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ねお@限界コピーライターという人格ができるまでの29年と11カ月について

2022年5月25日午後21時3分

私はあと数時間で30歳になるそうだ。
どこか他人事のようなのに、どこからともなく湧いて出た焦りと共にこの29歳と11カ月を思い返すことにしよう。

1992年5月26日、私という自由な体と紙切れ一枚で人としての権利を得る

0歳当時。顔がでかいが面影はある。

徳島県で呉服店を営む家族の一員として3600g越えのビックベビーが誕生。
ちなみ母はこの出産による大量出血により輸血レベルの大惨事だったと今でも文句を言ってくる。おかん、すまん。
記憶がないベイビーの頃から人騒がせなやつという立ち位置は変わらなかったようだ。

幸か不幸か、白黒の悪魔と籠にボールを投げ込むスポーツに出会う

5歳当時。ピアノに夢中。

2歳の頃から後にも先にも私の人生を蝕み、そして何度も多くの人と出会うチャンスをくれたピアノ。
ちなみに私はこいつのことを“白黒の悪魔”と呼んでいる。

悪魔に魂を売ったおかげで今後の人生を変えることになるとは、この時は考えもしなかった。

そしてもう一つ外せないのは、籠にボールを投げ込むスポーツことバスケットボール。
父がミニバスケットボールのコーチをしていたせいで9歳から半ば強制的に入部させられたものの、なぜか青春時代と呼ばれるほぼすべての時間をこれに溶かしてしまった。

試合中は人を殺すような眼をしている。完全にゴリラだった。

ちなみにどちらも県レベルなので自慢にはならないが、ピアノは個人コンクールでトロフィーを頂いたり、バスケットボールでも大会個人賞や県の選抜選手に選出して頂いたりするくらいには頑張った。
ピアノもバスケットボールもなんだかんだ言いつつ18歳高校卒業までずっと続けたが、13歳時点で「私にはピアニストにもバスケットボール選手にもなれるような才能がないな」と早々に悟っていたため、ピアノ調律師への誘いとバスケットボールの強豪校への高校スカウトは丁重にお断りすることになる。
我ながら賢明な判断だったと思う。

高校入学スカウトを無視してTHE普通の進学校に自力受験

17歳くらい。姫カットで縦ロールツインテールがトレードマーク。バスケでほぼ坊主みたいな髪型してたのが嘘のようにロリータや姫ギャルファッションをむさぼっている時期。

ピアニストにも調律師にもバスケットボール選手にもなれなかった私は、自分の手でつかみ取れる最善の進路を模索した。
英国はそこそこ、行動力は満点、数学は赤点。
そんな私がああでもないこうでもないと言いつつ導き出したその答えは…

(経営はあとから覚えられる。
呉服のこともあとから覚えられる。
では4年間かけて何を学べばいい?
斜陽業界かつ過疎化の進む徳島で
このちっぽけな呉服店を立て直すには…
そうだ、“作れる能力”が足りねぇよ自分。)

そうと決まれば行動力だけは満点の私。

「私、家業の呉服屋継ぐために着物を作りたい!工芸系の芸術大学に行きます!」

誰もに国公立もしくはそこそこの私立大学への進学を望まれていた私が急にそんなことを言い始めるとどうなるか?
もちろん、まさかの答えに家族はびっくり。
とはいえその件に関しては、私が急に行動するのをよく知っているのでわりと早めに飲みこんでくれた。

しかし生徒指導・進路指導・当時の担任に毎日呼び出され、「お前は国公立に行け」と繰り返す担任には、両親が学校に乗り込むまでのバトルを繰り広げる日々が続くこと2年半…。
そして意思を曲げない私に大人たちが呆れ返るころを見計らい、半ば強行突破で大学受験、そして合格。
やっとの思いで京都の某芸大に進学することになったのだ。

Q.『大学4年間を使って頑張ったことは何ですか?』A.『バンド活動です』

織機に翻弄される21歳の図

私はどこから踏み間違えたのだろう。
入る気もない軽音楽部の新入生歓迎会になぜか連行され、その場でいきなり4回生の先輩にバンドに加入させられた19歳の私は本当に馬鹿だと思う。

バンド活動にいそしむ。これほどまでに「ピアノを弾いていてよかった」と感じた時代はない。

そこからは優しい悪夢の始まりだった。
バンドを3つ掛け持ちし、歌ったり鍵盤弾いたり、授業をサボってスタジオ練習したり、ライブハウスでステージに立ったり…
その間に彼氏という名の糞ニートや糞メンヘラ男が家に住み着いたり、バンド資金のために飲み屋で働いたり、まるで森見登美彦の小説のような事態が多々発生したりと色々あるのだが、そこは長くなるので割愛しようと思う。

私立芸大に行った親不孝者の末路

3回生も終わりを迎え、桜がちらちらとしてきた4月の頭。
春休み中の寝ボケた私にかかってきた1本の電話で、世界がひっくり返るような出来事が告げられた。
まあ簡単に言うと、家族が半分空中分解したとでも言っておこう。

