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「死にたい」って言われたら、何て言う?

さっき、母とあるテーマで議論を交わしました。

「人に死にたいと言われたら、どんな気持ちになる?」
「死にたいって悪い感情なの?」

と言うのが今回のテーマです。

私は2日前に、飛び降りを企図をしました。
その時、書いた記事がこれです。

私がこういう気持ちになった理由は、「多様性という概念に振り回された」と言うのが原因のひとつでした。
ここ数日、多様性について深く考え、多様性ってなんだろう?障害者理解ってなんだろう?どうして見える障害の人ばっかり、健常者ばっかり…と、悲しい言葉ばかりを投げつけられる日々を送りながら思っていました。
しかし、本当に企図の引き金を引いたのは、身近な人からのある一言でした。

私はその人のことを心から信頼し、いつでも悲しいことがあったら相談していました。
流石に「死にたい」とはダイレクトに言えなかったので、「死にたい人って、実は心はもう死んじゃっているんだよね」という旨の話をしました。
するとその人が、「そんなこと言われても返事に困る」と言った、そのたった一言で私は自死を決行しようとしたのです。

そもそも「自死」はマイナスイメージで、なぜマイナスイメージなのかというと、「何があっても生きることが良い」という人間社会の美徳があるからだと思っています。
世の中には「こんなに逆境なのに生きている自分」を自分で肯定できるひともいます。
「往生しないで死ぬ=マイナスイメージ」というのは、やはり生きることが「良い」とされる、動物としての本能とも言えるかもしれません。

私は死にたくなることがしょっちゅうなので、「死にたい」と言われれば「わかる〜」と言うし、「なんで死にたくなったの?」と理由を聞きます。
それで救われた経験も何度もあります。

でも議論を交わした母が言ったのは、「うーん、長いスパンで”こんな人生うんざり!”くらいに思ったことはあるけど、今すぐ死にたい、みたいなのは思わない」とのこと。なんと興味深い!
家族でこんなに考えてることが違って、感覚を感じる度合いも違うんだから、他人と違って分かり合えなくても当たり前だよなあ、と。

母は「多分死にたいなんて言われたらみんな困るよ」と言いました。
先ほど話したその人が「そんなこと言われても…」となったように、みんな反応に困るし、よほど知識がないとわかんないよ、って。
私は「わかって欲しいなあ〜」って思うけど、何しろ死ぬことはマイナスイメージなので仕方ない。
でも仕方ない、で終わっていいのかな?
だから死にたい人は「死にたい」と言えなかったり、死ぬことを予告せずに本当に死んでしまったり、精神を余計に病んで重篤な精神障害になったりするんじゃないかなあ。

私の場合ですが、「死にたい」と人に言われたら、少なくとも「困る」とか「やめてよ」とか否定だけは言わないで〜!と思います。
それを言われるくらいなら、何も言われない方がマシです。
人間、死にたい!と言える時はまだ救いようがある時なので、「どうしたの?」と聞いてもらえるのが1番いいです。

私が健常者を理解するとしたら、反応に困るって言うことと、そういう経験がないからわからないと言うことです。
テレビの構造が解らない人に「テレビのどこそこが壊れてあのパーツが必要だ」と言っても解らないのは当たり前です。
だから気持ちを発信したり、「どうして欲しい」と意思表示をしたり、相手の立場に立った発言をしなくちゃいけないなあ、と思います。
しかしそう言う気持ちの時、そう言う気持ちの人は取り乱したり錯乱したり興奮したりしていることがほとんどなので、「相手の気持ちに立って考えろ!」と言われてもできないこともある。
そこが「理解(したくても)できない健常者」と「理解してほしい障害者」のすれ違うポイントなんだと思います。

私の先日の投稿を、「正直なんて返したらいいかわからない」とか「なんかマイナスイメージ」と思った人は少なからずいるはずです。
でもあの時の気持ちは私の中に確かにあった気持ちでした。
「そういうのやめた方がいいよ」と言わず、あえてスルーしてくださったり、共感して励ましてくださった皆様には感謝しかありません。

私はあの時の気持ちを大事にしたいし、そういう気持ちになったことがないみなさんに「こういう気持ちになることがあるんだよ」ということを知ってもらうためにも残しています。
精神障害者って本当に追い詰められたらこんな気持ちなんだとか、切羽詰まるとこうなってしまうんだ、そういう時自分ならどうアクションするだろう、どう声をかけるだろう、と考えるきっかけになればいいなと思います。

今回の議論は母とお互いにオーバーヒートし(笑)、それでもお互いが「勉強になるねえ」で終わりました。
障害者は好きで障害を負っているわけではなく、死にたい人は好きで死にたいんじゃないけど、健常者だってある意味、それはそれで「運」です。
お互いに運の中で生きているんだから、「分からないを知ること」や「知ろうとする姿勢」って大切なことなんだなあと、母との議論を通して改めて感じました。


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