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【エッセイ】私の将来の夢

「将来の夢は何?」

 こんな質問を子どものころ誰しも周りの大人からされたことがあるだろう。幼い男の子なら、

「仮面ライダー!」

「ウルトラマン!」

 幼い女の子なら、

「プリキュア!」

「パン屋さん!」

「お花屋さん!」

 と答えるのがテンプレのようになっている。小学生なら、男子はスポーツ選手、女子は女優とかアイドルといったところだろうか。

 中学生くらいになると現実的なものになっていくので、幼児のような荒唐無稽な夢、小学生のような自分の分に合わない夢は持たなくなる。高校生にでもなれば、目の前のことに精いっぱいでそれどころではなくなる。


 記憶のあるときから、私には将来の夢がなかった。何になっていいのか、わからなかった。

 この世にはあまたの職業がある。公務員にしても地方や国の役所に務めていたり、警官や自衛官のように日本の安全を守ったりと多岐にわたる。民間企業にしても、新しい商品を考える人、営業をする人、実際に工場で作る人と分かれている。自営業ともなれば、その形態はかなり幅広いものになるだろう。

 溢れるほどある職業の海の中で、私はどれを選んだらいいか、わからなかった。そして、自分の足りない頭では、どれも無理そうだと思った。

 私には、人間並の能力がない。

 話しても上手く人に伝えられないし、手先を使う作業をするにしても上手くできない。頭も悪いから、人から言われたことを上手く飲み込めないので、忠実に再現するということもできない。

 何を言いたいのかというと、

「私は無能である」

 ということだ。誰かの助けがなければ生きていけないような、愚図で不器用な使えない奴ということだ。こんな人間、誰だって願い下げだ。運良く何かの職にありつけたとしても、真っ先に首を斬られるか、サンドバッグにされるのがとどのつまりだろう。この世で無能ほど嫌われるものはないのだから。だから、どの職業に就いても上手くやっていける気がしない。そう考えていた。


 社交辞令に近い意味での「将来の夢」は、私には無かった。だが、一般的に言われている広義の意味での「夢」なら、私も持っていた。

 流浪の旅に出て自分を見つめ直し、たくさんいろんなものに触れたい。鴨長明や兼好法師のようにどこかで静かに残りの余生を送りたい。この二つだった。どれも若者の夢にしては、あまりに厭世的過ぎるものだ。

 流浪の旅に出たいことを周りの大人に話したことがあるのだが、

「そんなの絶対にダメ」

 と顔を真っ赤にして怒られたことがあった。そして、反対に俗世がいかに素晴らしいところかを延々と聞かされた。

 正直私は俗世にはいい印象を持っていない。押し付けがましく、欲深い。そして、明るくて有能な話し上手しか生きられない仕組みになっている。

 暗くて無能なコミュ障代表として、それがどうも気に入らない。大人気ないが、世捨て人となった今でも、そのことについて度々憤りを感じている。

 いかに俗世が極楽浄土のように素晴らしい場所だと誰かに必死で説かれても、私には一切心に響かない。むしろ、傷ついたり、疑問に思ったりすることの方が多かった。

「傷つくことが多いなら、もう話すのを辞めよ」

 私は周りの大人や知り合いに夢を話さないことにした。本当のことを誰にも言えないまま、この歳になってしまった。


 最近になって、私の将来の夢の正体がわかった。それは、

「やりたいことをやる」

 ということ。

 やりたいことも満足にできず、言うことさえも許されなかった。だからこそ、やりたいことを目一杯やりたい。それで楽しく生きられたのなら、最高ではないか。

 あと、遠い将来の夢はないけれど、やりたいこと、やってみたいことなら山ほどある。叶ったこともあるが、これは少し大きな夢にして、また挑戦するつもりだ。まだ叶っていない夢については、これから少しずつ叶えていこうと思っている。もちろん、私一人の力では無理なこともあるから、全部叶わないのは承知の上だが。

「私の将来の夢は、たまたま人と違っただけなんだ」

 そう思うと、少し心が楽になった。将来の夢は、自分のやりたいことをやったり、なりたい自分を思い浮かべたりする。それでもいい。無理して「なりたい職業」に限って思い悩むよりも、この方が楽で実現しやすい。

 これからやりたいことをどんどんやっていく。だから、ときどき小さな夢を叶える私の姿を見守っていてほしい。


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