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AIアートについて、映画大学に留学中の私が思うこと

こんにちは!アメリカの大学に正規留学し、映画制作を専攻しているリンです。今は夏休み中なのですが、来学期からは4年生として卒業制作の撮影が始まる予定なのでワクワクドキドキしています。

さて、突然ですが、今年の春学期(2023年 1月〜5月)から、授業である話題が頻繁に持ち上がるようになりました。

それは、「AIは私たちクリエイターの仕事にどのような影響を与えるか?」というものです。

これが最も頻繁に話題になったのは、脚本の授業でのことでした。

映画制作のプロセスの中でも、脚本の執筆はパソコンひとつでできるものです。

ハリウッドで全米脚本家組合(WGA)が5月からストライキを始めた理由の一つとして、無断でAIを使用することへの懸念があがっているのも話題になっています。

今回の投稿では、国内外で見られるネット上での議論や、私自身が映画学校のクラスメートと話していて感じたこと、最近読んだ本や、教授たちが抱えている懸念などを通して私が感じたことをまとめていきます。

人間のアートとAIアートの共通点

そもそも人間のアートとAIアートの共通点は、他人の作品を真似(=コピー)することで新しい作品を作り出すという点にあります。

最近、私は"Steal Like an Artist"という本に出会いました。

この本の最初のチャプターでは、「無からアートが生まれることは決してなく、どんなアートにも必ず元ネタがある」ということが語られます。

オリジナルだと評価される作品がオリジナルだと見なされる理由は、単純に見ている側が元ネタを知らないからだ、と筆者は主張します。どんなにユニークなものを作っているように見えるアーティストでも、既存するアートの"自分バージョン"を作ることによって、新しいアートを生み出しているのです。

AIも、人間が作り出した複数の作品をコピーして真似することで、新しいアートを作り出します。そういう点では、人間のアーティストとAIのやっていることはもしかすると特に違わないのではないか、と私は思いました。

そもそもアートのオリジナリティはどこから生まれるのか

しかし、「アーティストは既存するアートの"自分バージョン"を作っているだけ」というと、「それは盗作と何が違うんだ?」と思う人もいるかもしれません。

そこで、この本の筆者は盗作とインスピレーションの違いを、「コピーする対象となる作品、もしくは作家の数」だと説明しています。

もし、たった一つの作品"だけ"を真似したり、たった一人の作家"のみ”を真似するとそれは明らかに盗作だと判断されます。

それに対し、複数の作品や複数の作家を参考にして作られた作品は、「オリジナリティがある」と見なされるのです。

それはなぜかというと、「何を真似して、何を真似しないか」という決断、つまりそのアイデアの"取捨選択"と"組み合わせ方"にこそ、アートのオリジナリティが現れるからです。

いわば、すべてのアートは、既存するアートのリミックスマッシュアップだということができます。どの既存のアートをどのように組み合わせるか?という決断こそ、オリジナリティを産むのです。

例えば、映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」はオリジナリティあふれる物語として高く評価されました。この作品を分解してみると、「アクション映画」「移民家族の世代間ギャップ」「LGBTQ映画」「マルチバース」といった要素が見えてきます。

「アクション映画」は昔からよくあるジャンルです。また、「アメリカ移民家族の世代間にあるギャップ(generational trauma)」や、「LGBTQのマイノリティとしての苦しみ」も、決して新しいテーマではありません。マルチバースという考え方もマーベル映画やその他様々な映画や本の中で既出のコンセプトです。しかし、これらを全て組み合わせて物語を作った途端、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」のようなオリジナリティ溢れる映画が出来上がります。

それは、このテーマやコンセプトの組み合わせ方そのものがユニークだったからです。たとえよくあるアイデアを複数集めたとしても、誰もやったことがない組み合わせ方で新しい作品を作った途端、独創性が生まれるのです。

私たちは毎日いろんな経験をして、いろんなアートを見て生活しています。その大量の記憶の中から「どのアートや体験を元にして新しいアートを作り出すのか」、つまり、「インスピレーションの元として何を選んで何を捨てるのか」という判断こそ、それぞれの作品をユニークにするのです。

何をインスピレーションの元として選び出し、何を捨てるかはそれぞれの好みや感情からくるものです。その取捨選択こそ、作家個人のパーソナルな決断なのです。そしてそのパーソナルな決断が、作品の独創性を生むのです。

人間のアートとAIアートは何が違うのか?