大荒れしていた22歳の図。猫によってどうにか自我を保った。

その電話を受けた足で徳島行きの高速バスに飛び乗り、家のドアを文字通り蹴破るくらいには荒れていたと言えば少しは私の怒りを納得していただけるだろうか。
そんなこんなで、人生で初めてグレそうになったがいくら拗ねても泣いても怒っても事態は変わらない。
かくして就活真っただ中でもうすでに内定をいくつか頂いていたにも拘らず、4回生になるタイミングで進路を変える必要が発生したのだった。

「私、実家継ぐためだけに自分の進路諦めたのに、これからどうすりゃいい?」
そう自問自答するわりに、答えはすでに決まっていた。

「わたし、文字で生きていきたい」

もちろんこれには大学の先生も親も親戚も一同驚愕。
そりゃあそうだ。
実家を継ぐ約束で大金つぎ込んでせっかく私立の芸大に行ったのに、挙句の果てに継がないというのだから田舎では超御法度だったであろう。

大好きなチョコレート屋さんにて。22歳

しかし、やると決めたら自分が正しいことを証明しないと気が済まない性格が祟り、周囲の反対やら白い目やらなにやらを全て無視。
自らに課したミッションは『家族関係の立て直し』と『学歴に縛られない自分のキャリア再構築』
そのために実家に戻り、徳島県の地方情報誌を作る会社に滑り込み入社することになるのだが、そこに地獄が待っていることなど誰が想像しただろうか。

たった3人で月刊誌を作る部署なんて聞いてません!

一番おきにいりの写真。カメラは本当に下手で才能がなかった。

意気揚々と入った会社は紙の雑誌にこだわる昔ながらの地方情報誌出版社。
ここでの仕事はライティングのみならず、取材、カメラ、仮版組み、企画立案、広告営業、できた雑誌の配本から本屋さんへの集金に至るまで全て自力で行わなければならない。
当然、領収書と請求書の意味すら分かっていないおバカな平和ボケ野郎だった私には何が何やらチンプンカンプン。
さらには泊まり取材や早朝からの取材が重なれば、25連勤12時間勤務(そして裁量労働制なので残業代はなし)という闇中の闇のような労働環境。
その上そこそこのボリュームの月刊誌をたった3~4人で作り上げろと言うのだから今考えると相当おかしいことが分かる。
流石の私もこれは体を壊すと思い1年経たずに退社を決意するのだが、私が辞めるタイミングで同期も一人残らず辞めていったというのが最大の答えだろう。

それは1本の電話から始まった


糞ニートを楽しみ過ぎて笑顔が止まらない

それから数カ月はニートを楽しみ、さすがに本を買う金も尽きてきたのでカフェでアルバイトをしながら今後の身の振りを考える日々が続いた。
しかし、大学生の時に同じバンドで活動していた元メンバー兼親友からの1本の電話で私の人生はズゴゴゴゴゴと音を立てながら動き出すことになるのだ。

「もう一回バンドやりたい!東京来て!」
「そっかあ、じゃあバンドやるべ」

未婚のフリーター。縛られるものがない私は、最高に馬鹿だった。
そこからは友人の家に入り浸り都内での就活を決行。
徳島と東京を行き来しながらの無謀な挑戦を経て、仕事も決まらないまま横浜に賃貸を借りた。

無謀にもほどがあるぜ

そして引っ越し日は奇しくも自分の誕生日だった。
一人ぼっちでアートさんの段ボールに囲まれながら金ナシ仕事ナシ彼氏ナシの女は考える。
「あ、家賃どうしよ。明日からどうやって暮らそう。」
そうやって長いこと天井を見つめていると、ふと携帯が鳴っていることに気づく。
6コールほど置いて出た先は喉から手が出るほど欲しかった『内定』の電話だったのだ。

無鉄砲な田舎者は広告マンの夢を見るか?

見事なヤニカス

そして私が次に選んだ職はというと、THE社訓叫んじゃう系ベンチャーゴリゴリWeb広告代理店のコピーライターだった。
コピーライターといえども、みんなが想像する糸井重里のようなカッコいい仕事ではない。
泥臭く商品を売るための記事広告を量産する“セールスコピー”の世界に頭の先から足の先まで浸かっていくことになる。
言われるがままがむしゃらに利益を追求し、数字を追いかけまわす日々を約2年。
月2000万以上の粗利を会社に作っているのに上司に嫌われていたため評価は上がらず、それが悔しくて「24時間働けますか!?」を体現したのが祟り、耳が聞こえなくなったり、めまいで立てなくなったりと急にエンジンが停止。
そんな大ピンチの私に降ってきた選択肢は“結婚”だった。

バンド内恋愛、稀に見る成功例

このバンドやってた時が一番楽しかったかも

今の主人は関東に出てきてから一緒に組んだバンドのベーシストだ。
私の一目ぼれから半年間アプローチを続け、やっとの思いでお付き合いに至ったその日に彼から「結婚を前提に…!」という宣言を受けていたため、1年足らずで結婚を決めたのは早急ではなかったと思う。(だっていわゆる運命の人だし)
2017年12月31日にプロポーズもなく「よし家族になろう」と結婚を決め、翌日2018年1月1日に両家両親を集めて焼肉を焼きながらいきなり「結婚します」とサプライズ報告。
もちろん一時騒然となったが許しをもらい、私は今まで勤めた代理店を寿退社することになったのだが…。

自分が『社会不適合者』だということが分かったのは、結婚してからだった

長いトレーンのドレスがどうしても着たかったんだ・・・!!!

