではない。
それで、吉野ワールドによると蛇は日本民族の祖先神であり、あらゆる神は蛇であって……みたいな話にも読めてしまうのだが、この祭祀権の女から男への変更が、その内容を複雑化させている要因の一つでもあると言う。

更に話は飛ぶが、皆さんは蛇と聞いたとき女性と男性どちらをより近しいイメージとして連想するだろうか。
筆者は女性である。正確に言えば、雄々しい男は想像しづらい。

だが、記紀神話における大物主は蛇体を持ち、巫女を孕ます。ヤマタノオロチも女を生贄にする。古代日本で蛇は圧倒的に男性である。大物主の三輪山神話は話型を各地の昔話に受け継がれて、「蛇婿入り」とかいう形で残っていたりするが、この蛇には神としての格は全然なく、ただの異類、妖でしかない。
ともかく、蛇の神に仕えるのは巫女であった。蛇は山の神でもあるが、これは狩人と山の女神の反転させた構図にも見える。
蛇が女に化ける話や、女が蛇に化ける話は、しかし少し経つと世に残るようになる。道成寺説話や、「蛇女房」などの類だ。明らかに、蛇=男からは後に発生している。この変化が、吉野のいう祭祀権の移動と関連しているのではないかと筆者は睨んでいる。

琉球や奄美では本州程の変化がなかったということになるが、確かに、ノロと呼ばれる巫女がハブを使った儀礼を行う資料なども残っているのだ。琉球も沖縄も毒蛇が他の地域よりも多いわけで、その毒で精神に変化のあった人間に神性を見出し、それが今でも残っていたりするのだろうか。

しり切れとんぼになるが、ここら辺で妄想を書くのはおしまいにする。
異論あらば忌憚なくコメントして欲しい。

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