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人生相談

全精神科に見てもらいたい。
私はおかしいのか。

別に病院に行かずとも現段階でして欲しい。
1度行ったことがあるが、中々診断してくれないので、はっきりとしてほしい。
ヤバいなら近くの病院で診てもらうし、とりあえず私の人生の経緯を、長くなるが話したいと思う。

私は幼くして両親はちゃんといる。
いるけれども、両親から十分な愛情は貰えていなかった。
昔から頭のいい姉とアホな私で毎日比べられていた。
例えば、折り紙を作ろうとする時、順を追ってやったり、創意工夫すると思うのだが、私は自分で考える前に親や祖母に聞くと「自分で考えてやれ」とか「あんたは全然考えてやらないのね。お姉ちゃんはちゃんと考えてやっているでしょう?」とか言われてきた。
それから自分1人でやらなきゃいけないことを刷り込まされ、現在は相談をするのが苦手になってしまいつつある。
母親のことが大好きで、よく腕枕とかさせて貰っていたけど、私が結構動くものだから「痛い」と言って止められる度に自分を否定されているようで傷ついた。
ニュースや本などを読んでいる時に分からない言葉があって、母親に「どういう意味?」と訊いても「今は(説明するのが)面倒臭い」とか、構って欲しくてちょっかいを出していたら「しつこい」と言われて、その度に自分は足でまといになっているだと傷ついた。

土日によく家族と出掛けたりしていたけれど、それも父親の車屋巡りとか釣り屋巡りとかで母を困らせていたし、私自身も楽しいと思えたことがあまりなく、習慣だから行く、みたいな感じで着いて行った。
正直に言うと、家に取り残されるのが怖かった。
ほかには、出掛ける時に玄関にいた時、急に「どうして自分はココにいるんだろう?」
「一緒にいるのは本当に家族なのか?」
「今これらを感じているのも自分なのか?」
「私って何だろう?」
と言った孤独感に襲われた。
そこで幽体離脱みたいな感覚で自分を見るようにもなった。
相談してもおそらく変なことを聞いていると勘違いされることを悟っていたため、1人で怖い思いをしたりしていた。
それが小学校3年生くらいだった気がする。
その幼さでこんな思いをするのはどこがおかしいと心の奥で感じていた。

私には姉と弟がいて、弟の方は重度の自閉症で、文字も書けないし話したりはできないけど、人に言っていることは分かるようだった。

姉が私立の学校に行きたいと言い出してから、父親の教育スイッチに火がついた。

父は姉に対して厳しかった。
勉強している様子を見に行ったりして監視を続け、その中で少しでも寝落ちとかしたらスリッパや教科書の角で殴っていた。
姉は真面目で父親の言うことを抵抗せずに聞いていた。
裏では愚痴を言ったり、悔しさで自分の部屋の壁を血が着くまで殴った跡がついていた。
私には言い返さない、父親の言いなりになっている姉が理解出来ず、反面教師に私は反抗期を迎えた。
無事、姉は志望校に合格でき、父親は姉を塾に入れずに私立に入れられたことを、自分の力で合格が出来たんだと誇りに感じている。

私も公立より私立に行きたいと言うと、また父親のスイッチは入り、受験勉強が始まった。
でも、私は正直勉強はしたくなかった。
勉強が面白いとは思えず反抗していると、当時ゲーム機を買って貰えなかった代わりに使っていたパソコンを禁止にするなどの禁止事例を増やし、それでも言うことを聞かずにいると姉と同様スリッパで殴ったり蹴られたり暴力で聞かせようとした。
益々嫌になり、さらに言うことを聞かなくなった私を父は手にも追えないと判断し、塾に放り投げ、そこで10時間以上も缶詰にされ私の自由はなくなった。
もちろん、そこで勉強するわけでもなく、退屈すぎた私は何時間も寝に費やした。
塾の先生も頑固な私を知っていたため、放任していた。金は入るし、自由にやらせておこうといった感じだった。
父親は塾に入れて満足していたため何も言われなかったけど、缶詰時間があまりにも退屈で物凄く時間を無駄された思いでいる。

小学校高学年辺りから「自分とは何か」という疑問にぶち当たっていた。
その長い塾の時間の中で、たまたまチャレンジの作文の題材を手にしたとき、ちょうど問題の題材されていた「火の鳥」の抜粋された一部分でひどく混乱をすることもあった。
それは哲学的なもので、自分に対する訴えや疑問だった気がする。
当時の私は自分が何者なのか分からずに悩んでいた時期で、それを読んだことで余計に混乱した記憶がある。
その出来事が、小3で体験した急に襲ってくる孤独感に似てきたこともあり、その時も世界が変わったかのように絶望をした。
生きていく不安を覚え、ネガティブだった私は、この先の自分の人生が好転することはなく頑張っても現状維持だろうと、狭い塾の中でひとり虚無に陥っていた。

