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小4からはじめる人生

たいした功績が本人にないので、誰も聞きにこないけど、「なんか持ってる」っていうその人感、強さ、エネルギーのようなものがある人間の共通点として感じていることがある。

それは、10歳から14歳までの商売経験、あるいは家庭崩壊である。

もちろん、全員なんてことはあり得ないし、リストとして保存してるわけじゃない。

でも、「この人なんかある」「ただならぬエネルギーを感じる」「カタギじゃないレベルの圧」等、その人としての輪郭がハッキリと感じられる人、骨太な主体性が滲み出ている人、あるいは本の著者や著名人などで「この人なんか超えちゃってる」と思う人の自伝を読むと、

大抵小4あたりで、

「父が失踪しました」とか、
「父の事業が失敗して生活が一変」とか、
「親が離婚」など、

これまでのあたりまえ=安全地帯が崩壊するか、

「親の店で働く」
「近所の家の草むしりなどの手伝いをして小遣いを稼ぐ」
「自分で作ったものやパフォーマンスでお金をもらう」

などのお金を稼ぐ経験を、社会人として仕事を得られる年齢の前に社会デビューをしている、

という共通点がある、と感じるのだ。

家庭環境の方は難しかったけど、お金を稼いだ経験については、Chat-GPTで軽く聞いてみました。一次ソースを見てないので、嘘かもしれません。

この二つに共通しているのは、

「守られた世界の外に出た」

ということである。

前者は「投げ出された」という受動態で、後者は「飛び出した」という能動態という違いはあるけれど、

とにかく「子ども」として社会的な制度で守られ、規定された生活、その外の世界に身を晒している。

なぜそういうことを思うのかというと、自分自身がそうであり、違和感を感じてきたからだ。

だからこれは、間違っても「成功者の条件」ではない、成功者のなかに、一般の人と同じように、社会に投げ出された人がいて、著名故に経歴として確認することができるだけだ。何の証拠にもならない。

ただ、昨今「自分らしく生きる」などさまざまな言葉で、求められている生き方に深く関係している、生きるのに重要な要素ではあると思う。

生きている実感、生命の息吹のような尽きることのない底なしのエネルギー、「自分を生きてる」確らしさ、揺るぎない自分軸のような個としての重心感覚、

守るべき一線あるいは美意識のような自己の境界感覚は、正直探すまでもなくあって、むしろそれがあるが故に組織に馴染めず苦しんできた側の人間として、これを思うのである。

過去の偉人も多いですが、この頃はそれが普通だったとも言えそうです。
昔の人の方が近隣でもキャラ濃い人が多いという意味では当てはまっているとも言えそうですが。
「4」はただの押し間違いです。

10歳は、スポーツの専門的訓練を始めるのに最適とされたり、抽象概念が扱えるようになり、自分自身についてや他者と比べたりすることができるようになる、大人への一歩を踏み出す年齢である。

その、変容のはじまりにある薄皮のような輪郭を、親が与えた当たり前の再構築が行われる多感な時期に、学校のような建前の世界ではない、社会のリアルに晒したことがあるかどうかが、ずぶとい自我の形成に作用しているのではないか、というのがわたしの見立てだ。

学校で求められるのは、均質な品質を保ちながら、他人を不安にしないレベルでちょっとだけ優れていることであり、

そのかわりルールを破るなど、意図して悪いことをしなければ、傷つけられてはならないとされている、守られた世界である。

でも実際には社会はそんなふうにはできていない。

悪意はない行動が人を傷つけるし、意図した悪いことも、法をまたがなければ罰は下されない。

多くの人が公務員や大企業を目指すのは、社会のなかであっても労働者が学校のようにある程度守られるからだろう。

学校メイドな経歴は、自分の輪郭を大人になるまで社会に晒すことがないので、守られた「あたりまえ」の型に、輪郭がピッタリ張り付いてしまう。

それを一度も剥がしたことがない人が、大人になって初めてその「あたりまえ」を剥がすなら、無傷ではいられないはずだ。

最近は政府も複業や独立を促す流れがあるけど、それを若い頃にしたことがない人が、組織の外に個人の輪郭を晒すことがどれほど困難なことかって思う。

アメリカ人は、日本人より輪郭が濃ゆい印象があるけど、彼の国ではレモネード販売など、子どもの頃から近隣の人相手にものを売ったり、リアルなお金のやり取りをすることが普通のことのようだ。

映画でも、そのようなシーンをよく見る。家庭崩壊率の高さはあまり指摘したくはないけれど、「あたりまえ」の外に出る経験は、日本よりも多そうだ。

もちろん国民性や文化の違いもあるだろうけれど、日本人であってもそういう理由で輪郭のずぶとさを感じる人がいて、組織では生きにくいけれど、昨今は逆に求められても来ているようである。

で、うちの子どもたちが、ついに二人ともこのシーズンに入ったわけで。

わたしは、何者になるかはさておき、丈夫な個人の輪郭は、社会のなかで感情を殺さずに人生のあれこれを味わい、楽しみ尽くすために必要な精神的な皮膚環境、すなわち心身の一部であると考えている。

昔は、それを持つことはしんどいシーンも多かったけど、みんな同じでいい制服のような皮膚が機能しにくい多様性の時代には、積極的に持っても良いと思っている。

というわけで、もう、十分安心安全じゃない生活を提供している気もしないでもないけど、軽くリアルに身を晒すことを策して、子どもたちにある提案をしてみた。さあ、どうなることか。

失敗を静観できない覚悟で始めると、大人が仕組んだ機会であること自体が、得られるはずのものを台無しにする危険もある。

これは隣の同年代の誰かと並べられたり、成功体験だけを成果としてPRする必要があるような教育ビジネスには提供困難、産業を含む制度ではフォロー不可能な経験だ。

ある意味、親の輪郭の頑丈さも試されるのかもしれない。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。