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自称HSPが「自称」についてのあれこれを語るなどする回。
どうも、自称HSPのすなおです。
自称HSPどころか、なんならオフラインでは自称天使💘を通してるくらいには図々しい人間です、はい。
自称HSP歴は来月の下旬で丸二年になります。
先日、Twitterでフォローしているかたが「自称HSPという言葉を見ると苦しくなる」とツイートされていて、本当そうだよねえっておもいました。
自称HSPに限らず、人にたいして「自称◯◯」という言葉を違和感なく平気で使ってしまう空気感って、本当に不寛容だし閉塞的だし前時代的ですごく冷たいって感じるもん。
とはいえこれは懺悔なんですけど、私自身も頑張っている人を考えなしに揶揄してしまう側の人間であったことも全くなかったわけではないので、人にたいしてそういう言葉を使ってしまうときの状況もなんとなくわかるのですよね。
自分を表現なり開示している人にたいして「自称◯◯」って言いたくなるときって、自分自身が自分を満足に表現なり開示しきれていないときなんじゃないかなっておもいます。
人の表現が鼻につくときや何かと人様の領域に立ち入って「物申し」たくなるときって、自分に表現・開示することを許せていないとき。
他人の表現を牽制したくなるのは、自分が自分を縛って制限をかけているからに他ならないわけで。
これは潜在的に自分をもっと表現したいと願っているときで、本当は他人の表現じゃなくて自分のことにもっともっと集中できる(のにしきれていない)ときなのだとおもうのです。
相手の表現に問題があるというよりもむしろ、自分が自分を許せていないということのほうが本質。
私も人の表現が気になるときがないと言えば嘘になりますが(いやフツーにある)、そうなったら自分をもっと見てあげるべきときなんだなって理解します。
他人側に向いてしまった矢印を自分向きに戻すために思考って使うのだと思うから。
「自称」って言葉ってほんとに優しくない。
その言葉を人様に向けて使いたくなるとき、それは人にたいしてというよりむしろ自分自身にたいしてもっと敬意を持ち、自分自身にたいしてもっと寛容に、そして優しくなるべきときなのだとおもいます。
自分に優しくしてあげられてたら、人様が何を名乗ろうとどーーーーでもよすぎてしょーもねえなってくらい軽くなるとおもうから。
共感できなかったとしても尊重はできるようになる。
すきなもの名乗ったらいいのよね。
知らない人から石投げ付けられたり 逆に多少怖がられたって、どう考えたって自分自身をまっすぐに表現している人がかっこいいよ。
よく言われる表現ですが、他人の表現や存在に安全なところから石を投げ続ける人生よりも、ばかにされても自分に表現させてあげることを諦めない泥臭い人生のほうが何億倍も美しい。
自称できる何かがないほうが、逆にこれから生きづらくなるんじゃないかなあ。
みんなが自分のアイデンティティとかすきなものを表現して、たくさんのハッピーな「自称〇〇さん」で溢れる世界になったらすてきだよね。
わたしもそのすてきな世界の小さな小さな一員になれたら幸せだなとおもいます。
おしまい。
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表現についてのあれこれ。
雑貨屋さんやってます。あそびにきてきて。
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