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「井戸」はどこに行った?

「井の中の蛙」という言葉がある。

いのなかのかわず
ゐのなかのかはづ 【井の中の蛙】
「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」の略。他に広い世界のあることを知らずに、自分のまわりのせまい範囲だけでものを考えていることのたとえ。

Google「井の中の蛙」検索結果- Oxford Languagesの定義

世間を知らないまま、自分が見えている物が全てだと思い込んで自分の無知を知らないままでいる。

自分のことを言われているようで、20代は耳の痛い言葉だった。

あんな小さな井戸で得意になっていた自分が恥ずかしい。

誰か教えてくれてもよかったのにと悔しい。井戸のバカヤロウ、と思った。

しかしその考えは親になって180度変わった。

今のわたしには、カエルの住む「井戸」は、この世界から失われつつある「サンクチュアリ」のようなものだと思える。

というのは、今の子どもたちは、あまりにも早く夢をくじかれてしまう。

隣の芝生はいまや物理的なお隣さんを越えて国境の向こう側まで広がっている。親も親バカでいられない。

そういう自分に気づいてしまったからだ。

インターネット、YouTube、コンクール、一斉テスト…。

得意を伸ばそうと最初に飛び出すフィールドがでかすぎる。

ちょっと参考にしようと思って仲間を探すと、圧倒的な才能に溢れた子どもの動画がヒットしてしまう。

1年頑張った習い事の級の伸び率が、実は普通の子が3ヶ月も経たずに到達するレベルだったという事実を何かをググったついでに知ってしまう。

これほんと、まじで、せつない。

自分はずっと絵と文章を書くことが好きだった。

自分から何かに応募したことも推薦されたこともないから賞状をもらったことはない。

それでも、クラスではだいたい「絵が得意な3人」「作文が得意な3人」のうちの一人に入っていたから、自分にはその才能があるんだと思い込めた。

もちろんその心の拠り所は大人になって粉砕されるんだけど、それでも10代を捧げてきた趣味は、その道のはしくれとして仕事にできた。

それは多分、10代の期間「学校のクラス」という、小さな「井戸」に守られてきたからだ。



もし今の時代に生まれていたら、もう絵も文章も書いていなかっただろう。

その分、安定した仕事について親には心配かけずに済んだかもしれないけど、今の人生はけっこう気に入っているから、

わたしはだれかの「井戸」の守り手でありたい。

と、ときどき宣言したくなる。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。