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なぜ、宮城リョータなのか? -失われた世代と生きた、THE FIRST SLAM DUNKとシン・エヴァンゲリオン劇場版のシンクロ率

「なぜ、宮城リョータなのか?」

それに気づいたとき、私は泣いた。
鑑賞翌日、モヤシを炒めているときだった。

公開前から鑑賞後まで、アツい映画

THE FIRST SLAM DUNKは、国民的スポーツ漫画、『SLAM DUNK』の、新作映画である。

あまりの「新作」ぶりに公開前から派手に「燃え上がった」ことも聞いていたし、公開後も賛否両論が渦巻いているのも見ていたこともあり、見た直後無条件に、最高の映画だと叫ぶことはできなかった。

単純に、伝説の試合にぶっ通しで立ち会ったという感動に呆然自失になっていただけなのかもしれない。

その瞬間確かだったのは、鑑賞中の発汗量が、わたしの全鑑賞人生のなかでナンバーワン(いや、ここは"THE FIRST"だというべきか?)だったこと。

自分もずっと登場人物と一緒にコートを走り続けたのかと感じるくらい、臨場感溢れるカメラワークに、汗びっしょりになった。

何かひとつショップでオリジナルグッズを買うなら、タオル一択だと思う。

※この投稿は、一部ネタバレ(原作・エヴァの旧・シン劇場版を含む)を含みます。


26年ぶりの新作映画の選手交代へのざわめき

で、なぜ宮城リョータなのか?

多分、賛否両論の一端は、ここにある。

声優が変わった。自分の推しの名シーンがカットされている。
なぜ、自分の推しを退けて、リョータが出しゃばっているのかと。

わたしも連載時から揺るぎない赤木城兄弟推しなので、「魚住toゴリ」と「桜木to晴子さん」のエモすぎる名台詞がなかったことは心底残念に思った。

でも、今どき観覧者が試合中にコート脇に勝手に降りてくるとか、緊張感あふれるリアルな表現で描くには、ちょっと違和感がある。たぶん、わたしが監督でも(泣く泣く)削るだろう。

にしても、連載時の人気投票では、花道、三井、流川の不動の三強(ゴリがいないのは、別格だからだとファンとしては信じている…)の誰でもない、宮城リョータを主役として再編集したのは、なぜだろう?

わたしは鑑賞直後には、それが分からなかった。

井上雄彦は、天才ですから。

井上雄彦は天才だ。
天才とは「99%が才能」のはずだ。

わたしが分からないだけで、「そうである必要があった」

そう考えるしかない、と謎を抱えたまま歩いた。

…推しキャラの名シーンを満遍なく見せていく、ファンサービス映画へのカウンター

…経済的・身体的ハンデを負った、恵まれぬスポーツマンへのエール

そうなのかもしれない。でも、それじゃ普通だ。ちょっとやりすぎにも見えかねない不遇な過去や結末を入れたのは、そんな浅い理由ではないように思えた。

あらためて作品を反芻すると、どの主要キャラもどこかに「自分は何者か?」という自意識を支える拠りどころを持っている。

小学生の頃から全国制覇を目指していた赤木 剛憲。
中学MVPという栄光時代を持つ三井 寿
同じく中学時代からスタープレーヤーだった流川  楓
そして驚異的な身体能力を持つ自称天才の主人公、桜木 花道だ。

宮城リョータは、「神奈川県内でも五指に入るガード」と称される実力者である。が、上の4人の「圧倒的な何か」を前に、自意識の拠りどころとしては機能していないように見える。

それなりに自信はありそうではあるが、それも兄の受け売り、「平気なフリ」であったことが映画のなかで明らかになった。

宮城リョータだけが、並ぶ5人のなかでただ一人、全く違うメンタリティを持っていた。

この不遇にも、圧倒的才能の代わりに圧倒的罪悪感を携えた彼が、「チビの生きる道」を見出すまでの過程がこの作品の背骨なのである。

スラムダンク世代の「リアル」

スラムダンクの連載が始まったのは、1990年、バブル崩壊の前夜である。まだ自分は何者であるかかについて、神話が機能していた時代だ。

自らの才能を発見し、圧倒的な努力を重ねて一番になれば、何者かになれる。そう教わってきたし、そう信じることができた。

連載が終わったのは、1996年。その前年はあの1995年だ。

阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件など、物語を崩壊させる大事件が重なった。ウィンドウズ95が発売された年でもあり、まさに歴史のターニングポイントとなった年である。