何だかんだで私も無事合格することができ、中学校ライフ迎える前まではとてもわくわくしながら中学生という地位を待った。
中学に入る前に父親に釘を刺すような形で私に条件を付け加えてきた。

「部活に入るなら、運動部以外にしろ。お前が運動部に入ったら勉強しなくなる」と。

諦めの音がまたした。
中学に入ったら運動部に入部するのが夢だった。
運動部に入って青春を送るだ、と少女漫画に感化されながら夢を描いていた。
そんな夢が親の権力で呆気なく打ち砕かれた。
親の独断のみで自分の夢が壊されることが本当に本当に悔しかった。
あとは、ケータイも欲しかったけど、もちろん買ってくれることはなかった。
自分でバイトして稼いだお金で買おうと思ったら、今度は校則でバイトは禁止されており、その手段も打ち砕かれた。
どうしても欲しかった私は、父親に「成績1位を取ったらケータイを買って」という提案もしたが、「今後も褒美がないと頑張れない人間になるからダメだ」と一蹴された。
夢を壊される度に、自分は何も出来ない無能な人間なんだと、希望のない、暗く悲しい思いに引きずられ、「努力」というものを忘れていった。

私の受験期から中3くらいまで父親はずっと家に過ごしていた。
そう、父親はずっと家にいるのだ。
私が学校行く時も、帰ってくる時も、父親は家にいる。
それがあまりにも嫌すぎて、学校にいる時間をあえて長くした。
おかげさまで中学校3年間は皆勤賞だった。

当時の私は父親が嫌いだった。
自分の言い分は全然聞いてくれないし、亭主関白だし、自分の思い通りにならないと力で聞かせてくる。
だから将来稼げるようになったら、自分に掛けてきた全財産をすべて返して縁を切ってやると親孝行に見せかけた復讐を胸の奥底に宿していた。

父親がここまで勉強にのにはちゃんと理由があった。
さきほど私には姉のほかに重度の自閉症を持った弟がいると伝えた。その弟に関係している。
私と姉が中学に入った頃に言われた。

「お前たちには自閉症の弟がいる。お前らの子どもが先天的な病気を持って産まれてくる確率は他の人に比べて高い。それを相手に知ってもらう必要がある。相手が良くても相手の親が承諾してくれないことか多い。だから結婚する確率も低い。そのために自分で生きていけるような職についておけ。勉強もちゃんとしておけ」

父親なりの優しさがあった。
母親にも口を酸っぱくして「彼氏が出来たら弟が自閉症だってこと早めに伝えるんだよ」と言われてきた。
そう、私は他の人に比べて独身になる確率も高いのだ。だから生きていくために良い職に就いて欲しいというのが両親の願いだった。
でも、当時の私はそんなこと言われても勉強はしたいとは思えなかった。
そこで恋愛は出来ないのかもしれないことも悟った気がする。

最近気づいたのだが、当時家に引きこもっていた父親も鬱に近いものを持っていたのではないかと今更ながらに気づいた。
私は自分のことで精一杯で気づかなかったが、父親こそ診てもらうべきなのではと今では思う。

話を戻すと、一応皆勤賞を貰えたけど、学校が好きかと訊かれたら少し違った。
私立だからか変人がら多く、その中でもデリカシーのない奴らが私の周りを占めていたように思える。
当時の私は優柔不断で、人の目を気にしたり、人の顔を窺ったりしながら、学校生活をしていた。
そんな私を見て、「面倒臭いね」とか「自分の殻に閉じこもるな」とか「はっきり言いなよ」とか「言えない意味がわからない」とか色々言われた。
人と関わることもあまり得意ではなく、嫌われたくない一心でずっと言われっぱなしだった。
8割くらい1人になりたいと思っていたような気がする。
長時間人と一緒にいるのが苦手だった。
1人になりたい時は逃げるように図書館に駆け込んで人との距離を取っていた。
暇な学生生活を過ごしていた私は読書をして暇を潰していた。
アホだったこともあり、本の半分くらいは理解していなかったり、想像をせずに読んでいたこともあったので、理解力や想像力は残念ながら上がらず、現文もあまりいい成績ではなかった。
前にも話していた通り、当時の私は「自分が何者なのか」について悩んでいたため、自分を知るために啓発本を読み漁って元気を貰ったり、納得したり、言い聞かせたりして、自分と長い時間向き合っていた。

