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〈デイビッド・リンチ〉的な、闇の世界

書評:ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(岩波文庫・光文社新訳文庫ほか)

本書は、西欧世界が、かつて「暗黒大陸」と呼んだアフリカ大陸との出会いにおいて、徹底的な「収奪」をおこなった、惨たらしい現場の姿を、リアルかつ抽象的に描いた名作である。

著者のコンラッドは、元船乗りとして、そうした「象牙貿易」の現場の一端を目にしており、その経験を生かして、西欧世界が、「文明の光」の届かない土地として「暗黒大陸」と呼んだ場所で、現にどのような「文明」をもたらしたのかを、「西欧文明の闇」として描いて見せた。

本作は、フランシス・フォード・コッポラ監督による名作映画『地獄の黙示録』の原案作品であり、『闇の奥』の「象牙貿易」を「戦争」に置き換えたのが『地獄の黙示録』だと言えようが、本作『闇の奥』と『地獄の黙示録』の大きな違いは、その具体性であり抽象性にある。

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しばしば指摘されるとおり、本作『闇の奥』の描写は、かなり主観的であり抽象的な部分が多く、一読なにが起こっているのか分かりにくい(読みにくい)という難点がある。それに比べれば、絵として見せてくれる『地獄の黙示録』は、非常にわかりやすい作品なのだ。

では、本作『闇の奥』のわかりにくさを、その「闇」の深さを、どのように説明すれば良いかと考えた時に、私の脳裏に浮かんだのが、『ツイン・ピークス』などで知られる、デイビッド・リンチの描く「闇」であった。

彼の作品に特徴的なのは、その「闇の深さ」と「非合理性」であろう。リンチの作品では、常に「日常世界」とその裏側にある「邪悪な闇の世界」の二重性が描かれ、「闇」による世界浸食の「不安」が、麻痺的なかたちで描かれている。だからこそ、リンチ作品には、不似合いとも思える「明るさ」や「笑い」も存在する。

コンラッドの『闇の奥』には、「明るさ」や「笑い」という要素は薄い。けれども、語り手である「船乗りのマーロウ」の登場場面では、彼は明るく、やや騒々しい人物とさえ描かれている。そして、そんな彼が語るからこそ、彼の「闇の奥」の記憶のトラウマ性が際立ってもくるのだから、この点でも本作『闇の奥』は、やはりリンチ的だと言えるのだ。

さらに言うなら、「闇の奥」地に住んで象牙貿易を仕切っている、カリスマ的な謎の人物クルツは、じつは、もともとは「理想主義者」であったことが、物語の最終盤で明かされる。つまりクルツは「闇の奥の闇の世界」に入ることで、「闇」に浸食されて「変貌」してしまったのである。そしてこれはまさに、テレビシリーズ『ツイン・ピークス』最終話における、クーパー捜査官の変貌と相似的ではないだろうか。
クルツが生きた世界とは、あの「赤い部屋」に似た「逆転した世界」なのではないだろうか(「赤い部屋」では、言葉が逆回転で表現される)。

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リンチ作品は、しばしば「難解」と言われるけれども、実際のところ、リンチ自身は「難しい理屈」を考えて、作品を作っているわけではない。彼は、この世界の裏側にある「闇」を直観しており、それを直感的に表現しているだけであって、だからこそ、わかる人にはわかるし、わからない人には金輪際わからない作品になっている。

それに比べれば、コンラッドの作品は、わかりやすい。彼が「西欧近代世界」の「闇」を批判していたというのは明らかであり、それを論理的に理解することは、きわめて容易だ。
しかし、「闇の奥」の描写は、なぜ、リアルな題材を扱いながら、抽象的なものになってしまったのか。そこが問題なのだ。

結論的に言えば、コンラッドが描いたのは、単に「象牙貿易の非人道性」でもなければ「西欧世界の欺瞞性」でもなく、コンラッド自身もふくめた、私たち人間の「心の奥の闇」なのではないだろうか。
コンラッドは、「暗黒大陸の奥地で展開された、西欧世界の闇」を通して、さらに私たち「人間の心の奥にひそむ闇」を描いたのではないか。だからこそ、それは「具体的」なものとしてではなく、自身の「心の奥」を覗き込むような、暗い抽象性を帯びたのではないだろうか。

初出:2020年11月6日「Amazonレビュー」

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