そのため、私はAIアートと人間の作るアートに違いがあるとすれば、それはアイデアの取捨選択をする上でベースとなる、個人的な好みや意見の有無だと思っています。

上のセクションでも書いた通り、AIも人間も共に他人の作品を参考にして真似(=コピー)することで新しい作品を生み出すという意味では何ら違いはありません。しかし、私は「AIはどこまでパーソナルな意見や感情があるような"ふり"ができるのだろうか?」という点を疑問視しています。

もしAIがネット上で見つけられるものを全体的に読み取り、その読み取ったものの要約や平均値を新しいアートや情報として私たちに提示しているのであれば、AIは人間が行うようなパーソナルな取捨選択のプロセスを行なっていないではないかと私は思うのです。

その「自分のパーソナルな経験や意見をもとにした、アイデアの取捨選択」の大切さを如実に感じさせられた映像があります。

AIアートが話題になり始めた頃、英語圏のSNSで、AIアートの利用について苦言を呈する宮崎駿の映像が大きな話題になりました。今年(2023年)の上半期に映画「ピノッキオ」のプロモーション中だったギレルモ・デル・トロ監督も、この動画の中で宮崎駿が言う言葉("an insult to human life itself" = 「生命に対する侮辱」)を引用してAIアートを批判したことで話題になりました。2分ほどの映像なので、お時間がある方はぜひご覧になってみてください。

この映像の中では、「人間が描くのと同じように絵を描ける機械を作りたい」という人たちが、宮崎駿監督に対してAIが作った映像を見せている様子が写っています。

彼らは、人間なら思い付かないような"気持ち悪い"動きをする、ゾンビのような生き物の映像を宮崎駿に見せています。しばらく黙ってそれを見ていた宮崎駿は、「身体障害を持つ友人のことを思い出した」と言います。ハイタッチすることすら難しい友人のことを考えると、このAIの作り出した映像を面白いと思うことができないと宮崎駿は語り、生身の人間の痛みや生命について、このAIアートを作る人たちは何も考えていないのではないかと強く非難しているのです。

私がこの映像を見て感じたのは、AIと宮崎駿の間にある大きな壁はパーソナルな意見や価値観の有無だということです。

多くのアーティストは、自分の作品が鑑賞者にどのような感情を起こさせるか、どのような影響を与えるか等を考えて作品を作っていますが、それに対してAIは、モラルや痛みというものを持っていません。パーソナルな感情や意見がないのです。

この映像の中でも、宮崎駿は人間の痛みや生命の描写に関して、個人的な意思を持っていることが窺えます。AIが作るものと、彼が作るものの背景には、そういった面で大きな差があるのではないでしょうか。

私たちはあまりにも「AIには何ができるか」に着目してしまいがちな気がしますが、「何を作らないと決めるか」という選択だって、私たち個人の倫理観や価値観からくるものです。何を描くかも大事ですが、何を描かないかという決断も、作家それぞれの強い意志からくるものだと思います。

そう考えると、AIはどこまでモラルを持ってアートを作れるのかや、パーソナルな意見を元にした(ように見える)作品を作ることができるのだろうか、ということを私は考えてしまいます。

最近、AIアートと人間の作ったアートの見分けは確かにつかなくなってきていますし、今後またさらに見分けるのは難しくなってくると思います。

しかし、人間の作品の場合はパーソナルな感情や価値観が元になって出来上がっているものが多いはずです。また、アイデアの組み合わせ方の数は無限にあるのですから、たとえAIが現れたところで私たちアーティストのアイデアが尽きることはないと思います。

クリエイターとして、どうAIと付き合っていくか

「どれだけAIに希望や絶望感を抱いていようと、AIが利用可能になった以上、もはやAIを使わないという選択肢はないと思う。」と私の大学の教授は言いました。

それなら、議論の論点を「AIは善か悪か」や「AIを使うべきかどうか」ではなく、「私たちクリエイターは、AIをどう使うべきか」に移すべきではないか、とその教授は言います。

私は個人的に、AIそのものにネガティブな感情は持っていないのですが、AIを「物作りを避けるための言い訳」や、「人間のアーティストを雇わない言い訳」として利用してしまうことに対する懸念は抱いています。

それを踏まえた上で私のクラスメートたちが話し合ったのは、「一種のサポートとしてAIを活用できる方法はないか?」ということです。

私のクラスメートが、実際にAIをアシスタントとして使うことで脚本の書き直しを行ったことがあると言います。

AIそのものに脚本を書かせるのではなく、彼はまず自分の手で短編の脚本を書き上げました。それをAIに読ませ、それぞれのキャラクターの特徴や性格を箇条書きにしてもらったと言います。そして、自分がAIに読み取ってほしかった内容と、実際にAIが読み取った内容に食い違いがあれば、それは自分が表現したかったことが表現しきれていないということを意味します。そうして彼はAIのフィードバックをもとに、脚本の書き直しを行ったそうです。

このように、自分の作品にフィードバックを与えてくれる存在としてAIを利用すれば、作家としての主導権をAIに奪われることもありませんし、むしろ自分の作品を客観視する手助けになると思います。

そのため、AIをアーティストそのものとしてではなく、フィードバックを与えてくれるサポートの役割として活用していけば、私たち人間のアーティストの成長にもつながると思うのです。

まとめ

どんなアートも決して無からは生まれないので、AIも人間も、他人の作品をコピーすることで新しい作品を作り出すという点では、特に変わらないように思えます。

しかし、オリジナリティとはアイデアの個人的な取捨選択から生まれるものであるため、どこまでAIがパーソナルな感情やモラルを持って作品を作ることができるか、という点に私は疑問を抱いています。

これからは誰もがAIを活用するようになっていくと思いますが、「どうやって使えば私たち人間のためになるのか?」を常に考えながら、誠意を持って活用できるようになればいいなと思っています。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。
それではまた!

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