当時、親友と呼んでいるくらい仲のいい子が1人いた。
その子と3年間同じクラスで、移動教室の時はいつもその子と一緒に移動していた。
私は一緒にいるうちに、その子のことを好きになっていたと思う。
その子は物静かで少しミステリアスな子ではあったけど、人には人気があり割と注目され、人にいじられていた。
そのミステリアスな雰囲気が掴みどころがなくて、好奇心を刺激され、次第に惹かれていった。
その子が他の子と話しているのを見ていると面白くなく嫉妬心を憶えた。
いつも一緒にいるなら少しくらい許してやれるものも、独占欲が強かったため、特に同じ部活の子と話しているのがとても癪に触った。
当時の私は愛情表現が下手で、その子の気を引くために、日によって態度を変えた。
それは私が気分屋なところもあるのは間違いないけれど、半分気分、半分駆け引きとして使っていた。
その子も人間だから振り回されて嫌になったのか、2年間疎遠になった。
それがとても悲しくてしつこく手紙を送ったりして、面談の時に母親から先生にやめてくれと報告があったと気付かされた。
でも、あんなに一緒にいたのに突然離れて行ったので混乱した。
その子を失ってか大切な存在であることに気付かされたのだった。
だからお詫びの手紙を気が済むまでずっと渡してしたし、日記でもその子のことばかり書いていた。
その子から1度だけ手紙を貰ったが、とてもシンプルすぎた3文だったため、当時の私は遠回しに復縁は無理だと考えていた。その子とまた同じクラスになったことで復縁することができ、今でも遊べる仲にまで修復した。復縁を諦めかけていた私には想像していなかったことだった。

大学に入り、念願の運動サークルに入れたが、1年くらい経過して、同期の女子との価値観のズレによって、これ以上長くいられないことを悟った。
ある時、「私はここにいる所じゃないし、私のせいで乱してしまっている」と思い詰めた。
それくらい心身疲労困憊になっていた。
心の限界もあり、その同期の女子たちと顔も合わせたくないし、合宿中も1人になったり、グループLINEにいることすら嫌になって勝手に抜けたり、結構勝手な行動をしていた。
でも、サークル自体や同期の男子や先輩たちは大好きだったため、辞めるかどうかとても迷った。
葛藤で決めきれず、色んな人に相談しても、優しいかったみんなは、好きにしたらいいと言うだけで決まらず、1番最後に相談した子が辞めろと言ってくれてやっと切り出せた。

心の限界も知り、代表の先輩に辞退を申し出すと、急だったこともあり、「その日に時間があるなら話そう」ということで話し合いをした。
色々と話していくうちに、先輩にお前が悪いことばかりだとあれこれ責め立てられた。
そうでなくても心がやられていた私は、耳が凄く痛く、オーバーキルだった。
でも、その先輩は私が本当に辞めたがっているとは判断せず、優柔不断なことを見抜かれていたため、「本当に辞めたいの?違うよね?」と言われたので頷いた。
「じゃあ、頑張ろうよ」
これが地獄の一言だとは気づかなかった。

「今までの関係には戻れないから、女子たちと話し合おう。どこが嫌だったのか紙に書いて、私が間に入るから、話し合おうよ。もう知っている人はいるからこれしかないと思うんだよね」

血の気が引いた。
ただでさて関わるのが嫌な私には至難の業だし、先生みたいなことを言ってきて気持ち悪かったし、大学生にもなってこんな過保護な奴がいることに驚いて言い返せなかった。

「だから紙に書いたら私が確認するから書いてね。期限も決めないと終わらないから決めようね」

怖くなった。私にとって脅迫だった。自分の悪いと思ったことを書いて、みんなと答え合わせする?余計に関係が悪化するだけでしょ……。怖い。でもここまで先輩を困らせる訳にはいかないし、断って敵に回したら余計に面倒になる。どうしよう……。
何も出来なかった。

期限をテキトーに決めて、あまりにも返信を返さなかった私に催促のLINEを渡してくる先輩。
そんなことに耐えきれなくなって、辞退を決めた。それが2年になる頃の春くらいの話だった。

2年の前期は資格を取るためにあまり気乗りしない授業を頑張って取ったりしていた。
先輩に「努力が足りない」といったようなことを言われたばかりだったのか、辛かったけど何とか乗り越えられた。
あまり評価を貰えない先生から最優秀成績を貰えて嬉しかったが、休む時間もなく、夏休みに自動車免許を取るために実家に戻った。
教習所のスケジュールは鬼のように詰められていて、余計に私を追い詰めた。
MTを受けていたこともあり、ギアチェンジが上手くいかなく泣いたくらい精神はやられていた。
筆記も5回以上落ちたり、あまりにも上手くいかなすぎて受付の人の前で泣いてしまって、慰めて貰ったりもしていた。
好いてくれた人もいたが、いつもならそれに答えて明るく接したりするのだが、それができず、その人からも「疲れているよね」と指摘された。
それも私にとってダメージになった。

