人の価値って一体いくら?功利主義とは
チャオズ!どうも、餃子くんです。
今回は、「正義」とはなにかという究極の問いに挑んだベストセラー本である、マイケル・サンデル著・鬼澤忍=訳『これから「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(以下本書)を読んで、正義への3つのアプローチのうちの1つ目、功利主義について書こうと思います。
▼▼▼今回読んだ本▼▼▼
それでは、さっそくいってみよー
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「人の価値は600万ドル(ざっくり6億円)」
あなたは、この値段、高いと思いますか?それとも安い?
まあどっちにしても、この値段誰が決めたのって話ですよね。
著者によると、この600万ドルという値段は、政府機関が大気汚染基準や健康安全規則を定めるためによく用いるものだそうです。この内訳はおもに、犠牲者が将来得るはずだった金額、医療費用、葬儀費用、犠牲者の苦痛、将来得るはずだった幸福などで、諸項目の合計が人の価値として算出されています。そして、それが公的であるという。。
話は戻りますが、安いと思ったあなたは美徳なひとだと思います。なんせ「安い、強いては人に値段をつけること自体が美徳に反する」というのが、これから説明する功利主義に対する批判であり、あのイマヌエル・カントの主張するところでもあります。そして、それが正義へのアプローチの3つ目に数えられているものでもあります。
今回は、功利主義の話をしますから、この「安い」という感覚に対して数字によって反論した本書中の具体例を説明します。そののちに功利主義の概要(抽象)を説明し、具体⇔抽象の行き来をすることで説明をしていけたらなと思います。
具体例:1980年代の経済学者による費用便益分析
背景の説明について、本書78頁より引用します。
たとえば、自動車を使えば当然ながら人命が犠牲になるものと予想される...(中略)…1974年の石油危機の際、連邦議会は制限速度を全国的に時速55マイル(約90キロメートル)とするように命じた。その目的はガソリンの節約だったが、制限速度が引き下げられた結果、交通事故による死者も減少した。
1980年代、連邦議会が規制を撤廃すると、ほとんどの州は制限速度を65マイル(約105キロメートル)に引き上げた。ドライバーは時間を節約したが、交通事故による死者は増加した。
(本書78頁 便宜上漢数字は算用数字に修正)
この背景をふまえ、1980年代に2人の経済学者が、「運転のスピードアップによる便益が命という費用に見合うかどうか」という計算をやってのけたそうです。恐ろしい予感がしますね。。。
2人によると、
制限速度の引き上げの便益の1つを、”通勤時間の短縮”と定義。
節約された時間の経済的利益を平均時給20ドルとして計算・・・ドル
(節約額)を増加した死者数で割る・・・人
得られた結果は、154万ドル/人
したがってより速く運転する便利さのためにアメリカ人は事実上一人の命を154万ドルと評価している。
すなわち、時速10マイル(約16キロメートル)速く運転することの、死者一人当たりの経済的利益は154万ドルということになります。
詳細について知りたい方は、Orley Ashenfelter and Michael Greenstone, "Using Mandated Speed Limits to Measure the Value of a Statistical Life," Journal of Political Economy 112, Supplement (February 2004): S227-67参照
どうでしょう、皆さん。40キロ道路を56キロで走ったことがある人には、600万ドルは安いと主張することに自己矛盾を感じずにはいられなくなってしまいませんか?
