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掌編小説|上澄み

 私立小学校に通っているらしい。制服を着た、小さな女の子が二人並んで立っていた。東横線の車内。
 およそ低学年としか思えない背丈だった。帽子の紐を首にかけた頭のつむじさえ、はっきりと見おろせるような小人だった。

 ある日、小さな仕事をひとつ終えての帰路。
 吊り革に掴まって、片手に本を抱えてみた。中吊り広告が頭頂部を擦って不快なのは常日頃から同じだった。
 電車内で不意に聞こえてくる他人どうしの会話には、ついつい耳をそばだててしまうものだ。だからこのときも、それと同じくらいの注意を払っていた。つまり、さほど、誰が話しているのかに注意を払っていたわけではない。
「あのポスター、私も同じようなの描いたけど、男性ばっかり譲ってる」
「女性二人にして欲しいよねー」
「ねー」
 確かに天井には、中吊り広告があった。電車のマナーを示した続き物の一群のうちのひとつのようだ。娘を連れた妊婦が乗車してくる場面で優先席に座っていたらしいサラリーマンと、それをさらに促す大人の男、という絵柄だ。
 先ほど認識した会話について、男と女の表面的な平等に固執している、あるいは、ともすれば「社会に出る」人間の、女性への完全に近い置換を標榜するような過激な思想の深め合いを公の場で、それなりの声量でしてしまうのかと思い、チラチラと声のするほうを見る。
 しかしそこには、女性権利の拡大や男性嫌悪を謳うような「利発そうな女」はどこにも見当たらず、ただ女児が二人存在しているに過ぎなかった。

 僕は、なにか勘違いをしていたのかも知れない。単に彼女たちは、男たちばかりが譲っていて、女たちばかりが譲られていて、決してこの中吊り広告はそういう絵面ばかりではないのに、まさに今見たそういう絵面について、むしろその幼さ故に、単に言葉足らずに、あるいは思慮足らずに、プリミティブな、または管理教育的な意味での同性への帰属意識と反感をもっていただけなのではないか。
 あれは、「男子ばっかりずるい」というよく想像できるような言表だったのではないか。

 結局、他人は鏡なのだ。
 世間に蔓延り僕をこういう人間に育成してきたところの人権意識の教養、もとい強要には近々うんざりしてきた。違うものは違うのだとはっきり言わねばならない。「違いの分かる男になれ」という、高校時代の恩師の言葉を思い出す。
 僕はそれを、無垢な女児たちの会話から勝手に読み取ってしまった。彼女たちがうらやましい。

 数秒間自らを省みたあと車窓に目を戻すと、高度の高い黒雲の天井の、その地平の向こうから、青色の散乱した太陽光が挿し込んだ。


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