そして、姉貴も鬱になり会社を辞めていた。
原因は父親にあるらしいことが判明した。

なんとか取り終わって、ちょうど後期に差し掛かろうとしていた。
既に体力はなく、最低単位を取って授業数を減らしたり、バイトも当分休ませて欲しいと言ったら全然休ませてくれたおかげで、なんとか楽に暮らすことができた。
当時は物欲も食欲もなかったため、貯金は貯まっており、それが救いとなって、バイトをしなくても大丈夫だった。

それから「頑張る」ことを忘れてしまった気がする。
その時は適度に気を抜けて、次第に余裕が持てたので、ジムに通って泳いだり、エステに通ったりと自分磨きもできたくらいには回復していた。
人間関係も人と全然会いたいなんて思えなかったし、おしゃれをするのも面倒で同じ服を着回ししていたし、好きな人と電話したいときだけして、割かし自由に過ごせた。
その頃はコロナでリモート授業しかない時だったのでそれで救われた。

問題になったのは、3年になってからだった。
ゼミもそろそろ自分のテーマを決めたり、将来が不安で就活を早めからしていたけど、それが仇となり、見切り発車で終わった。
色んな会社説明会に参加したけれど、主体的にはなれず、どれも同じようなところばかりに見えてしまって、興味が持てず、それ以降しなくなってしまった。

ゼミもサボれるだけサボりまくっていたし、オンラインでもその間寝ていたり、夜になったら起き出したり、不摂生な生活をしていた。
正直、当時は余裕が全然なくて、何もかも上手くいっていなかった気がする。
縮小垢で自分の考えていることをツラツラを書いたりしていたくらい病んでいたから。

就活しないとなぁと思いながら、4年になってしまった。
皆が就活している最中に、私はNARUTOにどハマりして疾風伝を観終わらせた。
次はワンピース、BLEACH、色んなジャンプ作品を観たりして、そういう意味では楽しい日々を送っていたけど、やはり将来が不安になったり、少し就活をしたけどすぐには実らず、相変わらずどうするか悩んでいる。

見ての通り、社会不適合者で、本当に私は会社で毎日働けるのか、バイトでさえすぐに疲れてしまうのに、毎日会社で働けるわけが無いと思い悩むこともあった。
若い時に無理しとけとはよくいうけれど、無理する気力も正直ない。
ここで植え付けられてきた劣等感や自信のなさ、自分とは何かという問にぶつかる。
自己分析をする時に適性検査に注目して見ていた。
検査をする時、本当に自分がしている行動と理解していることが合っているのか分からずにしているため、その検査は適正あるのかは謎だったけど、どんなに多い質問項目があろうが違う適性検査であろうが、やはり判定は「社会不適合者」的な括りにされていた。
それによって、会社で働くのは無理だと悟った。
でも、一人暮らししたいから就活は必須なんだけど、労力を結構使ってしまって頑張れない。

コロナも終息に近くなり、授業も対面になったことで、それがすごく労力を使うことに気付かされた。
ゼミももちろん対面で、ゼミ生たちとあまり関わっていなかったので、最初の方は中々溶け込めず、嫌々毎週ゼミに約3時間参加していた。
卒論もちゃんと考えておらず、やりたい研究も正直見つからず手探りで見つけたテーマでやろうとしてはいるが、中々しようとは思えなかった。

夏休みを迎え、就活を終えたであろう人たちが楽しくストーリーに楽しい生活を送っていた。
私も混ざって楽しんでいたが、さすがに就活しないとなと思い、特殊な会社ばかり受けて、落とされてから自信を失くした。
宙ぶらりんな感じで今をのらりくらり過ごしている。
出来るなら就活も卒論も避けたい。
でも休学するのにもお金が必要だし、もう出来ないからするしかないのだけど、したくない。

甘えなのは百も承知だ。
でも気力が出ない。
今頃になって甘えたくなってしまったのだから許して欲しい。
肩の後ろが重く、1人になるとすごく沈んだ気持ちになる。
今はコロナ禍もあって、1人でいやすい環境が作れているが、これから働くとなると今以上に人と関わらないといけない。
それが心身疲労困憊しそうで怖い。
養ってくれる人がいるのなら縋りたいくらい。

それを踏まえてどうしたらいいですか?
アドバイスをください。
よろしくお願いいたします。

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