結婚後はのんびり主婦生活がやってみたいと思い、夢の派遣OLになってみた。
しかし、決定的に社会人として足りないものがあることにようやく気づいたのだ。
それは「毎朝起きて準備して会社に行って嫌な人にも笑顔で挨拶する」という“普通”と言われるスキル。
そして、伝票を入力し続けたり営業マンにへこへこ内線でお伺いを立てたりする仕事に価値を見出せなかったこと。
(別にすこぶる仕事ができないわけではないと高を括っていた当時の私をぶん殴りたい。)
そしてそんな毎日の『つまんねぇな』が積み重なっている私はまたライターへの道にズブズブと戻っていくのである。


「もしかして私はドマゾかもしれない」と気付いたこと頃には遅かった


ぶっ倒れる直前。髪染めて派遣先で超怒られた図。

ライターの仕事はエナジードリンクみたいに元気の前借ができるようだった。
これまでの無気力生活が嘘のようにフルタイム派遣+複業ライターの生活はこんな感じ。

⇒朝6時に起きて書く
⇒身支度して派遣フルタイム出社
⇒18時に帰って家事やって21時~3時までまた書く
⇒3時間だけ寝てまた繰り返し

という修行僧のような生活。もちろん土日もひたすら書き続けた。
しかし、みなさんお気づきだろうか?
この生活に私の自由時間は1分もなく、好きなことをする時間も余裕も何かを考える隙すら無いことを。
案の定、それから半年後にぶっ倒れたのは当たり前と言えば当たり前だっただろう。

共倒れしなければわからなかったこと

一番しんどかった時期。2人とも目が死んでて草。

時を同じくして旦那も仕事で悩んでいたのだが、お互いにお互いを思いやる余裕など全くなし。
私がぶっ壊れるのがタッチの差で早かっただけで、すでに限界がきていたことに気づけていなかった。
そんな中、眠剤と抗うつ剤で車の運転すらできなくなった私の世話+家事+思うようにいかない仕事を抱えていた彼の気持ちは計り知れない。
終わらない話し合い、見通しのつかない未来、「このまま別れた方がお互い幸せなんじゃないか?」というくらいにまではお互いを切り刻む毎日。
そして私たちが出した結論は『もう世間体とか我慢とかやめよう』だった。

徳島移住、そしてコロナ禍

私はもう勤めに行くビジョンが全く見えなくなっていたのでフリーランスのセールスコピーライターとして独立したい。
そして旦那はずっとやりたかったけど諦めていたという自動車整備の学校に通いたい。
しかしさすがに神奈川県で鬱ヌケの病み上がりでいつまた落ちるかわからないフリーランス1年生(さらにクライアントはゼロ)が学生を養いながら賃貸を借りるというのはさすがにハードモードだったので、2019年の12月に恥を忍んで私の実家に移住を決めた。
そして来る2020年。
コロナのまん延により思うように営業活動が出来なくなっていた私が、広告業界の愚痴を言うために作ったアカウントから“ねお”という人格が形成されていく。

2020年7月、限界コピーライターねお誕生


開設当時は全顔出ししてなかった。

Twitterでは顔出し名前出しなしで愚痴ばかり言おうと思っていたのだが、なぜかあれよあれよとビジネスアカウントに。
そして気づけば今ではTwitterからの問い合わせやTwitterでつながった方からの紹介でお仕事をもらえるようになる。(これは運が良かったとしか言いようがない)
そして、今では主軸になりつつあるコンテンツSEOチーム“NeoWritingWorks(通称NWW)”が出来たのもTwitterから。
こうやっていろんな人に支えられながら毎日を過ごしているのだ。

今やっていることとこれからやりたいこと


呉服屋のルーツは忘れていないので和服すき。

現状のお仕事はこんな感じ
▶商品を売るためのセールスコピー
▶WEB構築支援
▶SEO・コンテンツライティング量産
▶リアル店舗のプロデュース

そしてこれからは食品を売るお仕事を立てていくつもりだ。
「日本人ならまずは米だ!」と勇み足で田んぼを契約してしまったのは我ながらファンキーである。
今後またTwitterでも告知をしていくので興味がある方はぜひ。

これが私の29年11カ月だった

本来はまだまだぶっ飛んだ話が盛りだくさんなのだが、気になる方は直接話しかけてもらえれば適宜面白おかしく喋るので気軽に声かけいただけると嬉しい。
これが私のTwitterアカウントだ
https://twitter.com/neogenkai_copy
ついでにフォローやリスト追加もしてもらえると飛びあがって喜ぶこと間違いなし。
この糞長い自分語りを最後まで読んでくれた奇特なあなたはもう『限界コピーライター ねお』に興味が湧いているはず。

それでは最後に一言
\\フォローミー//
https://twitter.com/neogenkai_copy

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