言わない方がいいのに、言わずにはいられない、地方移住の話
「誰も言わないけど、これって○○なんじゃ…?」
と、モヤモヤすることって、ないだろうか。
「誰も気づいてないなら、ひとつの視点として、とりま共有しておいた方がいいのでは…?」
さしでがましくも口にして、場が凍りつく。
そして、やっと気づく。
「これ、言っちゃいけないことだったんだ…!」
みんな気づいているけど、言ってはいけない。
あるいは、あえてモヤモヤのままにして、言語化に踏み込まない。
そういう聖域に、わたしは土足で踏み込んでしまったのである。
こういうとき、ドラマなら凍りついた後、それによって場が動き出し、「よくぞ言ってくれた!」とスカッとする結末に向かうこともしばしば。
でも現実は甘くない。
凍ったまま時が流れ、溶けたとき、その発言はなかったことになる。
多分、もう一回言ったら、自分もこの場からなかったことにされる。
そう察して、もうそれ以上は言わない。
これって、「誰もやってない商売だからブルーオーシャンじゃん!」
という勘違いに似ている。
いまどき、誰もやっていない商売は、ブルーオーシャンではなく、大抵は需要がないか、採算が全く取れない商売だ。
誰もがやっても続かないから、そこは空いている。
テナントが入っては潰れる、呪われたように見える立地もあるが、そういう感じ。
「ないなら、わたしが」思考は、大変危険だ。
「みんなが言いたいけど言語化できないことを、言葉にしてあげる」
ことは、成功する表現の基本だが、
「みんながあえて気づかないために言語化しないことを、言葉にしちゃう」
は、その人の権威が、大衆の反発を押さえつけるほどの威力を持たない限り、身を滅ぼす。
なぜなら、叩く人は「気づかない」ことが目的なので、自分がその発言者に攻撃的になる本当の理由に目を向けることはなく、まったく別の理由と結びつけてしまうため、話が噛み合うことはないからだ。
でも、である。
一度でも、アートの雷で打たれた人間が心惹かれるのはどちらかといったら、
断然後者。
じゃないだろうか?
表現者のプラットフォームのnoteなら、この衝動に共感してもらえるんじゃないかと思って書く。
わたしは言いたい。
「ねえ、最近の田舎移住ブームって、地元の生活者から見たら侵略者じゃない?」
ああ、どうか、怒らないでください。
いや、怒ってもいいから、怒ったまま読んでください。
そもそも、わたしもそっち「移住したい」界隈の人間です。
そして、市民力の高い新住民によって文化が書き換えられていく新興住宅エリアの古くからの地元民の家系に嫁ぎ、
新住民側のイベントに中の人側として関わり、そのエリア全体のタウン誌のライターをしています。
どっちにも重なっている存在として、この温度差、世界の見え方の違いをずっと肌で感じてきたのです。
急に敬語になるけど、この先祖代々その土地にいた人たちの世界の見え方を経験すると、
「田舎移住ブーム」に、「アメリカ大陸発見」からのゴールドラッシュへの流れと同じものを感じずにはいられません。
もちろん、もともと住んでいた人が中心になって地元を盛り上げようという活動に沿った移住希望者もいます。
けれども、いわゆるイケイケ起業系の「次にうまみのある投資先はどこだ?」という方々の投資候補として、
今資産価値が評価されていない田舎に見出す「将来性」は、この地元民のカメラから見ると、「侵略者の思考」そのもの。
これまで共有財産だったものに、全て値札をつけられ、交換価値化されるに伴って、「わたしが管理してるけど、あなたが利用してもいい」という、近隣でゆるやかにつながっていたものに線が引かれる。
なんとなくみんなのもの、だったものが誰かのものになっていく。
たとえば、地域の名産が、見知らぬ若者がクローズアップされて、注目されるのを見る。
それってずーっと受け継いできた多くの作り手があってのことなのに、記事のタイトルコピーに
果樹園を「再生」
とか、なんか勝手に自分らの仕事が「過去の間違ってたもの」扱い。
それは、アメリカ大陸を「発見」し、そこにあった元の文化を「野蛮」扱いしたのと同じ思考回路。
そういうのに「奪われる」感覚をもつのって、ごく当たり前の人情なんじゃないかなあと思うわけです。
(この感覚は、自分がタウン誌の記事を書くときに、一番大切にしています)
今、環境問題は、人間が引いた線とは無関係に地続きであり、所有者責任を問われる時代に向かっています。
「線を引いて自分のものした範囲内は、自由に使っていい」発想は、もはや古い、通用しません。
一周回って、都市部に流れた人たちが嫌遠した、干渉し合う社会、すなわち「ゆるやかにつながる」ことを基本とする古い地元民の知恵の価値が、見直されてきているのです。
自分達が所有権を持つ土地の外側に無関心なまま、リターンの最大化を求める思考は、最終的にどうなるでしょう。
お金を落とす人をどんどん外から呼び込むことは、お金だけではなく、排気ガス、ゴミ、排泄物、植物や動物、菌類などの生体も入ってくることになります。
(スペインの侵略で滅んだインカ文明、実は戦争より持ち込まれた感染症の方が大きかったと言いますし)
ブームは永遠に続きませんが、こうして入ってきたものは、その土地に残り、環境を変えます。
そのとき、「移住者」はその変化を引き受けるでしょうか?
より「自然豊か」な、あるいはリターンが得られそうな土地に旅立つのでしょうか?
たぶん、地元の方々はこの予感を言語化しません。
でも、態度としては現れる。
だから、移住者は試され、大変な経験もするのだと思います。
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あーあ、朝から勢いで書いてしまった。
でもねほんと、畑のサークルの草刈りすら、十人以上メンバーがいても結構大変。
高齢の男性が多いなか、草刈機がまだまともに使えない自分は、子どもいるからと色々気遣いしてもらっているのに貢献率低くて、ちゃんと「村民」したいと思っている、
自分への自戒を込めた記事でもありました。
二十代、ヨーロッパに一人旅して気づかされたこと。
「人の世は民(生活者)のもの」
根無草なりに、民として生きようと思います。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。