そんな折に結末を迎えることになったスラムダンクは、全国制覇を達成せずに物語の幕を引いた

奇跡は起きても、夢が叶うとは限らない。

主人公の「栄光時代」の先に広がっていたのは、向こう岸の見えない砂浜だった。

それでも、自分が何者であるかを信じて生きようとする主人公の言葉が本当にリアルで、同世代の読者の胸を突き刺した

読者の「リアル」と共にあり続けた井上雄彦は、本当に天才だと思う。

もうひとりの天才との共通点

この同じ年に、同じように神話を破壊した有名な作品がある。

新世紀エヴァンゲリオン」だ。

最終話の放映日は1996年3月27日、翌年から翌々年にかけて、映画であらたなる結末も提示された。

この2つの作品の共通点に気づいたとき、わたしはゾッとした

エヴァもまた、スラムダンクと同じように「奇跡の先に夢の実現はなかった」結末だったのだ。

作家自身が着地点を見いだせない苦しみや、崩壊した神話が見せる夢の中で生き続けようとする人たちへの怒りすら感じさせた旧映画版のラストもまた、ヒリヒリするほどリアルで痛かった。

あれから25年

待望に待望を重ねて迎えられた新(シン)作のラストで示されたのは、

背負わされた親の罪と夢を、自らが大人になる過程を通して昇華するという道だった。

「押し付けられたものを糧とする」、と言い換えてもいい。親の救済を通した自己の解放。

ん?もしかして、これTHE FIRST SLAM DUNKの宮城リョータの見出した道と、同じなんじゃない?

ロスジェネが救われる、たったひとつの方法

失われた世代、ロストジェネレーション、訳してロスジェネ。
就職氷河期のセンターをキメてきたわたしたちはそう呼ばれてきた。

わたしも大学最後の年にゴメンなさい連続100社を達成し、心おきなく卒業した生粋のロスジェネである。

そんなわたしたちも中年になり、もはや誰もロスジェネだなんてカタカナでは呼んではくれない。自分自身のなかですら、完全に死語だ。

でも社会にフラレ続けながらも、親の期待に応えられなかった罪の意識を背負いながらも、わたしたちもまた25年、なんやかんやここまで生きてきた。

わたしたちは、仲間のために命をかけられるほど連帯していないし、すべては親ガチャにはずれたせいと、割り切ることも苦手だ。

「じゃあ、わたしたちは、どう生きればいいのか?」

その問いのアンサーが今、25年越しで書き換えられたふたつの作品のラストでシンクロしている。



なぜ、宮城リョータなのか?

もうその理由を問う必要はないだろう。

言葉にすると安っぽくなってしまう気がするけれど、あえて書く。

宮城リョータこそ、わたしたち失われた世代の代弁者なのだ。


天才たちのシンクロするラストが浮き彫りにする世代交代

なんという、シンクロ率の高さだろう。リョータはプラグスーツを着ていない。名前はカタカナだけど、仕組まれた子供でもない。

もはや、天才の神経がどこか異次元でつながっているとしか思えない。

一方で、この視点で捉えればスラムダンクもエヴァンゲリオンも、あたらしい結末に賛否両論があったのは、必然の出来事に見えてくる。

神話が既に茶番だと悟っている今の若い世代には、親の尻拭いなんてダサさしかなくて、さっさと自分のために生きろよと、どこかイライラするんじゃないだろうか。

そんな彼らを代弁する天才的作品(何とは言わない)の結末は、オリジナルのスラムダンク・エヴァンゲリオンの結末の上位互換的な雰囲気があって、「諦め」を越えた「達観」が感じられた。

「Z世代」の宮城リョータは誰だ?

さて、そんな「達観」する少年たちにも、25年後はやってくる。いつかは中年になるのだ。もはや「Z」だなんてかっこいいアルファベット一文字では誰も呼んでくれない未来だ。

そのとき、主人公として新たに立ち上がるのは誰だろう?

予算が取りやすいという理由もあってか、過去の名作の再構築が表現のひとつとして定着しつつあるので、きっとこの時代の名作もいつか新作が作られるのだろう。

新作よりも新装に吸い寄せられる自分の中年ぶりは、ちょっと苦いけれど、天才と一緒に時代の移り変わりを歩くのは本当に感慨深く、「この人と同時代を生きててよかった」と思う。

年下に失礼だけど、どうか諫山先生が、健康でありますように。
あ、言っちゃった。

※ 画像はStable Diffution2.1に、宮城リョータの身体的性格的特徴をプロンプ的に入れて生成したもの

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。