ちなみに法定速度は守ってくださいね?交通の流れを乱さない程度に。
功利主義とは
功利主義・・・できるだけ多くの善を生み出すことが正しい。最大多数の最大幸福。
功利主義の理論は、イギリスの道徳哲学者であり法制改革者でもあったジェレミ・ベンサム(1748-1832)によって確立されました。ベンサムは「ある行為が最大多数の最大幸福になっているかを確かめるため、その行為の帰結として生じる効用(快楽と苦痛)を計算するべきだ」と述べ、道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の全体的な割合を最大化するものだ(本書60頁より)としました。
そしてまさに、全体の幸福が高まる(功利主義の場合経済的繁栄が主な目的)のであれば、個人の人格でさえも手段となりえるというのが、人に対して値段をつけるという行為に至ったのです。具体例に挙げた一例は、その行為への道徳的批判に対する再反論の例にあたります。暗黙のうちに「我々は人の命を評価している」という旨の計算がなされたのにも関わらず、それでもなお功利主義を批判できるのか、またそのような批判は明晰な思考と合理的な社会的選択を妨げるタブー(本書78頁)ではないのか、と主張するのがこの費用便益分析の支持者であるといえます。
しかし、功利主義を詰めて洗練したものにしたとされているジョン・スチュアート・ミルでさえも、最終的には功利主義の限界を見ていたようです。功利主義に向けられた批判の一つ「あらゆる価値や事項を単一の尺度で測り比較することは不可能ではないか」というものに応えるために、ミルは快楽の総量だけでなく、質も考慮されるべきだとしました。しかし、その尺度について「人格も無視することができない」とも述べていたことから、彼の主張も結局功利主義から逸脱せずには説明がつかなくなってきたといわれています。
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本書は、この功利主義のアプローチや、2つ目のアプローチ、個人の自由や自由市場、最小国家を主張する自由至上主義(リバタリアニズム)、3つ目のイマヌエル・カントの美徳を重んじ、人格を究極目的とするアプローチのうち、果たして「正義」を語る際に有効なものはあるのかということをジョン・ロールズの正義論の視点から考察しています。←ここまでしか読んでない。笑
今回紹介した功利主義は、道徳という側面からみると、完全というわけではありません。そして、ロールズによると正義を語る場面においても、この説は有効であるというわけにはいかないようです。無知のベール下(原初状態)では、個人は自分の目的を追求し、敬意をもって扱われたいと思うからだということだそう。
ただ、ビジネスや政治の世界においては、功利主義的判断を用いる場面はいくつもあります。たとえば、先に扱った具体例は利益との比較対象が人命という最大のリスクである一例ですが、現在ではこの費用便益分析は複数の投資の選択肢においてリスクや利益の比較などの計算に使われているなど、ごくごく一般的です。
また、政治の世界においても、我々の身近にあるものです。今回の新型コロナウイルスの感染拡大の懸念から緊急事態宣言によって飲食店やイベント会場などに営業自粛の要請が出されたのも、リスクと利害の調整による政策であったと思います。
よって、この考えが、正義にもとるといっても、あらゆる状況下において一概には否定できないものでもあるということは知っておいてほしいことですね。
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そして、正義に関しては自分がどう考えるかの指針を定めて、全体の中でどの立ち位置にあたるかなどを知っておくことはいいことだと思います。
それはつまり、自分の哲学をもつということです。
これから自らの理想へと近づいていくための道しるべになったり、考えの違う他人と対峙したときに相手を理解しようと努めるときにもあらゆる思想を知ることが一助となるのは間違いないと思います。
そのときに重要となるのは、できるだけ極論に走らないことなのではないでしょうか。自分の信ずるところだけに目が向いていては、自分の哲学をもつことで得られる効果を半減どころか著しく失ってしまい、もったいないような気がします。
哲学とは考えれば考えるほどわからなくなってしまう、でもそのような性質があるから面白いです。僕は、普段何も考えていないように見られることが多いタイプの人間ですが、実はいろいろグルグル考えることが好きです。勉強して考え方の種類を知っていく中で、今の自分にマッチするような考えがあったときには救われるような気がして、しばらくはそれに則って動いてみようと思えるのです。
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今回おそらく、これまでのnoteの中でも最長です。笑
残りの思想も今後書こうかなとか思ったけど、この調子じゃ飽きそうだな。。
まあでも、これを機に本書を読んでみるのがいいんじゃないかなと。すごい面白いです。なんでもっと早くに知っていなかったんだろうと思います。もっかい本載せときます。
▼▼▼今回読んだ本▼▼▼
図書館にも絶対あると思うので、郵送貸出サービスを調べたり、自粛緩和後に行ってみるのもいいかもです。その際は、感染予防対策を忘れずにね。
じゃあ今回はここまで。
ここまで読んでくれた人いるのかな、いたらありがとう。
君いいやつだよ。
じゃねーー