座布団の上の宇宙〜脚本、演出、主演、俺〜
無事、一年生の地獄の稽古期間を終えついぞ二年生になります。
いやしかしこの日芸落研、一年生の期間が終わるとまぁ地獄から天国といっていいほどに立場が変わります。
稽古の話をさせていただきましたが一年の間はとかく理不尽に次ぐ、理不尽。
稽古の他にも、合宿などで皆でご飯を食べるタイミングになると、並べられたご飯を前に一年生が一人いただきますの挨拶を任せられるのですが、もちろん単純にいただきますを言えばいいというわけでは当然なく
替え歌を一曲披露し、それが面白くないと、いただきますに反応してくれず、みんなが食事にありつけないというほんとに意味不明な慣習がございました(笑)
いただきますが通らないと当然先輩方も食べられないのですが、全然笑わない上にわざと「早く食いて〜」とか言って急かすわけです(笑)
食いてーなら反応してくれよと思うわけですがw
ほかにも何だそれ?みたいな慣習がいくつもあるのですが、それらのあらゆる理不尽を乗り越えて二年生になるわけです。
以前の記事でもお話をしたように、当初15人ほどいた同期の人数が、いつの間にか4人になっておりました(笑)
二年生になっての最も大きな変化は、開催する寄席のたびに課題としての決められた落語ではなく、自分のやりたい演目ができるようになります。(正確には一年生の文化祭で初めて自分でネタを選ぶことができます)
もちろん二年生になっても稽古はあり、上級生の指導がありますが、一年生のときのような八つ当たりみたいな稽古をされることはなくなるのでだいぶ気は楽です。
その点、二年生からはあらゆることが自分次第というかネタ選びから台本づくりまで(古典落語なので型はもちろんあります)すべてを自分でやるので、それはそれで違った意味でプレッシャーは大きいです。
しかし私の場合は高校、はたまた暗黒の浪人生活期の、俺は人とは違う(思春期には誰もが持つ)といった過剰な自意識によって生成された、うじうじどろどろとした表現欲求が内にいくらでもありましたから
とかくそれを落語という形で発露する場、今この30分でお客さんは俺しか見ておらず、喋りたいことを喋れるという感覚がとても心地よく
もちろんプロの落語とは考え方が全然違いますが、学生のアマチュア落語なのでもう言ってしまえば脚本、演出、主演、俺!といった感じである程度やりたい放題なわけです。(それがウケるかはまた別の話)
技術こそありませんでしたが、水を得た魚のようにとかく楽しんで落語をやれるようになっていきました。
楽しんでやるとアイディアが浮かぶ、アイディアが浮かぶと楽しいといった、クリエイティブの無双ループを発見した瞬間でした。
いま現在は辟易とするサラリーマン稼業の毎日でであることが多いのですが(笑)それでも変に鬱になったり発狂したりせずにすんでるのは、
この落語時代の経験を活かし、とかく楽しんじゃう、面白がっちゃうという技術があるからかもしれません。
またどっかで、しくじっても話のネタになればいいかな程度に考えて
嫌味な上司も、生意気な後輩も、理不尽なクレーマーも、そこに悪感情で反応するのではなく、面白おかしくどう料理するかを自然に考えるようになっている気がします。(もちろん凹むときは凹むし、ふざけんなと思う瞬間もいくらでもありますがw)
するとわりかし客観的且つ冷静になれ、悪感情をもたらすものの本質が見えてくるので、不思議と自分の視点は菩薩のような慈悲深い目線で嫌味な上司も、生意気な後輩も、理不尽なクレーマーもみていることに気づきます(笑)
ということで今回は落語という座布団の上の宇宙の中で、表現することの気持ちよさに酔う私を回想したところでお時間です。
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